文章評論第一部
内海淡水写文集

芸術のはなし
 1〜8 2017.1.4〜2018.3.18

 

-1-
<はじめに>
正直に申し上げます。ぼくには芸術っていうことがよくわからないんです。世の人々が、なにをもって芸術とお言いになるのか、正直、よくわかりません。わからないから、わかろうと思って、あれやこれたと詮索してみましたけれど、やっぱり霧の中って感じで、明確な姿が見えないんです。皆さんは、どうなんでしょうね、ぼくだけがわからなくて、みんな知ってる。そうかも知れないし、そうでないかも知れませんね。なので、ぼくは、ここで、あらためて、芸術とはなにか、という問題を、ぼく自身に提出します。ぼくは、ああでもない、こうでもない、たぶん、右往左往しながら、答えていこうとします。いまどき、そんなこと考える奴はアホや、と言った友がいたけど、アホでもいい、時代遅れでもいい、とにかくぼくの気持ちが晴れないのです。

芸術ってなに、こういう問いかけは、どういう範疇に分類されるのでしょう。基礎演習でしょうか、たとえば法とはなにか、文学とはなにか、音楽とはなにか、なんていう問いかけの上位に蓋然としてある根本的な問なのでしょうか。目論見としては、螺旋階段を降りていくようなイメージで、次第に個別の問題に及んでいきたいと思っています。個別の問題に及んで、そこで、ああでもない、こうでもない、やっぱりわからなくなるのかも。断定すればいいのだ、と思う。過去に誰かが言ったそのことをベースにして、断定する。それはそれでいいかもしれないけれど、それは矮小化された結論ではないかと思えます。新しい時代の感覚で、新しい枠組みが作れないか、と思うわけです。

芸術作品、って呼ばれる目に見える物があるじゃないですか。たとえば絵画、彫塑、陶器とか。具体的には、モナリザとか、ミロのビーナスとか、あの茶器はなんだったっけ、有名なお茶碗。でも、なぜ、それが、芸術作品って言われているのか、その言われを問い詰めていきたいと思うのです。玉ねぎの皮を剥がしていったら何が残る、その要領で、芸術という物の皮を一枚づつ剥がしていく作業をやりたいと思うところ、そんなことできるのか。これはけっこうフェティッシュな、あるいはエロティックな、ヒトの心の奥をみつめ、あぶり出す、そういうキワモノなのかも知れない、と思ったりします。外観はどうでもよい、内側、内面、その無意識レベルの奥があぶり出せないか、そのようにも思うところです。

-2-
<絵描きさんのこと>
美術展という会場には、余り行く方ではなくて、たまたま招待券があるとか、無料であるとか、そういうときには見せてもらうことが多いです。ぼくなんかは、美術展をたまに見るレベルで、その厳かに飾られた会場へいきます。とはいいながらも、テレビで日曜美術館を観ますし自室には世界の美術がわかる全集があり、有名どころを集めた日本の画家さんの作品全集なんかもあります。漠然と西洋の絵画史や日本の絵画史などを俯瞰できる知識はあると思っていますが、論を立てるほどに精通しているわけではありません。論を立てるには、それだけの枠組みを知って、その枠組みから逸脱しないようにして、自分の主張を文章にしていかなければならないのではないか、と思うところです。

そういうことではなくて、というところからぼくの論がはじまるわけで、理路整然でないから、わけがわからないと言われてしまうと思います。理にかなったというか、論というからには言葉の組み合わせで、ピラミッドのように、あるいは五重塔のように、積み上げていかないといけない。でも、そうではない方法という方法もあるのではないか、と思う気持ちもあります。一定の方法に従わない、ルールを無視する。それでも、ほかの人に伝わることがあるとしたら、むしろその、伝わることがあるのではないか、と模索するのです。ぼくは日本語しか使えません。それも現代語、そのなかでも限られた生活用語ぐらいで、言葉の羅列で深遠な感情を導き出させるほどには洗練していません。

ごく最近、ある絵描きさんの作品展を見にいきました。激しい感動が起こった、ということではないけれど、なにかしらほのぼのとする気持ちになってきたのです。なになに?、言葉にはならない感嘆詞レベルの言葉しか出てこなくて、そのなかみに触れられないまま、作者さんがおられたので、前に顔見った方だったので、少し会話することができました。ぼくのこころの揺れかたのことです。その方の履歴が貼られていて、そこに<絵描き>と記されていました。ああ、絵を描く人なんだ、と思ってしまう自分がいました。アブストラクトな、幻想的な、イメージを立ち昇らせて描かれているハガキの大きさの絵。水を使ってないという絵具は、クレパスとかでしょう、ぼくにはその名称がわからない素人です。基本には日本画という技法を学ばれたようなのです。

