耽美試行

美について

 1〜14 2013.12.28〜2016.6.17

    

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美について

美、美しい、いったいどういう状態をさして、そういうのだろう。
美とはなにか。
かって「言語にとって美とはなにか」という名著がありました。
吉本隆明の著作による美の追求でありました。
そんなことを思い出しながら、耽美について考えていきたい。
そう思って、ブログのタイトルにしたところです。
2014年に向かって・・・・。

-2-

耽美について

ウイキペディアによる説明を転載させていただきます。

耽美主義(たんびしゅぎ、aestheticism・唯美主義、審美主義とも)は、道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。1860年頃に始まり、作品の価値はそれに込められた思想やメッセージではなく、形態と色彩の美にある、とする立場である。

<概略>
アルジャーノン・スウィンバーンがある絵画を評して曰く「この絵の意味は美そのものだ。存在することだけが、この絵の存在理由(raison d'etre) なのだ」という表現が耽美主義の本質を説明している。耽美主義者の中ではオスカー・ワイルドなどが代表的である。19世紀の末に近づくにつれ、デカダンスの様相を呈した反社会的な動きとなっていった。これは、当時ヨーロッパを席巻していた楽観的な進歩主義へのアンチテーゼでもあった。

その反社会的思潮から悪魔主義などと括られることもあるが、耽美主義じたいは悪魔主義や退廃芸術とは必ずしも一致しない。むしろ感性の復興という意味ではルネサンスとも通底している。その一方で神秘主義とも相通じるものもある。フランス人作家ペラダン(Josephin Peladan) は「美が生み出すのは感情を観念に昇華させる歓びである」と語っている。

耽美主義の流れは日本の知識人にも影響を与え、三島由紀夫や谷崎潤一郎も耽美派に含まれる場合がある。

文芸[編集]
オスカー・ワイルド ( アイルランド出身、『サロメ』が大ヒットした)
ピエール・ロティ ( フランス、2度来日して『お菊さん』を著した)
マシュー・アーノルド ( イギリスの耽美派詩人)
シャルル・ボードレール
エドガー・アラン・ポー
テオフィル・ゴーティエ
ジョン・ラスキン
谷崎潤一郎
澁澤龍彦
永井荷風
北原白秋
吉井勇
木下杢太郎
久保田万太郎
水上滝太郎
佐藤春夫
小山内薫

-3-

耽美ということ

美の領域において、耽美は美の極みではないかと思っています。
人間、人の生存に必要なものは、食べること、子孫を残すこと。
もちろん、睡眠とか、快楽とかが求められるとしても、基本は食欲と性欲。
美の領域を論じるのは、基本的には食欲と性欲が満たされたあとの欲望領域です。
この欲望領域としての美の領域が、食欲と性欲のどちらに傾斜しているのか、です。
ぼくは、おおむね耽美の方向は、性欲のほうに向いていると思っています。
その耽美が、美の極みであるということは、性欲の昂じたところのもの。
このような図式が、先験的に描けるのではないかと思っています。
逆に云えば性欲を昂じさせる美、その極み、その領域ではないか。
情欲をそそる表現は、美の極みだとしても法に触れることにもなります。
そういうあやうい領域に、耽美ということは、ひろがっていくようです。
ここでは、具体的な事例をあげませんが、追ってみていこうと思います。
性表現の可能性と限界、とでもいえばよろしいかと思います。

-4-

性表現について-1-

絵画、小説、映像という表現分野において、性表現がどこまで許されるのか。
この問題は、表現者にとって何時も意識の中心にあるのではないでしょうか。
どこまでの描写が許されるのか。
つまり究極のところは隠さなければならない、という前提があるわけです。
地球上の時間の流れを区切る時代、それと国とか地域による認識の違い。
近代日本においては、隠すことが前提にあって、それを開示する流れでしょう。
江戸期の春画には、男女の交合場面が露骨に描かれています。
これらの春画は、現在では原画のまま、修正なしに出版されています。
写真や映像では、交合部分を隠すように修正をしなければなりません。
見る側、読む側に情欲を起こさせてはいけない、という規制です。
これらは日本国内においてメディアにされる出版物、映像、写真です。
ネットの時代、世界をつないでしまう通信網、現在その真っ只中です。
意識のレベルで、かなり混乱が生じているようにも見受けられます。
どこまでの描写が許されるのか、それを考えていきたいと思うところです。

