文章評論第一部
山紫水明

嵯峨野慕情-1-
 1〜6 2018.3.11〜2018.4.1

  

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 京都の西、愛宕山の麓から嵐山の北、嵯峨といわれ嵯峨野と呼ばれている地域があります。いにしえ、平安京のころ、いまから千年以上も前から、そこに文化が栄えた痕跡が今に残っています。ぼくは郷土史家でもなければ歴史家でもないから、専門の知識は残念ながら持ちえていません。もう古希を越えてしまった年齢だから、いまさら新たな知識を頭に詰め込もうとは思いません。いや、嵯峨、嵯峨野、その地は、ぼくの歴史、個人史のなかでも、半世紀以上にわたって、その地と交わってきたと思っています。生まれ育ちは京都市内で、古い言いかたをすれば洛中に生まれ育った輩です。そういうことでいえば嵯峨野は鄙びた場所、都人からすれば田舎です。ここでは<嵯峨野>と統一して語ろうと思いますが、厳密には嵯峨といわれている地域に、想いははせていきます。嵯峨は小倉山のふもとから大覚寺、嵯峨野はそこから平地を含んで広沢の池あたりまでのイメージです。

 ここでなにを語るかは、まだ漠然としていて、詳細は決めていません。歴史考証をするつもりはありません。とは言いつつも千年の歴史の中に埋まった記憶を、今に呼び寄せてくることもまま起ころうかと思います。むしろぼく自身の立ち位置を明確にしていく作業なんじゃないかと思います。そのすべては、ぼくが16歳になって、高校生になったとき、その高校の所在地がたまたま嵯峨野にあった、ということからその話は始まります。昭和の時代で、東京オリンピックが開催されたころ、時代はそのあたりへ戻っていきます。いっておきますが、事実と非事実が混在する内容ですから、ぼくの自伝ではありません。ある時代の雰囲気をノスタルジックに醸しだせれば、文学として成立するのかな、と思うところです。

 科学の領域で、土星探索のはなしをテレビでやっていました。ゲノム編集の現況をテレビでやっていました。外に向ける研究、内に向ける研究、ここまで拡大しているという驚きを覚えます。人類の歴史、なんて大袈裟なとらえ方ではないけれど、個人としての認識のことについて、興味があります。歴史の奥行と全体をイメージとして捉えて、そのなかをスイスイと泳いでいる感覚です。すべては自分という個体の内部において行われている活動、これが生きているということの証しのようだけど、ぼくは自己中心に徹しようと思うのです。いいえ利害を自分に求める、というのではなくて、利己主義ではなくて、結局、客観といっても、そういう位置を確保すること自体、自分主義に基づいているのだと思うわけです。ぼくが生きた72年のおおよそ半世紀以上を、地場として形成されてきた嵯峨野というイメージに、ぼくは思いをひろげていこうと思うのです。

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 大沢の池は大覚寺の境内です。大覚寺の東にひろがる人工の池であるそうです。この池の北に名古曽の瀧跡があり、石組みが残されています。由緒あるといえば一帯が由緒ある場所で、嵯峨天皇の別荘(離宮)として創られたのが始まりだといいます。後になって寺となり、真言宗大覚寺派の大本山だそうです。それほどに興味があったあったわけではないのですが、旧友の長澤氏が、数年前からここに採用されて、雑務的な仕事をされていて、いろいろ話を聞きながら、ぼくにも近い存在として感じられるようになったのです。中秋のころには、この池に舟をうかべて観月の催しをされるというニュースを見ます。優雅な催しのようで、昔をしのぶ貴族の風情だそうです。あるいは、古式豊かな、とか文化の上層を感じさせてくれます。

 この池の北側に名古曽の瀧の跡があり、行ってみると小さな石組があって、たぶんこの石組は、その当時からのモノであるのでしょう。何の変哲もない石組ですが、その時代の知識を増やせば増やすほどに、イメージ化されてきて、ロマンな気持ちに誘われるのです。何の変哲もない風景、それが人のなかに蓄積された知識と知識が組み合わされて、イメージとなるのですね。そのイメージは、絵に描かれたイメージであり、言葉をイメージにした人たちの功績をいま引き継いでいるわけです。そういえば<物語絵巻>というのがあって、これは言葉による物語を絵に仕立てたもの。今でいえば、小説を写真イメージにしたり、映画にしたり、ということです。ぼくは、このイメージについてのオリジナルを紡ぎだしたいと思うのですが、それは可能なのでしょうか。

