文章評論第一部
写真と文章

表現すること・日記
 1〜5 2018.4.20〜2018.5.3

  

表現すること-1-
昨日の事なんですけど、紫式部のお墓が有る場所へ行ってみたんです。紫式部というお方は、あの「源氏物語」を執筆された女人で、時代でいえば平安時代、年号、西暦でいえば1000年頃のことです。お墓といっても、このお墓に遺骨が納められているということではありません。なにより、何時お生まれになって何時お亡くなりになったのかということもわかっていないようです。生年没年不詳ということらしいです。でも、何歳ぐらいまで生きていらしたのか、これは推測で、調べてみたらわかるのかも知れないが、ぼくは36歳ぐらいかとも思っています。何故そうおもうのかといえば、ぼくが72際になったところで、その半分じゃないかと思ったわけです。紫式部の墓所が此処にある、ということの理由を、雲林院の立て看板で読んで、ある記録に雲林院の敷地内に埋葬したと、いうように書いてあったから、この地を選んで墓をつくった。いつ作られたのかちょっとわからないけれど、右隣に小野篁の墓も作られているから、どういうことなんでしょう。

 小野篁(おののたかむら)と紫式部(むらさきしきぶ)の関係ですが、どういう関係だったのでしょうね。同じところに墓があるということからいうと、関係あり、男と女ですから、どういう関係だったんだろうか、と気になります。千本えんま堂の境内に、紫式部の慰霊塔でしょうか石の何重かの塔があり、えんま堂はまた小野篁とも関係深いようです。小野篁といえば陰陽師でしたか、あの世とこの世を往ったり来たりしたお人ですよね。六道の道の珍皇寺には、往来してという井戸がありますね。そんな不思議なお人に、紫式部は興味をもっていたと同時にそれは恋心、なんて推測はあたらないですか。ぼくにはそのへんの事情がわからないです。わからないからゲスなジャーナリストとして嘘のような本当のような記事を書いているんです。紫式部の紫という名前は、紫の野に住んでいたから紫、式部というのは官位ですよね、だったら私生活的には「むらさきさん」と呼んだらいいのかも、です。

 表現すること、というタイトルのなかで、ちょっとたぶらかし気味に、こんな文章を書いているところですが、表題と関連付けていえば、紫式部って女人が、なぜ、どうして、こういうフィクションが書けたのか、ということなのです。「源氏物語」は、日本で最初の小説、って書かれているじゃないですか。小説ですよね、明らかに物語になっていますよね。それまでなかった形式なんでしょうね、漢文じゃなくて平仮名なんでしょうね。もちろん文章が書けるということは、教養をつんでいるということだし、想像力も豊かで、心情も豊かで、章立ての小説という形式を作っているところとか、めちゃくちゃな才能じゃないかと思うのです。表現することの、その表現を構成する枠組み、それからストーリー、それから内容です。ひとりの男をめぐる女人の官能物語だ、と簡単には括れないですね。京都北物語の「心の流れ」は、紫式部研究から始めてもいいのかもしれないですね。

表現すること-2-
絵画、音楽、文学、絵画はモノをつくる芸術と置き換えてもいいと思います。写真、映像、これは近代になって、カメラ装置が発明されてから発展してくる芸術の分野です。表現する、ということの原形を、ぼくはモノを造る、音を重ねる音楽、文を重ねる文学、と置こうと思っています。写真の発明は1839年とか言っているので、それまでは、写真技法、つまり手を使わずして絵が描ける方法はなくて、手をつかって筆を使って、原版をつくって、擦って、複製することが出来て、これは平面作品、支持体は紙、布、その他、それらに目に見えるかたちで描かれる。音楽はといえば楽器が必要、ヒトが喉を使って楽器になることもある声楽、文学は、文字を連ねて言葉にして連ねて、という事前に知識を得ておかないとできないコミュニケーション形態です。写真は、絵画に似ています。映像は動く絵画ですか、映画、ですね。映画、物語、物語を構成しない物語、時間を共有する映像。時間を共有するといえば音楽も時間を共有します。