-5-

性表現について-2-

性表現とは、性交を表現として扱う領域であると限定してみます。
表現媒体としては、文章表現(物語)とイメージ表現(絵画・写真・映像)に分けます。
それと表現される、描写される、露出度とでもいえばよろしいでしょうか。
文章の場合なら単語、熟語、その連続による文体の、文章表現でしょうか。
写真や映像なら、男女のからだ、性器をどこまで見せるかでしょうか。
写真や映像など、イメージそのものの場合、日本では性器は見せられません。
このように限界を設けて、その限界に対してどこまで開示できるのか、です。
時系列に見れば、文章表現の場合、いくつもの出版物が発禁処分になりました。
といいながらも戦後から1960年前後には、小説の中にそれを指す単語が使われます。
描写にしても、性交をイメージさせる文章が、現わされています。
小説家のテーマのなかに性表現があり、その限界に挑むということでしょうか。
文章表現におくれて、陰毛が写真に撮られて修正なしに出版されることが可となります。
性欲と食欲、子孫を残す生殖と身体を養う食事、これが生命維持の根本です。
この、人が生命を維持する基本の欲求が性欲と食欲だとして、これがテーマの主要です。
男女の性交場面を描くというのが、性表現の究極であって、どこまでが許容されるのか。
時代とともに変化する社会環境があって、性表現はその環境のなかを構成する部分です。
社会全体の大きな環境変化とともに、作家は表現の現在をとらえなければなりません。
ここでは具体的な表現現場の事象については、現在のところ伏せておきます。
追って具体的な事象もとり入れながら、論を進めていきたいと思うところです。

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性表現について-3-

絵画、写真、映画、ビデオという媒体は、直接目に見えるイメージです。
文章、小説の場合は、文字を読んで内容をイメージに置き換える作業です。
おのずとその内容、性表現の方法が違います。
もちろん細かな分類をすれば、その描写力、つまり技術的、内容的に違います。
最近ならネットにて配信される映像の性描写には、無修正性行為、があります。
もちろん日本においては違法ですが、外国においては合法な映像でしょう。
日本においては、青少年18才未満は見ることができませんが、原則です。
ネットにて配信される性描写の映像が、現在時点の性表現の限界です。
つまり、いまや、覆い隠すものは何もない、とでもいえるほどです。
性表現の問題は、国や地域の精神風土に根ざし、情緒に関係しています。
日本の精神風土において、どこまで許容されるのかが、いま問われます。
しかしながら、性描写は解放の方に向かっていることは否めないと認識しています。
文学作品における性表現描写を問う裁判では、三例があります。
チャタレイ夫人の恋人裁判(1957年)、悪徳の栄え裁判(1969年)。
それに、四畳半襖の下張裁判(最高裁での判決確定は1980年)です。
いずれも結審において有罪となっていますが、すでに30年以上も前のことです。
映像作品では、1976年の出来事ですが映画「愛のコリーダ」の無罪判決があります。
これは映画ではなく、脚本と写真を掲載の書籍がわいせつ物頒布罪で検挙されたものです。
映画そのものは2000年に完全ノーカット版で、リバイバル上映されました。
現在地点、ネットにて地球規模で配信される性描写の現状を見れば、戯言であった感です。
表現者において、性描写の限界認識は、知識として最低限の必要があると思っています。

-7-

美について-2-

美という観念に小生は、肉欲的で肉感的なイメージを抱いています。成人した人間の内臓が感じる快感を満たしていくための道具といえばいいのでしょうか。美という観念は、多感であり豊かであり豊饒であるイメージなのです。美という観念は、質素で鄙びたイメージではなく、豊かで潮が満ちるような肉的なイメージを抱いています。小生の、これらの感覚は、年齢、つまり加齢と密接に関係しているように実感します。若いうちは身体が若いから、侘びとか寂とか、肉体の高揚を鎮める方向へと行くように仕向けられる感じです。一方、加齢とともに衰えてくる身体はそれまで以上に肉的な快感を求めていくように実感します。

