文章評論第一部
耽美試行


平成風俗小説論

 2014.1.5〜2016.7.8

    

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<風俗・小説・寫眞>

毎年、年の初めに、一冊の本を選んで、読むことを心がけています。
今年は、かって読んだ「風俗小説論」を手元に置きました。
昭和25年に書かれたという中村光夫氏の文学評論です。
もう50年近くも前になりますが、かなり影響を受けた文学評論です。
この<風俗>という文字にぼくのイメージを重ね合せてみます。
もう5〜6年前から、ぼくは、ぼくの寫眞に<風俗>という文字を使っています。
ふくよかで豊かな感情を育ませる、庶民的、情緒的、欲情的イメージを基底に、です。
物語の中でいえば、古事記、源氏物語から好色一代男にいたる日本の物語があります。
この周辺に、世阿弥の風姿花伝、兼好の徒然草、芭蕉の奥の細道を配置しています。
日本文学に導入される西洋近代文学、それ以前の文学について興味をもったこの10年。

中村氏の「風俗小説論」は、ぼくのなかでの文学理解のベースになっていると思っています。
柄谷行人氏の「日本近代文学の起源」なども、そのうえに培われるぼくのベースです。
ともあれ、1907年(明治40年)に発表される花袋の「蒲団」が日本リアリズムの発生だといいます。
1905年に漱石の「猫」、翌年1906年に藤村の「破戒」、小栗風葉の「青春」、1907年「蒲団」。
近代文学の成立がこのあたりから顕著に表れてくる、という培われた認識がぼくのなかにありました。
どちららかといえばぼくの立場は、学生のころには私小説批判をする側にいたように思います。
私小説ではなくて私寫眞においても、かなり批判的な立場にいた1980年代のぼくでした。

風俗派(こんな言い方は無いけれど)、谷崎とか荷風とか、三島とか、耽美派ですね。
それにシュールリアリズムのイメージが混在して、古くて新しいイメージが描けないか。
この流れのうえで、ぼくは浪漫自然派、日活ロマンポルノじゃないけど、ロマンリアル小説。
封印された向こうにある世界の、外面と内面の描写、これを小説にできないかと試みはじめたのです。
風俗小説論が書かれた1950年(昭和25年)、ここでいう風俗とはカリスマ雑誌に現われる小説群?
それから64年が経過した2014年(平成26年)のいま、あらためて風俗小説あるいは寫眞を論じる。
かなり冒険な領域なのでどこまで行けるかわかりませんが、書き進めていきたいと思います。

-2-

<風俗・小説・寫眞>2

近代日本文学の主流は、自然主義(リアリズム)であったと断定してもいいと思います。
その近代リアリズムの萌芽は、二葉亭四迷の「浮雲」(明治22年)だとされています。
その四迷が「未亡人と人権問題」(1906年、明治39年10月)と題した文章を書いています。
夫を戦死で失った未亡人と資産ある大学教授の恋愛物語らしい構想です。
書かれたわけではなくて、書こうとしている題材のはなしです。
四迷はこの文章の中で、新聞に連載中の風葉の「青春」を高く評価しています。
・・・・今日の青年は、男女といはず、本能主義が無意識の間に伝播している・・・・。
四迷はこの風潮を、風葉は巧みに小説化している、と記述しているのです。
中村光夫氏の「風俗小説論」では、この「青春」を外面をなぞっただけとの酷評です。

軍人の未亡人と大学教授の恋愛、大学教授の妻は未亡人と親しい間柄、俗なる三角関係。
このときの未亡人、日露戦争で約10万人の未亡人がいると、四迷は記述しています。
若いこの未亡人たちが、そのままで男子と関係を持つと姦通罪に問われるが・・・・。
これは社会問題であり人権問題である、なんて社会化しているんですね。
この年は藤村の「破戒」が発表されているときです。
小説の枠組みに、社会の問題を採りいれるという自然主義文学の方法が見てとれます。
この「浮雲」から「破戒」までの年月はおよそ20年弱です。
文学史上、近代自然主義は、四迷から坪内逍遥、北村透谷、藤村、花袋となるようです。
ぼくがいま注目しているのは、ロシアを含む西洋近代主義の影響をうけた文学というより。
風俗小説、江戸期なら西鶴とかにあらわれ、明治以降もある尾崎紅葉などの「硯友社」。
絵画なら、琳派とかではなくて、浮世絵、春画、といったイメージ。