 最近なら、コンテンツといわれる、内容そのものですが、商用に、お金にしていく装置の、コンテンツを創り出すのが表現の原点です。でも経済の仕組みの中で、お金に換わることだけでは、価値を計ることはできません。ヒトの心に感動を喚起させる、表現したモノが、他者の心を揺する。そのモノを造るヒトが表現者なわけです。表現することとは、他者の心を揺すること、それを創り出すこと、そういうことです。ことばでいうのは簡単だけど、実際に、他者の心を揺するためには、ということであの手この手を使うんですね。もうどうしようもなく天才としか言いようのない人、絵描き、彫刻家、音楽家、小説家、ヒトが真似できないくらいに高度な技術を駆使してある作品。芸術作品って、そういう天才が作り出した作品をもって芸術作品といっていた時代があったかと思いますが、今なら、ちょっとそれは違います。ならば、どう違うのか、違ってきたのか、とうことを明らかにしていかないといけません。
(続く)

京都慕情-1-
京都慕情というタイトルをつけました。嵯峨野慕情、京都北物語に続いて、京都慕情。
主にはこの北野天満宮よりも南、東、西、その方面の出来事を立体構成してみたい。
立体構成とは、歴史の奥行、横の拡がり、上にはイメージが膨らむ空間です。
それが球体ですね、立体、球体の真ん中に現在があり、地点がある、そんなイメージです。
その中心地点が、ぼくには北野天満宮というお宮さん、ここだと思うところです。
京都慕情というより西陣慕情とか慕情じゃなくて物語とか、タイトルはまだ未定ですね。
耳に水が入ったのか、頭の中に、耳の奥に、膜が張った感じがするので、医院へ行きました。
今出川七本松にある耳鼻科のお医者さんで、診察券があったので、朝一番、行きました。
なんだか、医者通いになっている最近、昨日今日です、年齢のことを考えてしまいます。
ことなく、すぐに直してもらって、帰り道、七本松から五辻を西にとって、突き当り、この光景。
北野天満宮の東門、正門なんでしょうか、門を入ってすぐに本殿になります。
門を入って右に、竈(かまど)社の鳥居、その向こうに文子天満宮、地主神社となっています。
南の山門から正面は、文子天満宮、地主神社、本殿は左に折れて正面に三光門ですね。
天満宮のなかの配置については別の機会にするとして、神社前の話にします。
北野天満宮の秋の祭の名前は<ずいき祭>といっていますが、これは野菜の輿です。
神輿と書きたいところ、神輿は神さまが乗っている輿だし、ずいきのも神が乗ってるのか。
乗ってないと思うので、神輿とは書きませんでした。
このずいきの屋根の野菜輿が上七軒を上がってきて、この鳥居の前まで来ます。
そうすると、この鳥居の前に神官がやってきて、お祓いをして、輿は神社に入らない。
祭のときにそ、の光景を見て、ええっ?、どうして?、なんて思ったものでした。
この鳥居の前の通りは、今出川から上がってくる上七軒通り、西から来る五辻通りです。
今日も、本殿を参る修学旅行生が、いっぱい来ていました、観光客のスポットです。

-2-
 北野天満宮は菅原道真を祀る神社で、京都から左遷され903年に太宰府にて59才で没しました。その祟りか、都で災害が相次いだとゆうのです。そこで朝廷は没後20年目にして道真の官位を戻し、正二位を贈られ、朝日寺(現在:東向観音寺)の敷地に、947年道真を祀る社殿を造営したのが始まりだと書かれています。現在地の社殿の北に文子(あやこ)天満宮の社がありますが、文子天満宮は下京にありそこが北野天満宮の前身と書かれています。なにやら、この北野天満宮、ぼくの幼少のころから、なにかにつけて身の周りにあった感じがしています。小学生の頃の不思議は、祀られているのが実在した人だということで、神さまと人との関係がつかめなくて、不思議に思ったものでした。そういうことでいえば、小学生四年生くらいだったかと思いますが、天皇の話が本に出ていて、この御方は何を食べておられるのか、梅干しって食べておられるのか、疑問でした。

 毎月25日は天神さんの縁日で、参道に露店が並びます。ぼくの家は天満宮の北へ徒歩5分ほどの位置なので、北野天満宮の境内に入る道筋は北からです。天満宮の門は、北門、東門、それから南の楼門です。いつも北門から入り、北門から出ます。いまは家が邪魔していて見えませんが、北門の正面には左大文字の山が見えました。どうも正門は東門のようで、門前から東に五辻通り、斜め東には上七軒のお茶屋街です。楼門からは南へ参道になっていて、今出川通りに一の鳥居、ということは参道中程にあるのは二の鳥居でしょうか。今出川通りから南にも参道があって、いまは上京警察になっていますが、その奥に武徳殿があって剣道とかの塾があったと思います。子供の頃、ぼくは武道を習わなかったけれど、友だちが習っていました。その武徳殿は警察官舎に残されていましたが、今は撤去されていてありません。そこが土の参道で下の森、一条通りです。千本中立売から西へ道なりに来ると、天満宮の参道になりました。今出川通りの北にまで市電が来ていて、そこから京都駅までチンチン電車が、1960年前まで走っていました。京福電車の北野駅が、今は宗教団体の建物になっていますが、今出川下ルのところまで来ていました。