これらの美の方向は、つまり耽美の方向だ、と小生は考えるところです。肉体が衰えるから、肉体を懐かしんで肉欲的になろうとする。だんだんと性欲が衰えてくるころから、エロスの神が豊饒な世界を求めさせ、描かせるようです。小生の思いの中には、谷崎潤一郎の文学、永井荷風の文学、江戸期に遡れば井原西鶴の文学などがあります。彼らは年齢が増すとともに饒舌になってきたのではないだろうかと、思うのです。これはイメージです。それらの小説家を文学的に解析したわけではありませんから。小生のイメージです。なによりも御来光というのは大日如来を囲むようにして管弦楽の乙女がいるではありませんか。

耽美は、性的な表現において、顕著にあらわされてくると思います。ブルトンやバタイユといったシュールリアリズムの作家たち。日本文学や日本映像においても性の扱いをめぐって、いつの時代にも表現されてきたと思えます。もちろん時代とともに、表現の幅がひろがり、行き着くいうところまでいく気がします。ただし日本においては文化というか精神性というか、性を覆い隠すことを美徳とする風潮があると思っていて、かならずしもこれがいけないとは思っていません。しかし、表現者としての立場では、これにたいしていかに突き崩していくかというのが、表現者としての本質的なあり方だろうと思うところです。

-8-

少し趣向をかえて、雑文風、おしゃべりをしてみたいと思います。
というのも、ここでは小説を書いているところですが、遅々として進まない。
なので、ぼくの告白も含め、文章を綴っていきたいと思うのです。
このブログは昨年の2月から書きはじめて、すでに一年半です。
いくつかの小説を書いて、いま、途中で止ってしまっています。
それは、身辺が書くことに集中できなくなったからです。
とはいえ、気になっていて、美について思うところを書きます。
絵画や写真にあらわれる美、絵物語や小説にあらわれる美。
その「美」とはいったい何ぞや、といったことです。
いやはや、論じてみても仕方がなくて、実感することでしょう。

心が洗われるという言葉で、たとえば伝統工芸品の漆器を観る。
そこには「美」があり、美意識なるものが心に起こってきます。
美のイメージが想起されるといえばよろしいか、それに伴う感情。
感じる情、得体のしれないもやもや感、萌える情とでもいえばよろしいか。
美の意識は、絵画や写真という静止した図版を観ても起こります。
美にいくつもの種類があれば、エロスの美、といえばよろしいか。
浮世絵の春画、裸婦の絵画、ヌード写真、裸体彫刻・・・・。
全裸、半裸、着衣といろいろありますが、おおむね表わされるのは女体。
仏像も美の対象、むしろ美の典型なのかもしれないが、仏像はおおむね男子像。
ギリシャ彫刻でも、男性像、肉体美、三島由紀夫の薔薇刑も美対象は男子か。

-9- 2015.10.2
<しばらく休眠したいです>

一昨年の正月、小説を書いてみようと思って、このブログに小説を連載しはじめました。とはいっても、十代の終わりから二十歳代の半ばまで、小説家をめざしていた、といえば傲慢に聞こえるかもしれないが、けっこうそう思って活動していたように思っています。この10年、文章を書こうと思って、写真や芸術に対して批評を手がけ、一方でエロス小説を匿名で執筆しはじめたのでした。このブログに書きだした小説は、匿名とはいえ実名がわかる枠組みで書いてきました。文章を書くということは、けっこう、体力がいります。気力もいります。この気力は、人々のなかで支えられないと、持続できないように思います。そういうことでいえば、匿名であっても、サイトへ読みに来る人がけっこうあるから、続けられたと思っています。それがどうしたわけか、気力がなくなった、というのです。気抜け、脱力感、喪失感、そんな気持ちは、失恋の気持ちに似ていると思います。失恋したわけではありませんけど、恋しても、ひとりよがりだから、ひとりで身を引くだけのことで、内面の波があるだけで、世間にはなんの変化もおこりません。まあ、次に気力が恢復するまで、このブログ、月に一か二くらいの記事アップで、置いていきたいと思っています。