その時代の主流からはずれて、時代の風俗を、男女の交情を描いた作品に興味をもちます。
いやむしろ時代の主流は、いつの時代も周辺に置かれてしまう男女の情を描く作品群です。
高尚文化と下品文化といった分け方をぼくはしていますが、この下品文化、大衆芸能文化。
それは芸術ではないかも知れない、芸術とはここでいう高尚な場所に在るものかも知れない。
だけども平成の時代、モダニズムが終わりポストモダニズムが終わった、今だからこそ。
芸術という概念を再構築していく試みが行われるべき<時>なのではないかと思います。
文化研究の枠組みが拡大していて、庶民文化、大衆文化、それらの心の襞に分け入る時。
生きる人間を根底から支える芸術・文化の状況を、作りだしていく時なのではないでしょうか。

-3-

<風俗・小説・寫眞>3

<風俗小説とは、風俗とは、「四畳半襖の下張」について>
風俗小説とは、世界大百科事典第二版の解説によるれば次のようです。
『風俗描写に主眼を置いたとみられる小説。海外の文学にもその例は少なくないが,日本では坪内逍遥が《小説神髄》(1885‐86)に〈小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ〉と唱えたことから風俗小説のあり方が問題とされる。なかでも中村光夫の《風俗小説論》(1950)は,その系統を小栗風葉の《青春》(1905‐06)あたりから探って,日本の近代小説のゆがみを指摘したものとして知られる。風俗小説が表面的なリアリズムに走って,そこに小説本来の虚構性,ひいては作者の思想性が欠如していることに言及してもいるからである。』

ちなみに「風俗」の定義は、ウイキペディアによる次のごとくです。
<風俗の定義・意味は主として次から成る。
1.ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活上のしきたりや習わし、風習のこと。広く、世相や生活文化の特色をいう場合もある。類似語に世俗や習俗(習慣と風俗)がある。用例としては「明治時代の風俗」「下町の風俗」「性風俗」などがある。
2.日常生活上の風俗を絵画にしたものを風俗画と呼ぶ。特定の階層、特に一般市民の日常の様子を主題としたものが多い。西欧においては、ルネサンス期以降、市民社会の発達に伴って一ジャンルを築くようになっていった。風俗画を残した代表的な画家には、ピーテル・ブリューゲルやヨハネス・フェルメールなどがいる。日本においてもジャンルとして広まったのは近世以降である。江戸時代には、市民の風俗を題材にした浮世絵が多数残されている。
3.世相や風俗を社会的な広がりでとらえて描いた小説を風俗小説と呼ぶ。同様に、庶民の世相や風俗を描いた喜劇を風俗劇といい、ヨーロッパでは17世紀にモリエール(フランス)やコングリーブ(イギリス)らに始まっている。
4.雅楽の一種。くにぶり。日本の各地、主に東国で流行した歌舞を宮廷用に選集・編曲したもの。大嘗会(だいじょうえ)などの朝廷の儀式の際に演じられた。舞を風俗舞(ふぞくまい)、歌謡を風俗歌(ふぞくうた)と呼ぶ。
5.性的な習慣や嗜好を指して「性風俗」と呼ぶ。性的サービスを提供する業種の動向を指して「性風俗」、またその産業(風俗店)そのものを指して「性風俗」や「風俗」と称する事がある。

元来の「風俗」の意味は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す(1)の意味であるが、こんにち、古くからの生活上の習わしやしきたりが失われていく反面で、(5)の性風俗に関しては、当初、業界内とその周囲だけで通用していた用例が、マスコミでもその意味で用いられることにより、社会的にも広く認知された状況下にある。

このため、現在において、単に「風俗」というと(5)の「性風俗」を意味することが多く、「風俗嬢」という言葉さえ生まれている。今日では、使用する時と場所を誤り、不用意にこの語を用いると、意に反した誤解を受ける場合も少なくない。周囲の状況によってはセクシャルハラスメントとみなされることもあるので、注意が必要である。』


もうひとつ「四畳半襖の下張」について、ウイキペディアの解説を転載してみます。
『「四畳半襖の下張」(よじょうはん ふすまのしたばり)は永井荷風作の小説、及び伝永井荷風作の春本である。
1.荷風作『四畳半襖の下張』 荷風が雑誌『文明』(大正6年)に発表した短編小説。古人「金阜山人」の手記を作者が紹介するという形式を取り、戯作に志す主人公がさまざまな経験を経て最後には置屋の主人となるという筋。『荷風全集 第12巻』(岩波書店、1992年)所収。
2.伝荷風作・春本版『四畳半襖の下張』 冒頭に「金阜山人戯作」とあり、長らく永井荷風作として伝えられ、後述のようにそれを認める説が現在でも有力である。終戦前後から一部で知られるようになり、春本における傑作の一つとされてきた。1972年、雑誌『面白半分』に掲載されて摘発を受け、その後の「四畳半襖の下張事件」裁判において特に有名になった。

