というのも、ぼくは小説を書こうと思っていて、それも通読小説、風俗小説、エロ小説なんていわれるかもしれないものを、模索しているんです。もう高齢になってきて、いまや枯れてしまった肉体なんですが、残滓があって、それは感情です。その感情を満たすための情感として、それを試みたいと思っているようなのです。「はなこよみ」ってタイトルで書き始めたところですが、そうですね、構想をいろいろと想像しているだけで、そこに没頭していける感じがして、生きてる感触を得たいと思うんです。実際に、そのことは、自分体験として、有効に作用しているようだけど、誰にもそんなことは言えません。というのも、それはやはり、読む人に情欲を起こさせようと企てているからです。
-2-
インターネットの発展というか深化で、状況が一変したと考えています。ネットにつながれたパソコンで、その気になればいとも簡単にエロス分野へアクセスすることができます。ただし18才未満は見てはいけない、原則禁止ですが、ともあれ、ひところといっても、1990年代の半ばからインターネットがつながるようになったから、およそ20年弱です。実際にはインターネットの大衆化はこの10年というところでしょうか。ネット上のエロスサイトは、動画が主流になってきて、いりぐちは無料でその奥には有料の会員制ということになっています。有料だとしても、パソコンがあって回線につながれば、見れるわけですから、誰にも知られずにそれらを見ることができる。
ひところといえば、書籍とビデオ、書店で雑誌とか書籍を買う、レンタルビデオの店のアダルトコーナーから選んだビデオをカウンターで貸し出しの手続きをしないと借りられない。つまり、手に入れるには、人目に触れなければならないのでした。そういえば自動販売機ってありました。大人の玩具なども自販機で買えたけれど、街角で人目にふれてしまうのでした。通販と云うこともあります。あの手この手でエロス分野の書籍とビデオを手に入れたい欲望を満たす商売が存在しているのです。ビデオが無かった頃といえば、8ミリフィルム、書籍ではなくて、温泉場などで秘密裏に公然と売られていたガリ版刷りの冊子とか、いずれも今ほど簡単に手に入る代物ではなかったのです。
エロス表現されたコンテンツを、具体的な形にして販売される代物としての推移を見ていますが。じつは、その中身のはなしが、重要なわけで、たとえば陰毛が写ったヌード写真が公然と現われるのは、1990年代半ばだったか、篠山紀信氏が撮った女優のヒグチなんとか子さん。ビニールがかぶせられた、ビニ本。そういえばビニ本は一冊千円、かなりきわどいところまで露出させて、売られていたように想い起こします。ネット上でアクセスしていくと、これは世界共通、アドレスさえ入れれば、瞬時に世界中のサイトにつながります。日本国内サイトは、性器が見えてはけないからぼかしてありますが、そうではない国の画像や映像は、ぼかしてありません、無修正です。これが見れるわけです。
-3-
平凡社から出版されている別冊太陽のなかに、発禁本をとりあげた巻があります。2001年発行の地下本の世界、2006年発行の春画、ほかにもあるようですが、21世紀になって公然と陽の目をみるようになっています。最近では2010年に奇譚クラブなどの雑誌ページが、ネット上で公開されています。そこには、明治期以前、以後、昭和期のガリ版刷りの本などが、発禁本を軸に公開されています。浮世絵「春画」などは江戸期のものです。このように列記すると、人間の欲望、いつの時代にも、その時々の道具を使って、絵画イメージにしてきているし、写真処理ができるようになると写真イメージが作られるようになり、出版物としてあらわれてきたのです。1980年代になると家庭用のビデオカメラと再生機が家電店で買えるようになり、それとともに、ビデオテープが書籍と同様に売られるようになり、レンタルビデオ店が現われてきます。今なら、それがネットを通じて、ということになるのでしょう。
ひとの興味の本質は、おおむね異性のことであり、顔、身体、性格、その他様々あると思いますが、なにより性器にあり、といえばいいかと思います。女子においては男性器に、男子においては女性器に、その興味の本質は生殖にあると思っています。この性器を露出させること、これは、日本国内においては、露出させてはいけない、目にふれることはできない、ことになっています。だから日本国内で制作される限りにおいては、これの表現をどう扱うかということが、制作者として、思いはせるところなんです。つまり、ぼくはエロス表現を、文章によってなそうとしていて、そこに文字・単語・熟語として、どのように組み合わせて表現するかということに思慮するわけです。性行為表現以外であれば、誹謗中傷をさけてとおれば、それなりに表現の自由が認められていると、思っています。ところが、性行為表現を含むエロス表現のばあいだと、かなり制約されるのではないかと思っています。
性行為の描写が、映像ではなくて文章によってなされるとき、どんな単語または熟語を使ったらイケないのか。あるいはどんな単語・熟語で、あっても使える。どうなんでしょうね、禁句となる単語、熟語。文字として書き表すだけで、イケなくなる線はどこなのか。ぼくは、かなり気を使って、直接表現は避けようとの配慮があります。もちろん、18禁ではなくて、一般に公開する小説またはエッセイということのなかで、どこまで遠回りをしながら、情欲を起こさせ得るか。情欲を起こさせる度合いでいえば、究極、読んで射精させられるか、読んでオーガズムを迎えられるか、性行為の代償ではなくて、性行為に匹敵するだけのイメージ構築ができるかどうか。そうなると、言葉の単語の熟語の、その羅列が、そのような情欲を起こさせる並べ方、つまり文章表現の、文体において、それは判断されるのかも知れない。誰が、その判断をするのか。表現者と権力構造の担い手が衝突するところの、衝突しない限界は、どこなのだろうか。まさに、いま現在の時点において、どこまでが地上なのか、ということなのです。