文章評論第一部
寫眞と文章

エロスを表現する

 1〜3 2014.8.12〜2014.8.20

    

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豊かでふくよかな感情を起伏させるエロスが、人間生活には必須の栄養素であることは、間違いないことと思われます。食欲、性欲、この欲求は、本能に根ざすところの欲求であると思っています。身体の生命活動を維持していく必須は、食べることがなによりも優先されることかと思うけれど、はたまた性欲が食欲に優先するなどとは考えませんが、その時、食べることが満たされれば、並行して性欲が発生してくるのではないかと思われます。とはいえ、食欲も性欲も、身体の成長過程で、その深度は異なり、身体の成長と性欲の深度が、深い関係にあるように思われてなりません。生物学とか医学のレベルで、それらを解明している方もいらっしゃると思います。ぼくは全くその観点からの、つまり科学的な立証主義ではなくて、芸術的、文学的、情緒的、イメージの過程で発生することで、言葉を紡ぎだそうと思うわけです。

そもそもの、エロスとは、語源としては辞書を引けば概要がつかめると思いますが、ここでは、その、エロスを表現する、ということにおいて、感性を研ぎ澄ませていきたいわけです。表現の手段には、文章表現、映像表現、聴覚表現の三つがあげられます。それぞれが単体で、または組み合わされて表現物となって表わされてきます。文章表現は文字の羅列、書かれた文字、発話される文字がありますね。映像表現はイメージ表現、かってなら絵画、近代以降なら写真、動画、といったところでしょうか。聴覚表現はといえば、なにより音楽といわれる整然とした楽式にのっとったいわゆる音楽、近年では自然の音、ノイズとか雑音とかも含めて、音のつらなりのことです。それらが、いまや記号というキーワードによって語られます。ここでは、文章表現におけるエロスについて、を主なる系としていこうと思います。写真・静止画や、動画への考察も行いますが、ここでの目的は、文章によるエロス表現、ということにしていきます。

不思議ですけど、ぼくには、それは自分を考察するしか方法がないように思えてきます。生物学者や医学者、心理学者といった領域の研究家は、他者のそれらのデーターを集積するなかでの推論で、傾向を示すことが出来ると思いますが、ぼくはその手段を持たなくて、それらの研究者の研究成果を引用していくことで、自分を考察するという、手法を使います。だから、なにより、ぼくの体験、実体験、疑似体験を含めての、ぼくのいまある自分の感覚を、文字で紡いでいきたいと思うのです。年齢が高じてきて、今や高齢者の部類に入る年齢にまで達してきた自分があります。生命ということにとっても興味があります。生きるということにとっても興味があります。二大欲求の食欲と性欲、いまの年齢では双方とも、若くしてあったときとは、変節があり、特に性欲においては、身体の成長と衰退に準じて、いま衰退期ですから、この地点から見て、性欲に興味があり、それと密接な関係があると思われるエロスについて、考えてみたいと思うのです。エロスの核心は、いったい何なのか。その核心にむけて表現することとは、どういうことか、と自分に問いかけていきます。

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作家としてのエロス表現は、その手段に、絵画、寫眞・映像、文章と三つの方法があると思っています。ぼくの場合でいえば、絵画を描く技量はありません。写真・映像といっても、撮影の現場を持ちません。残るのは文章表現、小説を書く、それとここに書いているようなエッセイとか、つまり文字を使って、エロスを表現する、ということになるんです。ということで、あらためて、エロスとは何か、エロス表現とは何か、ということを明らかにしておかなければいけないと思うんです。エロスとは生の欲求、生の欲望、生とは生きるということ、前に向かって生命を保っていくということ、肉体を伴ない、あるいは肉体を伴なわなくて、生きる欲求・欲望だと思います。だからエロス表現とは、それを具体的に示す事例を、形にして表出することでしょう。

ここでは、文章表現、小説としての表現について、考えていこうと思います。小説は、言語活動によって行われる表現行為です。だから小説でのエロス表現といえば、言語によってエロスをイメージ化していく作業であろうと思います。エロスのイメージは、なにも人間の裸体から感じる感情の内面、とだけではなく、男と女の生殖行為、男だけ、女だけの自慰行為、それらをも含んで、イメージ化されていくものでしょう。そこには書き手の読み手の性的興奮を醸し出させるものでなければ、ならないと思います。妄りに情欲を起こさせる言葉の羅列であってはいけない。情欲を起こさせるということは、それを読むことで身体とともにある「情」が、性的に盛り上がることでしょうか。そうすると、それを起こさせないといけない。