春本版の概要
作者「金阜山人」がたまたま買った古家の四畳半で、襖の下張から古人の手になる春本を見つけ、それを浄書して読者に紹介するという説明が導入部にある。(関東大震災の翌年に記した旨の記述がある。)

「はじめの方は、ちぎれてなし」という説明ののちにはじまる「古人作の春本」は、老人もしくは中年者と思しき人物の回顧ふうな文章が冒頭に置かれており、性的体験の遍歴や年齢とともに変ってゆく女性観・性意識などが述べられた後、「おのれ女房のお袖」が芸者であった時分の交渉が物語られる。性行為の描写が終わると、お袖との結婚後の模様が作者の女遊びなどを交えて簡潔に記され、話は唐突に終る。

評価
いわゆる「入れ子細工」の構造は、荷風作の短編小説にしばしば見られる特徴である。

文体は江戸中期ごろの人情本・滑稽本などに範をとったと思しき擬古文で記されており、同時期の文語体春本の多くが明治期の文章に倣っているのに比べて格段に流麗かつ古風であり、作者の素養の高さが知られる。

小説・春本としての特色は、性行為を描きながらも読者を興奮させるためのポルノ性の高い直接的な描写が少なく、逆に、短いながらも行為を通して女の情や性格をスケッチしてゆくするどい観察や描写にあるといえるだろう。

たとえば男が女の疲れを気遣って射精を我慢したまま行為を終えた後に、女が「あなたもちやんとやらなくちやいやよ、私ばかり何ば何でも気まりがわるいわ、と軟に鈴口を指の先にて撫でる工合」を見て、「この女思ふに老人の旦那にでもよくよく仕込まれた床上手と覚えたり」と男が思うあたりには、作者の観察の鋭さ、人間描写の巧みさがあらわれている。また騎乗位での行為の後、男の体の上で素裸になっていることに気づいた女が「流石に心付いては余りの取乱しかた今更に恥かしく、顔かくさうにも隠すべきものなき有様、せん方なく男の上に乗つたまゝにて、顔をば男の肩に押当て、大きな溜息つくばかりなり」と感じるあたりは、女性特有の心理をこまかく描いて凡百の春本から一線を画すものであり、四畳半襖の下張事件裁判において、被告側証人であった吉行淳之介が「春本を書こうとして春本以上のものができてしまった」むねの評価をくだす所以ともなった。

著者
荷風の日記(断腸亭日乗1941年12月20日)には、かつて自宅へ出入していた人物が荷風の原稿を偽造し、好事家に売りつけていると憤懣を述べた箇所があり、その中に「春本四畳半襖の下張」の名が上げられている。当時は一部好事家の間で知られていたのみのようだが、戦後のカストリ雑誌ブームの中で秘かに複数の版が刊行され、次第に有名となった。1948年に出版社が摘発され、荷風は警視庁の事情聴取を受けた(断腸亭日乗1948年5月7日・5月10日)。荷風は、はじめの部分はおおよそ自分が書いた文章だが、後は他人が書いたもので、自分は知らないと述べた。(城市郎『性の発禁本』)

国文学者たちは、この作品の作者について、学問的厳密さを重んじる立場から断言することができないとしているが、石川淳その他の文学者たちは、荷風作と断言している。』

永井荷風作とされる小説「四畳半襖の下張」本文については、わいせつ文書にあたる有罪判決(最高裁判所1980年(昭和55年)11月28日第二小法廷判決)が出ているので、ここには転載しませんが(文そのもの全部ががぼくの手元にありません)、いずれ部分にせよゆるされる範囲で転載できればと思っています。事件の概要はつぎのごとくです(ウイキペディアからの転載)。
『月刊誌『面白半分』の編集長をしていた作家野坂昭如は、永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。これについて、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長・佐藤嘉尚が起訴された。被告人側は丸谷才一を特別弁護人に選任し、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請して争い、マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(野坂に罰金10万円、社長に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。』

-4-

風俗小説を書く-1-

さくら協奏曲というタイトルで小説を書いてみようと思って、書き始めています。
これは下書きなし、ぶっつけ本番の書き下ろしです。
どこまでセックスの描写を混ぜて小説として読んでもらえるかです。
アクセス数が増えているから、書き続けていけばいいのでしょう。
時代は昭和の中頃から始まっていきます。
征二という男子、よのすけみたいな役回りかな、とか。
けっこうエロく書きたいと思っています。
でも描写については、けっこうまわりくどく書こうかな。
直接表現ではなくて、やんわりと、なんて思っているところです。
なるべく読みやすい文章にしていきたいと思っています。
なにより、ぶっつけ本番、書き流しです。