 慕情という映画があります。アメリカ映画で1955年に公開された恋愛映画でしょうか、男がいて女がいて、ハッピーエンドではないのか、はるか以前に映画館で観たけれど、忘れてしまっているのか、結末が導けない。あるいは、観ていないのかも知れません。観たように思っているだけかも知れません。観たとしたら高校生の頃、1964年頃で、封切館ではなくて二番館、京都の祇園会館か美松映画館あたりだろうと思います。その慕情という言葉というより文字が、ほんのりとノスタルジーを抱かせるぼくのなか感覚です。この文字を使いたい、場所のイメージは嵯峨野です。嵯峨の野、という言葉を使ったけれど、まとめて嵯峨野としたところで、区域は少し実際よりもひろがっていきます。嵯峨野って、北野といっていたこともあったとか、いま北野といえば白梅町あたりで、北野廃寺跡という碑も立てられていますね。この北野寺というのが、いまは太秦の広隆寺だ、とうろ覚え、どこかで読んだように思います。この文章を書いているのに、参考資料として新撰京都名所図絵、昭和34年白川書院発行の第二巻が手元にあります。若干、パソコンで検索していることもあります。

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 広沢の池から千代の古道を通って大覚寺まで行く道からは、正面に愛宕山が見えます。もう春、青空、暑くいもなく寒くもなく、ゆらゆら歩いていくと向こうに黄色い畝が見えました。菜の花が咲いている、まだ畠の彩はそっけないけれど、黄色い花の菜の花が驚くほどに美しい。スマホで撮っておかなくちゃ、近くまで寄って撮らせてもらいました。今週は嵯峨野へ赴いて、イメージ創りをしていて、写真はスマホで撮っています。これまでだとコンパクトデジカメですが、それで撮っていたのですが、スマホ一本にして、撮ったコマのほぼすべてを採用することにしました。とはいっても、撮ったコマは、インスタにあげるモノはその場で編集してアップするようにしています。ライブです。これは正方形の画像となります。それとは別に、横にして撮るのは、ほぼ広角です。35フィルム換算で28ミリくらいの広角でしょうか。ほぼ単体レンズ感覚で撮っていきます。その一枚が、掲載した写真です。

 さて、千代の古道ですが、平安の頃のはなしですが、天皇が御所から嵯峨離宮へいくときに通った道、だとの説明がなされています。嵯峨野慕情というタイトルで物語を考えているところですが、どうもこの天皇さんの痕跡が、いっぱいあって、そのことを抜きにしては嵯峨野慕情が成立しないような気がしています。というのも、京都の特徴はといえば、雅文化であって、公家さん、天皇さん、そのことを意識しないとイメージが作れないように思えます。ぼくは、千代の古道の千代とは、加賀の千代さん、あさがおにつるべとられてもらいみす、って俳句を詠んだ女子のことかと思っていましたが、そうではないようですね。嵯峨野に女子と男子の物語を敷いて、文章にしていくかと思います。思い当たるのは祇王のこと、平清盛の寵愛をうけたという祇王。彼女は白拍子で、この子も加賀の小松出身でした。俗な言い方すれば、清盛に手籠めにされた、ということでいいのでしょう。男と女の物語は、悲恋ですし、悲哀を伴います。

 嵯峨野慕情、いま、聴いている音楽は、ヘンデルの音楽です。あまり聴いていませんが、つまり古典派だというから、古臭いと思って、バッハの次で、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンとくるわけでしょ。古典派五人の音楽家、そのひとりです。たしかに形式が先行しているのかも知れないけれど、なかなか聴いていて、ロンドとかフーガとか、楽式の研究みたいなのを、十代の頃、まだ音楽大学へ行きたいと思っていたころに少し本を読んだ程度ですから、中途半端です。日本には雅楽というのがあるじゃないですか。耳にすることはままあっても、詳しいことはまったく存じないところですが、笛の音、源氏物語の中に、笛を吹く方がいらして、その音色が素晴らしい、そういう場面があったと思うんですが、笛を吹いていたのは男子、だとばかり思っていますが、女子だったのかも知れない。最近の高校生らの吹奏楽団には女子が大半だそうですが、五十年前には、女子は笛ですよ、フルート、ピッコロ、それとクラリネットなど、木管楽器でしたね。様変わりしています。

