文章評論第一部
山紫水明

京都北物語
 1〜7 2018.5.2〜2018.5.13

  

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 京都の北、といっても現在の京都市内の北部、上京区から北区地域です。平安京が造営されるのが794年のことですが、その一条よりも北部地域を想定しています。そこは狩場であり、紫栽培地であり、芸術発祥地であって、ぼくは日本文化の、その精神の基底を成している処として捉えているのです。それをいくつかの系統にして、物語風に検証していきたいと思うところです。というのも、ぼくが生まれて育ってきた地域、ぼくの生活基盤を置いている地域が、京都の北、紫野の一角にあるからです。生活地域的には、北区と上京区にまたがる地域だし、昭和27年だったかに行政で北区が誕生する前には上京区であったし、それ以前には、愛宕、葛野、とかいう地名が冠されていたようです。

 ぼくは宗教の場所から、その精神の基底が育まれるのではないかと、想定しているところで、そのことでいえば、上賀茂神社を最初にあげておこうと思うのです。平安時代からの祭りとして「葵祭」を有しているし、平安京造営以前から、加茂氏一族が住まっていたと聞く場所の象徴として、「加茂別雷神社」、通称「上賀茂神社」というのです。ぼくのこの意識も、いまは名前を伏せますが、その友人が加茂氏の末裔だとの話を聞いて、また加茂氏がいかにして今の地域に住みついたのかという歴史も拝聴したので、この物語を起こす最初のページは、これだ、と思っているところです。ぼく自身は、そういう事でいえば、何者だろうか、という疑問が、自分を知るという行為につながっていると思っていて、これまでに二度、京都の生まれ育った場所について詮索してきたところです。

 第一期は1980年前後、カメラを持ってあちこちと取材していました。第二期は2008年から意識して「京都」を写真にしていこうとしていました。第三期がいま、これから始めようとする「京都北物語」です。ぼくが生まれ育ってきた主たる場所は、紫野のなかの柏野地区です。上京区と隣接していて、子供の頃の遊び場としていえば北野天満宮が中心となりました。祭は玄武神社の「やすらい祭」です。洛中洛外という区切りでいえば洛中にあり、仏教寺院でいえば、ぼくの菩提寺となっている寺は、法華宗の本法寺であり、室町時代の末期にあたるのでしょうか、京都文化の拠点が、本阿弥光悦、長谷川等伯など、今に至る作品を残す地域となると思っているところです。下書きなしで書き進めていくので、これは草稿です。メモの類かも知れませんが、行きつ戻りつしながら、書き進めていきたいと思います。掲載写真は上賀茂神社風景、2018.4.30です。

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 上賀茂神社と写真にある櫟谷七野神社との関係はといえば、かって斎王に選んだ女子を住まわせておく屋敷がここにあった所で、いまは神社になっているというのです。いまちょうど、葵祭が始まっていて、あした4日には上賀茂神社にて「禊の儀」が行われると書いてあります。祭の行列は斎王が神社へ連れて行かれるときの行列だというのです。勅使の行列のあとに御輿(およよ)に乗せられた斎王がいて、そのあとに女人列がある、という行列ですね。嵯峨天皇の皇女が初代とされ、後鳥羽天皇の皇女で終わったと記されています。ここは大宮通りの西、蘆山寺通りの北に位置していて、150m四方の敷地だったそうです。行列が斎王を送り届け、斎王は一泊し、ここへ帰ってくるようです。

 天皇家と加茂神社との関係に興味を持ちますが、ぼくがこの場所に興味を持ったのは、2008年から始めた京都取材のなかで見つけたことからでした。その当時に瀬戸内寂聴さんの源氏物語を読み、源氏の君が勅使となった行列を見ようとしてけんかになる場面がありました。ああ、これだこれだ、ぼくはその光景を想像しながら、納得したことでした。源氏物語のことをいえば、原文なんて読んでいなくて、高校の古文で冒頭のさわりを暗唱したくらいでした。京都の北に王朝の風俗がイメージされてきます。京都女人草紙の取材は、このあたりから生まれてきたシリーズでした。さて、ぼくのこの京都北物語の初めを加茂神社と斎王から書き起こしていますが、ここが原点とはいえ、ぼくの原点ではありません。