-3-
この世の出来事のなかに「芸術」の出来事があるように思えます。
芸術することを人の営みのひとつの行為だとすることに異論はないと思えます。
人の営みの一つだとしたけれど、ほかにはどんな営みがあるのでしょうか。
基本的には、生きていくための営み、食べる、セックスする、このことです。
単に生きていくだけなら「食べること」でしょうが、子孫を残すことも必要です。
そうするとセックスして子孫を残していくことをしなければなりません。
それだけで済むかといえば、これだけでは済まなくて、共同体を構成します。
共同体はその後になって国家という概念で括られるようになる集団を構成します。
こういう組織化されるなかにあって、人は社会的な人格を得ます。
ところでこの社会的人格から外れて、個としての人になるとき芸術の領域になる。
社会的人格というのがあって、それの対極として、いってみれば芸術的人格がある。
そのように言えるのではないかと、思うようになっています。
社会のなかにあって、社会的人格は、経済活動に組み込まれた人格です。
観念的に考えて、この経済活動から外れるところに芸術活動が生じてくる、と。

-4-
芸術って文字が現わされてくるのは何時の時代か。
かなり最近のことではないか、たとえば20世紀の初めごろとか。
とはいえ現在、芸術という熟語があり、アートとかアルスとか同義語があります。
日本語で書くと芸術、旧字で書くと藝術、ということになります。
その芸術といっている中身のこと、あるいはどういう状態なのか、ということ。
芸術する、アートする、芸術作品、アート作品、行為をあらわす、結果の作品のこと。
この芸術ということの行為のことを捉えてみようと思います。
芸術するとは、モノを作ること、目に見える形のものを作ること、ということでしょう。
貴人で行為すること、共同ですること、共同では制作の工程があるから分担すること。
ここではまず個人で行為することに限定して、そのことを考えてみたい。
この行為は、表現ということ、内部の欲求を外部に表し現わすことでしょうか。
身体表現、言語表現、絵画表現、いろいろと表現する手段がありますね。
様々な表現形式が複合的に組み合わされて、芸術作品となるケースが多いです。
さて、とはいえ、表現する個人の営みのこと、個人はなぜ表現しようとするのか。
表現したい欲求でしょうか。
なぜ表現したい欲求が生じてくるのでしょうか。
人間の根源的な、これは動物としての根源的な、問題であるかも知れません。
食べる、子孫をのこす、欲求の根源は、このふたつにあるのでしょうか。
こういったレベルで、現在、芸術といっている個人の行為を見つめてみたいのです。

-5-
目覚めに、無性にバッハのミサ曲のイメージ音が頭の中を巡ってきたので、パソコンのなかに保管してあるバッハのミサ曲をクリックして聴きだしたところです。
す〜と気持ちが落ち着くというか、こころが昇華していく感じがしています。
どうしてなのだろうか、バッハのミサ曲、Mass in B minor と書かれているのが見えます。
女性のコーラスと独唱、ソプラノとか、バックはバイオリンでしょうか、かけあい、輪唱とゆうのでしょうか。
音の連なり、それ、ミサ曲、この音楽を聴きながら、いま、この手記を書いています。
少し、気持ちが落ち着いてきた気がします。
心を下から支えてくれている感じがして、あの絵の中のピエタの像にむけて祈る人のイメージが浮かんできます。

昨日の光景がよみがえってきます。
具体的な場所の記述やそこにいらした人のイメージの記述はしません。
いくつもの、善意に満ちた人との接触が、その顔が、表情が、脳裏によみがえってきます。
原野にたった自分の、裸の心を、包んでくれるような目の前の人の表情が、思いだされてくるのです。
そのころ、それぞれのそのころ、ラスコーの、アルタミラの、洞窟に痕跡を残した人の心は、これだろう。
絵を描く、音を連ねる、文を書く。
それぞれに道具を使って、心の痕跡を、自覚、無自覚を問わずに、残したのではないか。
ミサ曲を聴きながら、これには、バッハの心がベースで、形式としての声楽がある。
声楽を囲む楽器があり、たぶんナマでは聖堂、教会の場で、奏でられたのでしょう。
いま、それらの場を、パソコンが再現してくれて、目の前には黒いキーボードがある。
音だけで、映像イメージはないけれど、テレビやステージで類似の場面を見たことがある。
その見たことがあるイメージが思い起こされてきて、いま、男子と女子がかけあっている光景がわかります。

支えられているんだな、と、つくづく思えてきます。
裸形の自分が衣装をまとうように、心にも衣装をまとっているのがわかります。
幾重にもまとっている人の善意、物の手触り、それらに支えられて自分がいるということ。
死とは、それらがすべてなくなること、それが自覚というなら、自覚がなくなること。
ひとはそれを門出、首途、出発だといいます。
芸術について書こうとして、そのイメージを紡ぎ出しているのが、いまこのとき、わかります。
いろいろなアイテムがあり、それらに囲まれて、享受する。
その心をつむぎだすもの、そのことが芸術という容態ないかもしれない。
写真は、自分たちの門出の記憶を、閉じ込めた一枚。

-6-
芸術とは何か、ということを考えようと思って、このブログを作ったところでしたが、内容を埋めていくのに、あれやこれやと考えているうちに、一か月がすぎてしまいました。
芸術の概念というか定義というのがあると思うんですが、それを調べ上げて、これまでの芸術という概念を明らかにしないといけない。このように考えだすと、すぐさま芸術論ができるわけではないわけで、ちょっと困ったな、と思っているのが本音です。でも、我流ででも、これまであった芸術概念を言葉にして、そこから新しい、今、有効な、芸術概念をみちびきださないといけない、と思っています。