日本の文学は、古事記からはじまり王朝ものでは紫式部の源氏物語。
江戸期には井原西鶴の好色一代男。
明治になって近代文学として耽美、永井荷風、谷崎潤一郎とか。
色艶ものといえばよろしいか、内容は日本文化の器と器の中の男女のことです。
いっぽう、鎌倉、室町以降、わび、さび、淡白な世界が求められています。
文学だけではなくて、文化全体といえば広げ過ぎでしょうか。
日本の精神史のなかに、二つの潮流があって、色艶耽美と侘び寂び、です。
いやはやちなみに思うことは、年取れば色艶耽美を求めるようになる。
来迎の図では、天女の楽隊が天から迎えに来てるじゃないですか。
文学としてどちらを選ぶかと問えば、ぼくは色艶耽美と答えたい。
もうここまできてるんだから、色艶老人日記とでも呼んでおきましょう。

-5-

風俗小説について-1-

風俗小説といっても、何をもって風俗というのか、ということがあります。
生活レベルで、興味の対象は、男にとっては女のことであり、女は男でしょう。
小説が、男と女の間に起こる出来事を、文字により描写しています。
その神髄は、人間の興味の対象であるセックスのことだと思っています。
人間の営みのなかで、セックスのことは、興味本位において、排除されています。
文学においては、セックス描写を主体とする内容の小説などは、純文学から排除されます。
このような現状に対して、排除される領域と内容のものを、ぼくは風俗小説と呼びます。
みだりに性欲をかきたて、情欲を起こさせる表記は、禁止され排除されています。
この禁止され排除されるという内容のことが、実は、問題とすべきなのです。
禁止されるというのは、風紀を乱す、ということでしょうか。
いまの時代、いまの日本において、このことにかなり敏感になっていると思えます。
どこまで容認するか、容認してもらえるか、こういう話題すら出しにくい環境です。
羞恥心は奥ゆかしい心情ですから、その感情に基づいて、表現の範囲が規定される。
嫌悪感を抱かせる内容のモノは、排除の対象であってもいいけれど、これも程度による。
文字表記され、文字表記により感情が綴られるとき、それは相聞歌ではなかったか。
表記のされかたが時代と共にリアルになってきて、現在はどのようなものなのか。
このへんの判断が、ぼくには曖昧模糊としていて、程度のほどがよくわかりません。

-6-

風俗小説について-2-

どうしたはずみか、日本の成り立ちについて、興味がわいてきて、ぼんやりイメージのなかにイメージをかさねだしている感じです。このイメージを言葉に置き換えていく作業は、フィクションとして、読み物として、小説という形になってくるのではないかと思うのです。平安京が造営されて数百年、その間に紫式部が書いたという源氏物語があります。じっくりと読み込んだわけではなく、何十年となく谷崎の現代語訳を手元に置きながら読めなくて、瀬戸内寂聴さんの現代語訳を抄読みしただけですが、その物語の世界をイメージして、現代風俗に置き換えていく作業かな、と思うのです。

源氏物語を文学的にどう捉えるのか、というような文芸評論ができるだけの技量は、持ち合わせていませんが、これまで半世紀のぼく自身の体験やそこから生じたイメージを振り返りながら、全体イメージをイメージするわけです。おとことおんなの物語。おとこの気持ちとおんなの気持ちの物語。男と女の物語。そう捉えてみて、行為はセックスを介在させて、風俗小説とするのが、現代風ではないかと思います。紫式部さんにしても井原西鶴さんにしても、あの浮世絵春画のモロさには、その点で言えば勝てないではないか。それなら、というところで、現代風俗小説は、それに匹敵するか、それを乗り越えようという試みであると考えるのです。

近年は視覚イメージが優先で、写真、映像、絵画、目から得るイメージが多いです。文章は言葉で、読んでイメージする代物だから、ある種太刀打ちできないと思うのも事実です。今日、使用している写真に撮られている代物は、九谷と焼き込まれた酒を呑む杯です。このようなモノにまで、このような絵が描かれているのだ、と思うところです。そういう観点からこの世の出来事をみていくと、けっこう性行為をあつかう内容のモノが多いことに気づきます。食欲と性欲は、生命を維持する根源的な事柄ですね。このような観点から、人間社会の営みをかんがえてみて、表現していくことは、現代の書き物として有効であろうと思うのです。








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最新更新日 2016.9.8


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