 ぼくの原点はといえば、神社でいえば北野天満宮になるかと思います。ぼくは居住地の関係から玄武神社の氏子になり、祭は「やすらい祭」です。そのことでいえば、賀茂神社というのは二段構えの上段にある神社のイメージです。そもそもぼくの京都に、なぜ神社なのか、という問題が浮上してきます。明らかにしておかないといけないと思うのですが、ぼくは神道を知る輩ではなく、神道を崇拝する輩でもありません。でも知識の中で、京都を紐解くためには必要な、むしろ必須条件のような気がしています。あるいは権威の象徴のごとく捉えているのかも知れません。ぼく自身の出自にあわせて、庶民そのもののぼくの系譜とは真逆にあるイメージです。庶民のことはわかる気がします。でも、特権階級の人々のことなど、わかろうはずがありません。といいながらも文化を担ってきたのは、そういう人たちではなかったのか、とも思うのです。

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 玄武やすらい祭を毎年4月第二日曜日に行っている玄武神社です。京都の北の守り神、方位で北を玄武といっていますが、その玄武です。ちなみに南は朱雀、東は白虎、西は青龍、京の都もこの方位に基づいて造営されたといいます。玄武神社は、その北からの疫病守りをする神社で、877年から885年あたりに起こされたとあります。位置的には、船岡山のほぼ真東数百メートルでしょうか。ここに、記事として取り上げるのは、ぼくがこの神社の氏子になるからです。氏子という制度ですが、京都でいえば町内単位で神社の氏子になるみたいで、ぼくの家は玄武神社になるんです。それから蛇足ですが、京都市民は、平安神宮の氏子になっている、というのです。そんなこと言ったら伊勢神宮の氏子になる、ということでしょうね。この氏子制度は、最近、知ったことです。

 祭はハレの場で、いま5月のゴールデンウイークですが、玄武神社のやすらい祭はもう4月に終わってて、明日5日には今宮神社の祭礼です。神輿が三基出るんでしたか、その神輿が御旅所にやってくるんです。玄武神社の道路を挟んで西側が、今宮神社の御旅所になります。子供の頃、おたび、おたび、と呼んでいました。そ場所は今宮の祭の御旅所のことでした。そうですね、庶民が神輿を拝みにいくんですね。神輿を拝むんじゃなくて、神輿に乗っておられる神様を拝みに行くのですね。ぼくのこの話は、祖母のことを思い出して、書いていますが、御旅所には屋台がいくつも並んでいて、遊びモノや食べモノを売っていました。今宮の祭では、子供の頃には行ったことはありませんでした。いつも祖母が、おたびに行ってきた、と言い、土産にあぶり餅を買ってきていました。この御旅所へは、家からは遠いので小学校の高学年になるまで行きませんでしたが、高学年になって、母が自転車の荷台にブン回しを乗せて、当てもんの店をやっていたのを、見にいったことがありました。2008年以降の京都取材には、今宮神社、御旅所の撮影をしていて、帰還する神輿は男衆に担がれて、よっしゃよっしゃしてるのを近くで撮影しました。

 祭って、神さんが関係した行事ですね。濃厚に関係していて、神に対して人間の立場、この立場は自分でいいと思うのですが、つまり祭と自分との位置関係、といえばよいでしょうか。今宮神社の行列も、北野天満宮の行列も、神輿を市中に出す行列ですね。玄武神社は花鎮めの隊列で、花傘が出て、鉦や太鼓で鬼、小鬼が踊ります。笛のお囃子があります。葵祭は、斎王が加茂神社へ参る御輿行列です。ちなみに北野天満宮は随喜祭(ずいきまつり)と言っていますが、随喜神輿は、神が乗っているんじゃなくて、民衆が農生産物の献上で、神社の列とは別です。祇園祭の山鉾は、民衆の方でつくる催しで、八坂神社からは神輿が出ます。祭は、生活者の息抜き、晴れの場なのです。話を神社に戻しますが、日本の風土をイメージでとらえてくると、神社の力がとっても強い気がします。神社仏閣というときの仏閣、つまりお寺ですが、精神文化的には神のこと、神社のこと、われら精神の基底を成しているようにも感じます。