目的は、それをする人の在り方を規定するということです。それをする、という「それ」とは「芸術」のことです。そもそもの日本語でいう「芸術」という言葉が、何時頃から出現したのでしょうか。芸術という言葉の始まりとでもいいましょうか。アートとかアルスとか、西欧の言い方ではそのようになるかと思うんですが、そのアートとかアルスとかの語源というか使われ方の初めは何時頃なのか。推測する処19世紀、1800年代の何時頃からかと思うんですが。絵画では印象派とか、ひょっとしたらバウハウスの頃って、まだ芸術家なんて言い方、無かったんじゃないか。あてずっぽうですが、芸術を特別扱いするようになるのは資本主義になって、商品として貨幣価値に置き換えるようになってから、と聞いたようにも思っています。

言われてみると、たしかに商品としての芸術作品。価格がつけられ、第二の貨幣とも言われる作品。その作品を生み出すのが「芸術家」であり、つくられた作品が「芸術品」であり、それらの全体が「芸術」といえるのかもしれないです。その芸術のはなしをしているところですが、芸術とは何か、です。資本主義のシステムに組み込まれているとはいえ、たぶん芸術家の心は、資本主義のシステムに組み込まれない処での営み、といえるのではないか、と思います。資本主義のシステムに組み込まれるとは、生産工程の部分になること、つまり機械になる部分のことです。個人が、二つの側面を持つ、と仮定すれば、一つは機械になる部分、一つは機械にならない部分。この機械にならない部分で営まれ生産される行為が「芸術」することで、生み出される品物が芸術作品ということになります。

-7-
芸術とは、なんて考えていて、芸術作品を創りだすこと、これはやっぱり天才の仕業に違いない、と思ってしまいます。古今東西、とんでもなく特殊だと思えて仕方がない人間がいます。たとえば音楽ならベートーベンという人物、モーツアルトという人物、等々です。天才であることの細部を書かなくても、音楽をやった人にはその大きさがわかるはずです。さて、絵画なら、どうなんだろう。文学なら、どうなんだろう。その後、19世紀の中頃に写真が起こり、20世紀の初めには映画が起こり、21世紀の初めにはバーチャルリアリティーの作品があらわれていて、それらを担う人が、やっぱり天才としてのインスピレーションや処理技術をもってして表現している、のでしょうか。

そういうことでいうと、かってあったような芸術の形態において芸術作品を生み出してきた天才とは別に、新たな芸術を生み出す人がいるのではないか、と仮定しています。芸術ということが指し示す内容が、時代と共に変容してきているのではないか。だとしたら、この時代の芸術というもの、その枠組みを示して内容の変容を指示さなければいけないのではないか、と思うのです。この概要については論化できるとしても、その細部にいたる内容を明示する能力は、ぼくには備わっていないと思っています。でも、そのことができる人材を発掘しないといけないと思っていて、新しい枠組みを考えられる人が集まる「表GEN研究会ph」というグループを創ったところです。そうなんです、芸術とは何か、この時代に応じた解析と、この先を指し示すイメージを提起できる人材を育てる、そういう枠組みです。

芸術の枠組みは、基本は生産の現場です。手業としての生産の現場に、感覚としての時代感が組み込まれる。このように考えると、必用なことは「感覚としての時代感」ではないかと考えられます。感覚、時代感覚、というのは言葉によって論述できないことです。論述は、過去を分析することでしかありえなくて、これから起こりうることを予測することです。「これから」という未来は想定であって、イメージであって、予測であって、未知のものです。ただ「今」ということを的確に捉えないと「これから」がイメージできないし、イメージを作品として表現できないと思われます。できれば無意識ではなくて、意識的に論述でき、作品化できることが望ましいんです。意識化できる批評家と、無意識ながら感覚的に作品を創りだせる作家が、ペアになることで「今」を「これから」に繋げられるのかも知れないです。その意味において「表GEN研究会ph」を意味づけていきたいと考えるのです。

-8-
芸術という言葉が醸すイメージは、けっこう堅苦しいというか、古めかしいイメージを抱きます。藝術なんて古めかしい書体で記述されると、いっそう堅苦しく、高尚なイメージを抱いてしまいます。最近なら、アート、という言いかたがあります。昔はアルスとかとか言っていたみたいですけど、日本語にすれば<芸術>ということでいいのですね。なにかしら、表面の感じ方だけで、芸術という領域を漠然とイメージ化しているように思えています。それと、芸術という言い方は、20世紀になってからでしょうか、そんな気がします。というのは、バウハウスが始まったころには、まだ芸術家という言い方はなかった、と読んだ記憶があるからです。そんな芸術について、どういうことなんだろか、と思う自分がいて、それを自分なりに解明してみたいなぁ、と思うのです。




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最新更新日 2018.5.30

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