-10- 2016.2.9
<恋心>

辛い気持ちを抱いたまま電車に乗りました。
風景が変わって、都会から田舎へ、そうして街に到着です。
誰にも言わずにやってきた街。
そこは悲しみの街でもあり、癒しの街でもある感じ。
恋した、恋してしまった、成熟のない恋は空しさだけが。
16歳だったころ、そんな記憶がよみがえってきます。
憂いた表情、なにを言いたげだったのか、心にしみます。
きみの顔色、憂いた表情の奥に、なにが渦巻いているのですか。
でも、もう、お話しすることもないようですね。
メールも止めて、偶然の出会いを待つしかないのですね。
偶然の出会いなんて、あるわけがないじゃないですか。
偶然なんて、起こりうるわけがないじゃないですか。
まだまだ、終わりになるなんて、未練が残っています。

-11- 2016.2.16
<美と倫不倫>

一条さゆりという女優、といえばいいのかそれとも別の言い方があるのかわからないけれど、この女優はストリッパーとして名をあげられた。ぼくはそのステージを見たことはないが、いまはもう伝説的女優だろうと思います。高峰秀子って方がおられた、原節子って方がおられた。映画のなかで演技をされて、いまに残っています。女優って名の職業といえばいいのか、先にあげた一条さゆり、伝説的ストリッパーとして世に残っている名前です。さてさて、ぼくの美意識のなかに、倫理という枠組みがあるんですが、全然別の話で、いま不倫という二文字がテレビのなかで走り回っているんです。不倫とは、倫理ではない、倫理の枠組みから疎外された場所のこと、を指すのではないかと思われます。一条さゆりが不倫の領域だというわけではないけれど、高峰秀子や原節子と並べてみると、どうもそこには倫理と不倫のあいだの目にみえない境界線のように、境界線があるように思えてならないのです。一条さゆりが終の棲家としたのは釜ヶ崎は解放会館の三階、三畳の間でした。一条さゆりがここに住まっていたというのは、なにかしら象徴的な、シンボライズされるべき、要素が隠されているように思えてならないのです。

-12-
<倫理ということ>

柄谷行人さんの著作、倫理21、という本が気になって書棚から引き出して手に持ちました。奥付をみると2000年2月23日初版発行とあるじゃないですか。2000年というのは二十世紀最後の年で、21というのは未来に向けたということを意味しているのですかね。いま、2016年、今日は2月23日、この著作が世に出てから16年が経つことになります。なぜ、いまの時期に、ぼくにとって「倫理」なのかということを、ぼく自身に問いかけています。ぼくには「倫理」という字面と言葉自体が違和感のなかにあります。ぼくがうけた戦後教育環境で、中学や高校では「倫理」というのを教えられることはなかった。でも、一年下の学年には、この倫理という側面の「道徳」という科目でしょうか、できた記憶があります。倫理や道徳は社会規範の基準ですから、社会はこの枠の中に構成されて良否が下される、ということになるんでしょうね。けっこう曖昧な括り方ですが、そうゆうことなんでしょうね。ぼくのばあい、倫理とか道徳とかの言葉にこだわるようになるのは、最近です。そうして自分の過去を振り返ってみて、内面はけっこう反倫理、反道徳なのに、表向きはまじめな市民、小市民的模範人を演じていたと思います。倫理21の第六章は、宗教は倫理的である限りにおいて肯定される、です。この「宗教」という領域を文学とか映像とか社会運動とかに置き換えることができます。いやはやわけわからなくなってきたんですけど、宗教と芸術、ともに倫理的であることで肯定されるというのです。ぼくがそう思うのですが、まだ明確でない倫理という範疇ですが、はみ出してしまうと否定されることになる、ということです。否定されるということはどうゆうことかというと弾圧される、しいては刑事罰をあたえられる。ああ、こういう発言はやばい、やばいから、きょうはこの辺でおきます。ストリッパー一条さゆりのことを書きたいとおもいながら、くどくど、前置きがながくなっています。けっきょく一条さゆり論は、おあずけです。