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 今日5月5日はこどもの日だけど、今宮の祭の日でもあるのです。神幸祭という名称がついていて、神さまが市中へ顔を見せにお出ましになるのです。ぼくはこの祭りの仕組みを、還暦を迎えるころまで知りませんでした。知る由がなかった、というのが事実で、教えを乞うこともなく、つい最近まで来たというわけです。ようやく最近、日本(にっぽん)という言葉を発せるようになり、でもまだ天皇制という言葉は言えても、天皇、という単語は言葉に出すことができにくい。どうしてなのか、と考えてみたのが50半ばでしたか、ぼくの受けてきた教育の問題だな、と気がついたのです。具体的に言うと、ぼくの生年は1946年、戦争が終わった翌年です。日本では、天皇は、宗教の範疇で権力として存在したから、戦後教育のなかでは、教えなかった。そういうことと、家族がそのことを教えてくれる環境でもなかった。

 実存主義とか、唯物論とか、高校生になるころには、人間を神の子ではなくて、単なる動物としてのとらえ方を学んできたように思えます。異性を好きになる事、ぼくは男子だから女子を好きになる事ですが、貞節を守るというのか、けっこうセックスについては自分に律することばかりで、プラトニックラブというんだと教えられ、そういうものだとストイックに思っていたように思えます。男と女の関係に至るということは、結婚するという前提であって、それ以外の何物でもない、そういう時代の思想の中で育ったのだと思います。もう少し年配になると赤線地帯があって、そこで男は筆おろしをする、なんて風習があったように聞きますが、ぼくの時代は、それは廃止されていて、遠いところの話でした。宗教といい、性のことといい、かなり歪んだ社会の中で育ってきたのではないか、と思うところです。

 歪んだ社会、と表記したけれど、宗教と性を解禁すればいい、という考えでは全くなくて、それなりに教育の中で学べる環境は必要だと思うのです。特定の宗教を強要するなんて全くいけないし、性の解放だとはいっても無分別では全くいけないと思います。といいながら、自問してみて、自分はどうなのだ、と問うてみて、良識はあっても心情はそうではないですよ。宗教の問題は、芸術の底流と相似たところがあるのではないか。芸術作品を制作する者の心情と宗教を語る者の心情とが、けっこう包括的に相似ているのではないかと思うのです。政治機構と経済機構が社会を構成する構造だとすれば、その無機質な構造に情を込める対象として、宗教と芸術がある、と思えるのです。話がちょっと抽象論になってきたので、話を平場に戻したいと思うから、一旦ここで今日は終わりです。

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 日本の最初の小説は、源氏物語だと言います。西暦1008年に完成したのでしょうか、もう十年も前になりますね2008年に源氏物語千年記というキャンペーンをやっていたのを覚えています。ぼくがその源氏物語を読んだのもその頃です。翻訳本としてです、もちろん、瀬戸内寂聴さんの源氏物語です。若いころから源氏物語の口語訳本を持っていました。与謝野晶子翻訳の源氏物語、谷崎潤一郎翻訳の源氏物語、手元にはなかったけど田辺聖子さんも源氏物語を翻訳しています。結局、本文を読むまでもなく、わかったつもりをしていたのです。というのも源氏物語のことに触れられた文章を、いつか、どこかで、読んでいたからだと思います。でも、読んでいない自分を恥じて、文庫本で瀬戸内寂聴さんの源氏物語を読みました。でも、これはダイジェスト版で、単行本の全集までには手を伸ばしておりません。とまあ、こういう自分の不勉強を晒して、京都北物語の一筋を、紫式部さんにスポットを当てます。