 1950年代には、天神さんの縁日の日には、夜、父母弟とぼくの家族四人で本殿で拝んで、露店が並ぶ参道を通って下の森まで、そこから千本へ出て、北上、今出川から中立売界隈は西陣の繁華街で、西陣京極には映画館があり飲み屋がありました。家族でマリヤという喫茶店に入ります。また和食の店、寿司屋、うどん屋、ですね、そこへ入って食事する。家族の遠足じゃなくて近足ですね。マリヤという喫茶店は現在、千本中立売下ルの西側にあります。西陣京極もすっかり様変わりしていますが、ドンツキといっていましたが、そこは東映の映画館、その北側に千中ミュージック、細い京極のなか入って左側に洋画の映画館、大映の映画館がありました。歓楽街でした。西陣織の工場があり、女工さんが地方から沢山、京都に来ていました。主には丹後方面から中学を卒業して寮に入ったり、アパートに入ったり、していたようでした。1980年代に西陣を中心に写真取材したことがありました。2008年になって京都をテーマに写真を撮りだし、再び西陣の家屋を訪ねることがありました。そのころから先々代がいなくなり、先代がいなくなり、ぼくの代が古希になり、下の代が中堅で、その下の代が学生です。ぼくの前二代、ぼくの後二代、五世代にわたるこの世の出来事が、いま、刻まれています。

日記20180420
ここでは小説を書こうと思っているところですが、なかなか、思うように書けません。
そこでついついほったらかしにしてしまって、ブログの意味がなくなってしまう。
小説を書かなくちゃ、なんて気持ちに押されても、感情がなかなかついてきてくれない。
駄文ばかりで、なんとも自信とか自尊心とか、そういう感じも得られない。
もう、やめようか、なんども思うけど、言葉の上だけであって、本音は続けたい。
続けたって、意味ないよ、自己満足にしかならない、傲慢だな、と思うんです。
文章が綴れない、とはいっても内容ある言葉が綴れない、ということです。

ひところ文学同人「翔・翔」なる枠組みを立ち上げたことがありました。
2003年あたりだったかと思うけど、それでももう15年も前になるんですね。
その時のメンバーとして想定していたお方と再会しました。
絵の方とも知り合いになって、表現研究所のジャンルが、絵画、写真、文学。
それに映像、音楽、それぞれに立っていただきたい人が見つかったところです。
その方たちが、それぞれに関係してもらえるかどうかは未明ですが、ぼくの期待です。
まるで、恋しているみたいな感覚で、それぞれのエキスパートを選出しています。

メジャーでなくてもマイナーでも、作品を創るという本質は、素晴らしいです。
金儲けが前提にあって、創作されるより、マイナーな方が本質なのかも知れません。
プロアマという括り方はよろしくないですね、作品の質の深さだと思います。
この深さは、感情に訴えてくる、叩く強度のことだとも思えますね。
ひと頃だと、社会性ということの関連で、作品の価値を計ったりしましたけど。
そういう時代の産物は、いまや、無効でしょうね、最前線ではないと思います。
あれやこれやと、<カフェ&プレス>が始まっていきます、ささやかな期待を込めて。

-2-
4月29日迄、京都極彩秘宝館の展覧会が開催されています。
場所は京都三条下がる、寺町と新京極の間の路地の中「ライト商会」です。
掲載の写真は、2階の展示風景ですが、通路から階段、この2階迄、作品展示です。
内容は、エロスを扱う、それなりの作家たちの作品群です。
一階の喫茶では、ブック展示もしているから、見ごたえあります。
というのも、内海淡水、この名前で参加者の中に入れてもらっています。
それで我田引水、あっちこっちに褒め言葉を並べているわけです。

新しい潮流としてのグループ展示ですが、歴史のターニングポイントです。
表現史のなかで、ある種エロスは、正当な評価をしない風潮のアート界です。
まるで戦争前夜みたいな重苦しい圧力を感じるのは、ぼくだけではない筈。
そんなこと無頓着で、資本と国家が為すままに、参加していく輩が多いけど。
あんまり正直に語るとヤバいから、この辺にして、無難な青春小説を書きますが。