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 嵯峨野を想うとき、その物語は悲哀に満ちているように思われてきます。物語といえば源氏物語や平家物語、随筆といえば枕草子に徒然草、俳句の世界では向井去来の落柿舎や句集猿蓑、芭蕉の嵯峨日記、古典文学の世界では、嵯峨及び嵯峨野を抜きにしては語れないほど、イメージは豊富です。そのイメージ自体が、ぼくには悲哀に包まれているように感じられるのです。これは主観の問題だから、当然、個人差があって、美しい、哀れ、艶やか、清々しい、いろいろとイメージをふくらませることができると思います。が、嵯峨野は、悲哀イメージです。女子の駆け込み処になっている直指庵とか、縁結びの祈願をする野宮神社とか、イケメン男子を想う女子の哀しみの影がつきまといます。源氏物語だって、女子の悲恋物語のような気がします。笛の音の話をこの前に持ち出しましたが、音楽の悲哀さでいえば、チャイコフスキーでしょうか。

 チャイコフスキーの凍るような寒々しさは、京都北部の山ぎわの寒さに通じるようにも思えます。チャイコフスキーはロシアの音楽家だから、その凍りつめたような旋律の繊細さが、寒さを感じさせ、悲哀を感じさせるのかも知れません。第六番の悲愴を聴いていた頃、祇王寺の祇王という女子のことをイメージしました。わたくし17歳のころです。嵯峨、祇王寺の市中のほうに清凉寺、嵯峨釈迦堂があります。ここの山ぎわの道を化野のほうへ行く途中に、精神科をもつ病院があります。この病院のことを知っていて、ひそかに、相談に行こうかと、思ったことが思い出されます。17歳の凍えた心を支えるものはなく、あったのは音楽でした。まだ文学に耽るまえのことで、チャイコフスキーの悲愴が、なんともいえない慰めの曲、ぼくへのレクイエムだったのかも知れないです。文学は、詩から小説へ、小説では堀辰雄から太宰治へ移行していくのでした。

 嵯峨野慕情というタイトルをつけて、物語を作っていこうと思っていて、フィクションとノンフィクションを重ねながら物語になっていったらいいなと思っているところです。別にフィクションで書いていて、淡雪の街が行き詰ったので「春の匂い」という表題で書き始めました。淡い恋、まだからだの関係になるまえの、青春物語を書こうと思っているのですが、本音ではリアルなセックス表現で書きたいと思っているところです。物語の女って表題の小説があったように思いますが、堀辰雄だったかですが、むしろ人間失格や斜陽の太宰に近づきたいな、とひそかに思っています。いまさら小説家を名乗るつもりはないけれど、書けば書くほどその表現の稚拙さが見えてきて、もう、やめようかと思いながら、やめられないでいるのです。もう高齢者講習を受けに行ってきた年齢です。ますます淡い恋の物語を書きたいと思うところなのです。

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 嵯峨釈迦堂、清凉寺で撮った桜の写真を掲載しました。3月18日に赴いたときに撮った写真で、河津桜とか、早咲きの桜だと分かりました。それから以後、嵯峨から嵯峨野方面へ、何度か入っていきます。かって高貴な方が嵯峨へ赴くときの道を探しながらです。千代の古道という石の道標があって、どうもこのルートが高貴な方が通った道のことだとわかりました。このルートひとつだけなのか、それともほかにもルートがあったのか。ある意味で、そんなこと、どうでもいいことなのだけど、けっこうこだわったりしてしまいます。もう7年ほど前に、立命館の京都学講座を受けたことがあって、その中で、そのルートの話があったことを思い出していました。それは、市中から木辻通りを西にきて、という話で、この道は妙心寺の門前になります。つきあたりが双ヶ岡で、そこから今でいう丸太町通りを通ったのか、一条通りを通ったのか、わからないのでした。でもたしか太秦の広隆寺のなかを通ったというはなしで、三条通りを、帷子ノ辻から車折神社のあたりから、嵯峨へ入ったのではなかろうか、と推測したところです。いま、まだ、ぼくの中でそれは解決していませんが、その後、千代の古道のことを知ったので、次に記述しておこうと思います。

 千代の古道は、広沢の池の西から大覚寺にむかって進む道でしょうか。広沢の池の前は一条通りで、自動車道は嵯峨の清凉寺手前を左にとれば嵐山にいたる道です。この道ではなくて広沢の池横の神社の裏から農道にはいっていきます。このルートは、先に知ったので歩いていって、先日、大覚寺まで行きました。それとは別に、一条通り、山越バス停の向かい側に千代の古道の道標があって、ここから広沢の池西側までの一条通りが古道だったようです。一条通り山越のコーナーから東南に柵で封印された道がありました。京都市が管理している地で、音戸山とあって立ち入りらないでくださいとの表示があります。実はこの道のどこかに「さざれ石」があると佐野さんから聞いたので、ちょっと後ろめたい気持ちでしたが、ゆるゆると昇っていくと、百mほどでしょうか、右に「さざれ石」の石標があって、その上に横幅3mほどでしょうかこんもりした石が見えました。国の歌にされている「君が代」のなかの詩句に、千代に八千代に、という言葉があって、この千代に由来している呼称なのだと、わかりました。市中から嵯峨への行幸は、この山を越えてきたのだろうかと、思う次第です。どうなんでしょうね、双ヶ岡の南、花園からこの道へはいって、一条に抜けていくのでしょうか。千年ほどまえのことです。