なにより、それなりに成長した身体をもつ人間が、本能的欲求としてあるのが、食欲と性欲だと、思うのです。が、日本の社会的規範によって、この性欲のほうが、おおむね隠され、隠さなければならない代物だと、覆うのです。その時代によって、この隠すという度合いに、濃淡があるわけですが、もろだしが濃くて、話題すらご法度というのが淡いことだとして、この尺度に当てはめてみて、具体的な光景がイメージされて、それに感応していくところが、濃いのか淡いのか、ということ。こうして書きだすと、なんと曖昧なことであろう、と思います。感じる感じ方の問題にまで及ぶから、どこまでのイメージ化を想定すればいいのか。作家の側として、苦慮しながら、結論じみて言えば、ナマの行為に匹敵する感情の高ぶりを求めて、ということになると、思います。さてさて、ここから、具体的な言語・言葉とそれの連なりからなる文章に、なにを使い、なにを使ったらいけないのか、とっても曖昧なところに到る気がします。

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エロスを表現するということは、豊かな感性を紡ぎだすことだと考えます。豊饒な海、豊饒な女神、豊饒な男子、第一に身体があります。身体の欲求を満たすための行為があります。単独で、及び二人で、密室でおこなう限りにおいて、これはここでいう表現するということではなくて、ここでいう表現するというのは、第三者、三人称の相手に、それを公開するという前提に立ちます。人間が登場する場であれば、それは密室で行われる行為を、想像できる文章にしたり、目で見える映像にしたり、といういわゆるこれを制作するわけです。エロスを表現する間接的な方法があります。人間を登場させずに、他の動物を登場させてそのことを隠喩・暗喩させて、エロスの表現を試みる。エロスを表現するとは、その豊かさによって、情欲を起こさせることと狭義に限定してみます。情欲を起こさせ、性欲にまで昇華させ、自慰するまでなくエクスタシーに達してしまう。これがエロス表現の最高峰であろうと思います。

そのエクスタシー、恍惚の状態へいかにして導くか、ということが、エロスを表現することの、中心となる話です。表現された中身を、受容することは間接的な体験、疑似体験、バーチャル体験、であり、このことによって情欲を起こさせ、性欲を起こさせ、エクスタシーに至らしめる。このように考えると、猥褻とは淫らに情欲を起こさせること、と定義すれば、エロスを表現するということは、明らかに猥褻そのものであるわけです。表現されたモノを読み、見て、感じる感じ方は各個人にって個人差があるわけですから、このへんが曖昧といわれることの深層ではないかと考えます。そもそも、だから、エロスを表現する、ということは法に定める罪にあたることを、実践していくことにほかならなくて、現行法的にはこれは犯罪とされる領域に至ってしまう。エロス表現だけではなくて、ドキュメンタリー表現にしても、そこには様々な法的な個人や国家の権利権限が定められていて、その権利権限を侵害するモノに対しては、犯罪となるわけだから、一定の枠から逸脱することは、許されないということになります。

さて、具体的に、日本国内だと、映像の場合だと、性器の露出は犯罪になる、ということが最近の動向から、明らかになってきます。映像表現者の場合は、権力に対して、この露出をさせたうえで、どう対処するかだと思えます。ぼくは、この場所で表現する覚悟は出来ていませんから、映像や写真を使うとしたら、そこにはぼかしをいれモザイクを入れます。ところで、文章表現の場合、身体の一部を指すところの名詞を、どう使うか、ということです。直接にその表記を使っても、文字であるかぎり、それは許される範疇です。ただ、文字、単語のレベルではなくて、文字、単語の連なりとなる文章。文章の連なりとなる詩や散文。こういったまとまった文章の全体として、猥褻なのかどうか、という判断をするのかと問えば、これは曖昧な、ということになると思います。医学や生物学で使うところの単語、それを表現物とする中身に使って、エロスを表現する、単に単語だけなら、いまや何を使っても、法の範囲内であるかと判断します。これは狭い意味での限定ですが。でも、その部分、性器のことを言い当てる言葉は、隠喩、暗喩、言い換え、などあの手この手がこれまでに、編み出されてきています。さて、エロスを表現するとは、こういった言語群を使い分けながら、豊かな感性を紡ぎださせていくことだと、ここではキリをつけます。







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最新更新日 2016.6.22


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