もう既成の枠をこえて、だれでもがパソコンを操作すれば、無修正のエロス領域にいたることができます。もちろんリスクも多々あることとは思いますが、それ以上の欲を捨てれば、けっこうモロ無修正画面に遭遇できるのです。思えば陰毛が写りこんだ写真が見れるようになったのは1980年代だったでしょうか。いまやもう、ヌード写真や動画で、陰毛は見えてあたりまえ、というところまできています。ただし性器は、見せてはいけません。性器は見えないように施さないとだめです。これも日本国内においてはそうだけど、外国では見えてもなんのお咎めもないのですね。この日本の環境を、良しとするか否とするか、そこが問題なのですね。良しとする人は異端者と見られてしまって、枠内の価値観にはなじまないとされる感じです。自称芸術家扱いされた<ろくでなし子>さんの例がそうであるいように、これは文学においても然りでしょう。そういえばシュールリアリズムの作家なんぞは、異端者扱いであったのですから。ええ?、今でもそうなんですか、そうですかぁ。
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文学の世界で男女の性、もしくはセックスのことがテーマになるのは、20世紀前期のシュールリアリズムが起こってくるあたりからでしょうか。小生には文献をあさって論証するという能力も気力もない輩ですから、イメージとしての推測でしかないのですが、アンドレ・ブルトンとか、ハンス・ベルメールとか、フランスの芸術においてそれは顕著になってきたのではないか。日本では、それが文学として書かれだすのは、戦後派小説家の大江氏や石原氏あたりからでしょうか。1950年代後半から1960年代にかけて、といえばいいのでしょうか。でもしかし、明治のころから、遡って江戸期のころから、性にまるわる事柄が、文章になって描かれていて、いつのころも体制を乱すからといって禁制、発禁にされてしまう、というケースがあったのではないか、と思うのです。
性にまつわる興味は、男であれ女であれ、成人になればそれは興味の対象になると考えています。その人間の心の中というか内面の欲望、欲求に対して、それを封じ込めるという作用があります。これは「教え」というレベルで「モラル」を重んじる体制の思想に基づいていることと考えています。いつの時代にも、それに反抗する輩が出てくるのではないか。浮世絵師、浮世絵の版元なんかは、べたに興味の対象を春画にあててきます。遊郭が各地に作られるのは、ある囲いをすることで処理させようとする体制の企てであったでしょう。地下と地上という分け方の、その境界面は何処なのか、という思いにかられて、詮索したことがあります。この境界面は、そのときの体制権力の見解によって、上下するもののようです。上下の上とは、上品とか権威とか清純とか、下とは、下品なとか情欲的とか風紀を乱すとか。それの境界線というより境界面です。
現在の小説の分野で、エロスを扱う文章というか小説は、まっとうな文学作品とはみなされていないと思っています。そういうことでいえば、エロスを扱う小説家は、自称小説家、という括りになるのでしょうか。まあ、呼び名はどうでもいいけれど、娯楽面が重視される新聞に連載の小説とか、その類のエロスを扱う小説群。文庫本では「フランス文庫」でしたか、ありますね。「アウトロー文庫」とかのシリーズが幻冬舎からでしたか、発行されていますし、「河出文庫」というのもあります。かなり顕著にはなってきて、文章で描かれるエロス世界は、許容度がひろがっていると考えます。いまや映像の時代で、写真や動画の類が大量にあります。対面で購入していた時代から、ネットの時代になって、顔を知られなくて済む、とかのこともあるから、多分、需要はかなり膨大なのではないかと推測します。それらはもう地下ではなくて18禁アダルトという区切りで仕分けられているようです。
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動物ではなくて植物ということになると、えろすかろすを感じさせられるのは<花>でしょうか。樹木は男の象徴、花は女の象徴、といえばいいのえしょうか。小生は、花に興味があって、花の写真を撮ります。花は色があり艶があります。花街と書いて<かがい>と呼ぶようですが、この花街の中心は<女>です。舞妓、芸妓がいて男衆をもてなすのです。これは文化です。人間界の花の文化といえばいいでしょう。花魁、遊女がいたのは花街ではなく、遊郭です。いまはこの遊郭たるや法的に廃止になっていて、かってあった跡地には、それらしき建物が残っていたりします。おおむね、男と女が出会う場所、それが花街であり遊郭であった。花街はいまも健在で、先にも書いたが日本文化の器です。この日本文化の歴史的な流れですが、どうも「侘び寂び」の文化とは別の系列にあるように思えます。小生は、その道の研究者ではなくて、そんなに知識を持っているわけではありませんが、直観でいえば、侘び寂びに対抗する世界として「性欲美欲」ではないかと考えているのです。
源氏物語、好色一代男、ときて細雪があたるのか墨東奇談があたるのか、さてさて地下発禁本のたぐいが当てはまるのか、それはわかりませんが、日本文学の系譜でいえば、ふくよかな情緒をはぐくみ、満ちる生命をうけとめる、そのような文学が存在すると思います。我が国の文化のなかで、えろすかろすの分野は、おおむね避けて通られる傾向にあります。教育上よくないから、大人になってからしか見ちゃダメ、とか。精神性を重視するとすれば、セックスは高尚な行為だから、そんなに下劣にしてはいけません。ゆえにそう安易に扱ってはいけません。というような感じでしょうか。先進国としての外国では、性器の露出はかなり容認され、開示されています。ある種、固有文化の成熟度であるようにも思えます。先進国とはなにをもってそういうのでしょうね。人間が開放される尺度の大きさではないかとイメージします。経済的に豊かになるだけではなくて、気持ち、心、精神が豊かにならなければ先進国ではないと思いますが。