-13-

<美ということについて>

なんだかへんな記事名になってしまいましたが「美ということについて」ということについて書いてみたいなと思って、そんな名称にしたところです。ここでは「美」という概念について論じて、自分の見解としたいわけです。わかったようでわからない「美」の概念ですが、なによりも結論的に言ってしまえば、それに遭遇した我が心が歓喜に震える状態、いやはや、大きな驚きが喚起させられる、といったような現象が生じること、とでもいえるでしょうか。感動、感情をともなった歓喜、身体的にはエクスタシーの領域に至らしめられること。ああ、これは快楽、美は快楽の極み、なのかも知れません。

芸術は「美」を求めるものです、と言われて、その「美」とはいったい何ぞや、ということでしょう。美とは固定ではなく状態を言い表すものではないか、いま、直観的にそのように思います。自分という存在があって、その自分存在の外側から刺激を受けて、自分存在の身体の中へ引き受けた刺激の状態、その状態、身体の震え、心という精神の震え、興奮、そういったところのものではないか、と思います。視覚から入る刺激、音声から入る刺激、トレーニングを積んだ頭脳が、記号を読んでイメージ化し感動を得る刺激。美とは快感、快楽を伴うものではないか、と書きとめておこうと思います。

-14-

<永井荷風>

死は究極のエロス、どうもシュールリアリストたちの言葉を借りるとしたら、そのようなことがいえるのかも知れません。ここは、永井荷風というタイトルをつけましたが、ぼくは余り詳しくは永井荷風のことを知りません。知識不足、勉強不足、そのことに尽きるところですが、たまたま、彼が亡くなったときの死体写真といえばよろしいか、そのイメージを見つけてしまったのです。永井荷風は小説家として色艶の世界を描いたようですが、ぼくにはそれらの小説を読みこなす機会を失っていて、憶測でしか語れないのです。そういうことでいえば、ぼくの文学歴なんて、たかが知れていて、人様に語れるような勉強をしたわけではありませんから、まともには論じられない。自室で亡くなっていたところを発見され、記録として写真に撮られた。その写真がたぶん新聞記事とともに掲載された、このように推測します。

ひとは死ぬ、これは宿命、逃れることができない。ということは自分にもそのときがやってくる。これは紛れもなく事実であって例外はない。この事実を受け入れていくさなかで、そのときに悔いが残らないように、準備が必要。終活という二文字が目に付くようになった最近。終わりに向けてどう締めくくるか。ここいうのはおおむね財産処分のことであろうと思うが、じつは、心の準備としての終わりを捉えていきたいと思う。この4月で満70才になった。この年齢は節目といえば節目ではないかと思っている。あと10年という歳月が保証されているわけではないけれど、おおむね残り10年、と思っている自分がいます。その間がまったく保証されてはいないけど、その間、やりたいことができたらいいな、と思う。このやりたいことというのが、いま、ここでやっていること、文章を書き、イメージを貼り付ける。芸術作品を創りたいと思っているわけ。やってみるしかないわけで、誰が何を言うのかわからないけど、自分なりにやっていこうと思う。

かってこのような文章は、何十年となく毎日書いていて、ノートも黒表紙だけで13冊あります。それらはペンで紙の上に書かれた文字だから、人目に触れることはありませんでした。その行為をストップさせたのは、いまからなら15年ほど前にいた彼女が、そのことをやっているから私とコミュニケーションできないのよ、と言ったことを契機にストップさせた。それから、パソコンで、ネットの時代になって、ブログとかに書くようになって、ぼくには近年、こんなだらだらを書くようになって、ひまをつぶしている。決して暇というのではなく、やらなければいられない、ということなのです。でも、ひょっとしたら、この文章だって、ここまで読み進んでくれるひとがいないとも限らない。ほんとうはいてほしい。誰か、というのではなく、あなた、そのひと、心に秘めたあなた。そのひとに贈りたい、共有したい、して欲しいと思っているのです。



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最新更新日 2017.10.16




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