 嵯峨野には古墳があって、いくつもの古墳群になっていて、その調査がけっこうなされていて、専門外のぼくは、ついこの前まで、そのことを知りませんでした。知識として結びつかなかったのです。古墳といえば大阪泉南のほうとか、奈良の明日香とか、そのイメージでした。考えてみると、権力の移動によって都が定められ、その地の外郭に墓があるということです。でも、嵯峨野の古墳は、平安京が造営される以前のことのようで、まだ京都が都ではなかったときに土着していた、なんだろ豪族がいて、その人らの墓だったのか。渡来の秦氏がこの地を治めていたという話は、よく聞いた話で、そのことも含め、古墳時代には京都の嵯峨野も古墳時代だった、ということでしょう。嵯峨野慕情と言葉を繋いで、そこからイメージしながら、立ち昇ってくる知識を繋いでいく作業をしていて、かなりライブ感覚で、この文章を書いています。以前、原稿用紙を使って、ペンで記述していた時には、推敲に推敲をかさね、言葉のひとつひとつを吟味して連ねる、といったようなことをやっていたわけだけれど、いまや、そんなことはほとんどやらなくて、ライブで発信し、それが蓄積されていくという風です。まあ、中身が薄くなった、文体崩しだ、とでもいえばいいかもしれないです。

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 そこは嵯峨野ではなくて、嵯峨の地名になると思うのですが、祇王寺という庵があります。ここの庭は、手入れがされていて、一面、苔に覆われています。前にも触れたけれど、この祇王という女子。白拍子だというから、当時の京の路上で、ダンサーをして投げ銭してもらっていた踊り子、舞妓。たぶん、投げ銭で稼いでいたんだと思っていますが、この女子が近江野洲から母妹とともに京都へやってきた。祇王は時の権力者平清盛の寵愛を受けたというのです。その後、清盛に捨てられ、隠居の場所として、いまある嵯峨の山裾に住んだというのです。なにかしら、詳しいことを知る由もないのですが、棄てられた女、としての悲哀なのでしょうか。悲哀の女子イメージで、語られることが多いですね。

 この祇王寺と並んでいるのが滝口寺。詳しくは知りませんが、小説で滝口入道というのがあります。ウイキペディアで調べると、高山樗牛が1894に書いた小説だとあります。西暦1894年というと、明治の何年になるのか、明治30年代のころでしょうか。滝口に控える武士、宮中を護衛する武士、滝口とは宮中の一番奥に控える武士のこと?でしょうか。祇王寺と滝口寺が並んであるとことが、観光スポットでもあるんですね。祇王の物語は、物語としては書かれていないと思うのですが、もう半世紀以上も前、1965年にぼくは19才で、祇王を主人公にした小説を書こうとした、書いた、一応、書きました。ぼくの処女作ですが、どこにも発表はしていません。いまその原稿は、手元にはありません。ぼくの記憶の中にだけ、存在するフィクションです。今なら、どんな風に書くだろうな、いろいろと思惑するところです。

 小説で思い出すのですが、樋口一葉って女子がいらっしゃるじゃないですか。明治のいつごろ?まだ硯友社が文学の中心だったころの女子だったと思います。これまで余り詮索しなかったけれど、彼女は文学、近代文学の枠組みで小説を書いた、のではなかったか。たけくらべ、おおつごもり、小説を読みました。哀しい気持ちがする小説でした。読み直してみたいが、いまはその時間がない。記憶だけで語ります。淡い恋を感じさせる話。大晦日に支払う金がない、という貧乏の話。なんかしら少女の語り口のように思えるのは、一葉の肖像写真のせいかもしれませんね、お金の顔、五千円ですかね。わすれたけど、明治のまだ日本の近代文学が十分に成熟していないころの、ロマンリアリズムなのではないですか。金子みすずって女子もそうだけど、俊山晶子さんもそうだけど、感性豊かですね。ぼくもおおいに見習いたいところです。



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最新更新日 2018.5.27


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