主には写真(静止画)によるエロス表現を、それぞれの作家が演じています。
ぼくなんかは、写真でエロス表現はしていなくて、主には文章、小説です。
この展覧会に出展しているメンバーにも、文章表現を試みている人がいます。
写真は、ある種、制作が簡単だし、文章のような難しさがなくても、補える。
ほんとうは、表現ということでいえば、完成度においては文章と対等に難しい。
カメラ性能が良くなって、イージーにイメージを作る事が出来る昨今です。
といいながら、時代にさきがけて、新しい表現領域を根付かせていかなくちゃ。

-3-
ブログのタイトルを内海淡水小説としてあり、小説を連載しようと思っています。
ところが二編、書きかけのところで躓いて、数回連載したところで、終わっています。
二編目にしても書くつもりでいたのですが、今日も書けないので、一旦、終わりです。
そのかわり、日記と名付けた記事を書こうと思っているところです。
タイトルはしばらく、小説を書くフレームとして残します。
数年前になりますが、小説らしきものを手掛けて、連載したことがあります。
その調子で、書こうと、書けるだろうと思っていたけど、できなくなっています。
そのぶん年老いてきて、様々に、小説に仕上げる気力が薄れてきているのかも知れない。
体力の衰えが、行為にも反映してきて、根気が続かなくなった、イメージが広がらない。
文章だって、いろいろ書くけど、雑文の域を出なくて、読んでもらえる文体になりません。
忘れてしまうんです、ここに使う写真が、どんなのだったか記憶から外れています。
記事投稿のここには、写真が張り付いていなくて、思い出せないのです。
ああ、やだやだ、なさけないです。

-4-
ブログのタイトルを「内海淡水日誌」と改名しました。
小説を書こうとしていたブログですが、どうもうまくいかないので日誌にしました。
取材日誌みたいな感覚で、フォローアップしていけたらいいかと思います。
主なる関心ごとは、現代表現研究と表現塾の運営にあります。
でも、その器が思うように成熟していかなくて、どうしたものかと思案します。
別のブログで「京都北物語」を連載しはじめたところです。
ここに載せた写真も、その一環で撮らせてもらった一枚です。
京都の文化を日本文化そのものとの認識をしていて、それを掘り起こしたい。
新しい文化を生成させていく器として、現代表現研究所の枠を考えています。
平安時代、室町時代、京都が日本文化の中心だった頃を浮き上がらせます。
そこから、新しい我らの文化が、生成されないかと考えるわけです。
形式ではなくて、中身、内容、コンセプトについて、です。
形式は道具を使うわけで、最新の道具を駆使したらいいわけで、内容です。
集まれる場としてアマノコーヒーロースターズで<カフェ&プレス>を開催します。
月に一回ペースで、ワールド・カフェ形式で、フリートーキングの場です。
この場所で、フォトハウス表現塾のレッスンもおこないます。
アマノコーヒーロースターズがプレス機能を持って新しい文化の発信地です。
まだまだ始まったばかりのムーブメントです。
いくつかの場所をリンクさせながら、京都の北を新しい文化の発信源にしていきたい。
問い合わせは<AMANO COFFEE ROASTERS>へ電話
<アマノコーヒーロースターズ>
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F
Tel&Fax
(075)491-6776 です。
https://www.facebook.com/good.coffee.kyoto
または主宰者中川へお問い合わせください。
facebook:https://www.facebook.com/sense.nakagawa
mail:pressnakagawa@yahoo.co.jp

-5- 2018.5.3
seesaaのブログが使いやすくなりましたね。
バージョンアップされて、広告も少なくて、とっても使い良いです。
アクセスされる人数もけっこうあるから、書く楽しみが増えます。
ただfacebookに転送したときに、写真が載らなくて、ブックイラストです。
あんまり無理は言わないけれど、タダで使うには、とっても重宝しています。
ぼくの目的は、自分が作家であることの誇示と、プロジェクトの宣伝です。
作家と言っても自称作家だから、だれが認めてくれるのかわかりませんが、作家です。
フォトハウス表現塾
写真講座を塾形式で、個人対応で、マンツーマンでもよし、ということで宣伝しています。
でも、応募がないから、学ぶ器としては認知されていないのかなぁ、と思います。
写真クラブのような研究会を作りたい、文学同人を募りたい、でもだめかなぁ。
だれか、といってみても、だれも振り向かない感じがして、むなしいですね。
京都北物語 ここに連動していている、させていこうと思っています。
どんな展開になるのか、未定ですが、文献含め、ぼちぼち書いていきます。








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最新更新日 2018.5.30

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