 紫式部のお墓というのを見つけたのは2007年、この年の12月に写真を撮りに行っています。それから何度か取材していて、今回スマホで撮るとしたので、訪問したところです。上賀茂神社に片岡社という末社があるじゃないですか。そこに紫式部の記述があって、関係あるんだ、と思っていました。それから紫式部通りというのがあって、なぜそういうでっちあげをしたのかといえば、雲林院の前の通りなので、関係があるのか、と思うわけです。墓所の選定においても、雲林院の云々から場所を推測して特定して、そこに作ったということでしょう。墓地をそこに作ったといういきさつは知りませんが、お墓があるのです。この紫式部通りは、もちろん正式通り名ではないんですが、大徳寺の東側の道、北大路から南の、右には建勳神社への道、そこに突き当たるまでの間を、紫式部通り、呼んでいるけど、現在も呼んでいるのかしら、です。その道筋というのは、牛若丸と弁慶の五条大橋でのやりやい、歌があるじゃないですか。あの五条大橋ってのは間違いで、御所の橋の上だというのです。雲林院の前に小川が流れていて、そこに御所につながる橋が架かっていて、牛若丸と弁慶のやりやいは、ここだというのです。牛若という地名が近くにありますから、というのです。

 紫式部と牛若丸っていえば、時代的には平安時代ですが、200年ほど生まれた時が違いますね、紫式部は970年ごろ、牛若丸は1159年生まれとあります。たぶん、美女イメージの紫式部、可愛い男子イメージの牛若丸です。色気を感じるじゃないですか。それに源氏物語なんて、恋物語でしょ、男と女、糸が縺れるように、縺れた糸をほぐすように、男と女、美しいイメージで描かれるじゃないですか。源氏物語絵巻ってゆうのもさっと見ました。十二単を纏った、お人形のようなお顔の女子たちが、そこには描かれているじゃないですか。紫式部さんは文字で書いていて、その文字列は流暢すぎて、ぼくにはまったく読めませんが、瀬戸内寂聴さんの文章を読む限り、とっても美しい、日本の美しさ、というイメージです。でもね、女子のところへ、男子がやってくるわけでしょ。何が起こるかというのは、想像できるでしょ。でもその浮世絵の春画のようなことが起こっているんだと思うんですが、そういう描写がありませんよね。それがそれで、これはこれで、素晴らしいことだと思いますが、小説の原点が、そういうことになるのか、つまりセックス描写は禁句なのか、と思う次第です。ずっと下って1682年、井原西鶴の好色一代男の描写を待たないと、開放されなかったのか、と思うところです。紫式部さんと源氏物語については、もう少し書いていかないといけないと思うところですが、ひとまず今日はここまでです。

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 紫式部のことが話題になってきたので、今朝、パソコンで検索しながら、紫式部と源氏物語について、知識を得ていました。先だって、上賀茂神社からのルートで、掲載写真の雲林院に寄ってみたんですが、そのときには紫式部の墓が、この地から360m東にあるという記述を確認し、その墓所へは翌日に向かったものでした。紫式部が、晩年にこの雲林院に住まったという記述があるので、そういうことか、それで墓が近くにあるのか、と納得したところです。その当時、平安時代、西暦で1000年頃は、雲林院の敷地はもっと広大であったと思われます。というのも14世紀初め、大徳寺が建立されることで、敷地が大徳寺になったようで、現在地には1707年に大徳寺の塔頭として建てられた、と記されてあります。紫式部が住んでいたころの、このあたり、つまり北大路堀川の西、大宮通りよりも西になるのですが、今とは風景が全く違う、といってよいと思っています。紫式部さんのことは、前段にも触れていますが、いつ生まれていつお亡くなりになったのか、正確には不明です。でも生年推測970年、没年1030年、これは最長ですが、60歳くらいまで生きられたことになります。

 紫式部さん、一度結婚していて子供が生まれて、という経験をしたのちに源氏物語を書き出した、というのです。漢文が読めて、文章が書けて、だから頭が明晰で優れた才女のようでしたが、漢文が読めるなんて言わなかったみたい、けっこう書いている小説も内緒にしていたようでしたが、しだいに話題になり、権力者の藤原道長にも気に入られていたのです。パソコン検索で読んでいると、藤原道長が妻としたいと申し出たのかどうか、紫式部は、断っているみたいで、生涯に一度の結婚で、旦那さんとは死別しています。源氏物語を書き出すのはその後らしくて、20代の半ばくらいでなのでようか。それにしてもその時代、寿命も短かったとはいえ、10代の半ばでは、もう大人なんですね。今で言ったら中学生から高校生の年代です。そういうことかと思ってしまうけど、女子でいえば、今、タレントデビューは、それくらいの年代ですか、JCとかJKとか呼ばれているところですね