こういう話は、戦争か否かというような正義感に基づいた話ではなく、なにかしら後ろめたい気がしてくるのは、どうしてなのでしょう。セックス文化は下劣だから、あまり見てはいけません、という先入観を植え付けられているのでしょうか。そこは悪の巣窟のようなイメージで、扱われているように思えてなりません。確かに、その内容が人権を無視するようなものは排除すべきです。しかしセックス分野ではないところで、戦いの、人を殺す、暴力をふるう、というようなバーチャル体験をいやというほどさせられる時代でもあると思えます。子供が戦争ごっこすることとか、ゲームで人殺しをすることとか、これらがバーチャル体験であって、実戦ではないとしても、実戦の映像を見て、同一視してしまうことにはならないか。ちょっと話がべつのところへ来てしまいましたね。話を戻して、文学におけるえろすかろすは、侘び寂びの対極にある精神の流れではあるまいか、と考える小生です。
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えろすとは生きる力、かろすとは美しいこと。解釈すると、だから生きることは美しい、ということになろうかと思います。生きるということには、物質的に生きるということと精神的に生きるということに分けられると思います。物質的には、具体的にいえば食することでしょう。精神的にといえば心ふるえることでしょう。精神的に、美しく感じること。男目線でいえば、うるわしい女性に巡り会うこと、なんてことかも知れません。美女を見て、こころがふるえる。もちろん、美女とは、なんていうイメージを思い浮かべないといけませんが、そんな理屈は別にしても、女性を見て心ふるえる、ということはままあることだと思います。たぶん女目線でいえば、おおむね男と置き換えればいいのかも知れません。美しく生きる根拠には、男と女がいるというのが、精神活動の根底にある前提なのか、とも思えます。
世の中をとらえる視点に、風俗ということばがあります。人間が生活する風景をとらえる、ということでしょうか。風俗画という絵がありますが、それは生活する風景が描かれる、というのが形だと思えます。でも、風俗画といえば、美女、が描かれることが多いように思います。もちろん時代のなかで絵筆を持ったのが男であったからだろうと思いますが、男目線で女性を描く、男が心ふるえるように女が描かれる。最近のことでいえば、セクハラとかにつながりかねない話題なので、なるべく慎重に考えるところですが、風俗といえば男のまえに女がいる、という感じです。えろすかろすと題する文章と画像イメージは、男と女の交情、です。情を交わらせるということに言及すれば、具体的には男と女の性交、それに伴う感情、感情に伴なうからだの好感です。究極には生殖そのものだろうと思います。
この世には、文章で描く文学・小説、イメージで表す絵画・写真、それに音、おおむね表現される三つの形式があると考えています。この三つ、それぞれに芸術の形式にまで高められて、表現されています。そのなかで、えろすかろす、といったとき、どのような表出の仕方があるのだろうか、と考えるわけです。かってあった小説や絵画のなかに、それはどのように描かれていたのだろうか。ここでいう「それ」とは、究極、具体的にいえば性交の場面です。浮世絵の春画なんて、この場面が描かれています。現在では公然と公開されていて、出版物にもなっています。現代の写真や映画では、日本国内では、モザイクなどがほどこされ、その部分が隠されて公開されています。もちろん18才未満では見れないようにされていますが、です。
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えろすかろす物語という表題で、三つの章を書き終えたところです。なにやら性の表現に苦慮しながら、かなり過激な表現になってきたように思っています。というのも、小生の思いとしては、いまの時代の文章表現として、この分野でどこまでの表現が可能か、なんてことを想定しているわけです。文学表現として、世の分類の方法で、それが文学として成立するか否かと、問いながら文筆しているところです。書く方も読む方も、性という領域があって、そのことを想像させることで、コミュニケーションがとれる。心と心が交感する。そのように思うのです。読まれる方が女性であれば、これは間接セックスとでもいえるんじゃないかと思います。読まれる方が男性であれば、これは同好の交流であろうと思います。いずれにしても、文学作品として成立するかしないかは、この時代の良識枠の広さに由来すると考えます。
文学における性表現の限界ということが、小生のテーマとしてあります。文字表現と違って映像表現は、イメージが直接に視覚に入ることから、情動を起こさせやすいと思っています。絵画、静止画の時代から、動画、映像の時代となったいまです。それにいまの時代はネット社会で、インターネット回線で、密かに映像のやりとりができる時代になっています。今後、ますます、ハイレベルの技術が開発されて、双方向でやりとりができるようになると思っています。社会秩序を維持するための公序良俗概念を、小生は全く否定するつもりはありません。とはいいながらも、何処が境界線なのか、というかなり曖昧なこの境界について、曖昧なままでいいのかと思っています。人間の本能に基づく領域です。食欲、性欲、この本能の領域ですから、乱れることはそのまま制度を突き崩してしまうことにもつながるわけです。
成人になると欲する性交渉のことを、商品化することに、小生は否定的な見解をもっています。あるいは犯罪となっていく恐れがあることは避けなくてはなりません。商品化しない、犯罪につながらない、といったことを満たす範囲での、性表現の枠について、その範囲を思うわけです。ネット社会においては、より商品化と犯罪を助長するほうに進展する可能性があると考えます。ほんとうは、むしろ、ネットは開放空間として、商用に使わない、犯罪に結びつかない、ということをベースにして、運用されていくべきではないかと思うわけです。このようなことを書いても、いまや非武装を語るのと同じくらいナンセンスなことなのかも知れません。時代の良識というものが、性表現を排除するのではなくて、ひと個人の性欲処理の代替として認める、というところまで容認するのがよいと思うのです。