 それにしても源氏物語、書くのに10年ほどかかっているので、あたまのなか、どんなふうになっていたんだろうか、と興味津々なところです。京都北物語、平安京が置かれて、一条から九条まであって、その真ん中に朱雀大路が敷かれ、二条と一条の間に大内裏が造営されていいます。今、千本丸太町の北西に大内裏跡として碑が建てられています。この碑の東側が千本通りとなっていて、昔の朱雀大路が、今の千本通りとなり、一条よりも北、市外となる地域を京都北物語の区画としていこうと画策しています。平安時代の文学から入りましたけど、この物語はここから拡大して、ジャンル、時代、それらを包括していけたらいいな、源氏物語のようにタイトルかわって執筆10年、なんてことになるかも知れません。

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 またまた雲林院の話になりますが、写真の現在地は紫野雲林院町、北大路通り大徳寺の東南角になります。西暦822年から833年に在位されていた淳和天皇の離宮、紫野院が造営されたのが最初のようです。このあたり広大な荒野であったと駒札には記されています。869年に雲林院と呼ばれるようになったとあります。平安京造営の794年から30年ほど後にこと、現在あるこの門は、内裏から北東へ2qほどでしょうか、船岡山の東200mほどでしょうか、このあたり荒野で狩猟もおこなわれていたと記されています。このあとに源氏物語の紫式部さんのことを書きたいと思っているのですが、源氏物語の執筆は1008年といいますから、140年ほど後のことになりますね。現在2018年で、明治150年といいますから、雲林院が出来て源氏物語が書かれるまでの時間軸は、明治から現在までの期間軸にほぼ等しいですね。時間感覚や年月感覚というのも、たぶん時代によって違うと思うのですが、時間軸ではそれくらいです。

 紫式部さんは、このあたりで生まれた女人ですが、彼女の周辺を少し書いておこうと思います。父は藤原為時という人、母は藤原姓ですが紫式部幼年期に亡くなられているとあります。父為時の説明には<平安時代中期、一条朝の貴族、歌人、漢詩人。藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の孫で、刑部大輔・藤原雅正の三男。紫式部の父。官位は正五位下・左少弁。>とあり、越前国の受領となるので、紫式部も娘時代の2年間、越前に過ごすとあります。紫式部の本名は不明だとされながらも、藤原香子(かおりこ / たかこ / こうし)また「よしこ」と読む、ともされているけれど、定かではないみたい。998年に親子ほども年上の藤原宣孝と結婚し、女子の母なりますが、夫は1001年に亡くなってしまう。宮中に勤め、歴史書の「今鏡」には紫式部の経歴として道長の妻・倫子付き女房であったことが記されている、とあります。ぼくのイメージは、漢文が読め、文章が書け、物語をつくる想像力が備わった、才女です。

 雲林院といい、紫式部の源氏物語といい、平安時代(794年〜1192年)の初め頃から中頃にかけて、王朝文化といわれているのでしょうか、日本文化の形が、そこに見えてきます。その後には仏教文化が花開き、応仁の乱(1467年勃発〜1477年終結)から戦国時代へ、本阿弥光悦が1615年に鷹峯に土地をもらって草庵を造り芸術村をつくるプロセスがあります。王朝が京都にあったということから、日本文化の発祥から発展迄、多分に、この地域(京都の北部)が大きく関係していると感じています。資料を紐解きながらエッセンスを書き出すという荒行をここにしているので、読みずらいところが多々あると思います。ぼくも知識的にはそれほどには専門的でないので、この文章を書きながら、勉強しているところです。先に上賀茂神社から書き起こして神道の枠組みを基底に置きながら仏教を合わせてくるイメージの日本史に、文学を併走させ、生活文化にかかわる美術工芸を見ていこうと思っているところです。思えば思うほど、ざるで水をすくっている感がしていて、現代表現ツールである写真や映像へ、どのようにつなげていくのか、を模索しているところです。






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最新更新日 2018.5.27

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