文章評論第一部
えろすかろす日記

えろすかろす日記-1-

 1〜13 2014.9.24〜2014.12.28

    

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なにはともあれ、タイトルをつけないといけないので、「えろすかろす日記」なんて名称にしました。この「えろす」と「かろす」は「性」と「美」というイメージで小生のなかにあります。言葉のイメージといっても言葉にイメージがあるのではなくて、言葉を見て聞いたときに生じる、その言葉が指示する頭の中での像(イメージ)のことです。こんな評論じみた言葉を連ねているよりも、近年では映像そのもの表現、ビデオとか映画とか写真とか、のほうがリアリティがあるから、その実物をみたほうが早いのかも知れませんね。

それを文章で書き連ねるというのは、文章を読んでイメージして、そのイメージに対して感じるという作用になるわけで、映像イメージにはかなわないなぁ、と思っているのです。でも、小生には、オリジナルとしての写真や映像は提供できないから、かろうじて文章を書くことで、その欲求を満たしていけると思って、文章を書くことにします。ああ、ということを嗚呼と書くんですけれど、そんな古典的な漢語が混じる文体ってのは苦手で、なるべくひらがなで書いていきたいと思うのです。

紀貫之ってお人が土佐日記ってゆう文章をお書きになりますが、これは女性体で書かれることになって、ひらがな、が使われる、ということでしたね。この紀貫之さんにならっていえば、女性体になってひらがなを多くして、やさしく書く、といことが今流なのかも知れないです。ネットの環境は、そういうことでいえば、男が女に、女が男に、なることができるメディアだと思うのです。それよりも現実に、ニューハーフっていう人たちは男が女を演じているわけですから目に見えます。こんなこと、いまの時代、もう慣れてしまった感がします。

えろすかろすの原形は、人間の本能に基づく感情と身体のところから発生していると思っていて、理性や知性、それを含めて道徳という概念で覆ってしまおうということに対抗して、人間の本能に基づく感情と身体のところを、芸術表現にまで高めていこうということなのです。この文章を書きながら、これは文章表現であって、既存の理解される文法の枠組みで言葉を連ねているということです。文章表現そのものを解体して再構築するなんてことは思っていなくて、既存の意味と価値の中でえろすかろす、性と美、をイメージさせられる文章にしたいと思っているのです。

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これはフィクションであってフィクションではありません。それならここに書かれることは事実かといえば、事実ではありません。つくりごとです、創作です、読み物、小説とは言い難い形式、ならばなんだ、昔、草紙だか草子だかしらないけれど、そういう読み本があったそうです。そのことでいえば、この「えろすかろす日記」は、現代版の風俗草紙、風俗草子となればいいのだけれど、と思うわけです。そもそも「えろす」と「かろす」は性と美だから、方向感覚としては、同じ方向に向いているといえます。エロスに対してタナトスと対置すると、タナトスは死を暗示するから生と死の逆方向に向くんですね。でも、ここではタナトスはカロスの部分として、えろすかろす、と対にします。

なになに、ここで期待されていることは、セクシュアルなことです。タイトルがタイトルだけに、アクセス数がぐんと増えて、ランクが一気に上がりました。その期待に応えるべき内容のものを、書き連ねていきたいと思うのですが、気をつけなくてはいけません。みだりにえろす、性、のことを扱うとお叱りを受けて、抹消なんてことになるから、それなりに慎重に、そろりそろりと、参ります。ご時世は禁欲の時代でありますが、禁欲させればさせるほど、見えないところに潜ってしまって、実体がわからなくなってしまうようです。いまの時代に遊郭なんてないわけで、それは完全に禁止事項なのだけど、ようく目を凝らしてみると、拡散し希薄で広範囲になって、歓楽街を構成しているように思えます。

小生は、まったく潔白でして、いっさいのナマなお遊びはいたしておりません。ええ、生まれてこれまで、そうゆうことは致しておりません。ただし、疑似体験は山ほどしているといっても過言ではありません。雑誌とかの紙媒体、フィルムとかの映像はテレビ画面で、写真だって最近ではネット環境のなかでたっぷり見れます。疑似体験、それは夥しい量で、小生のまわりを徘徊してきます。小生はその一角を垣間見るわけです。現在は、すべて無料のところで見ます。有料に勧誘される画面にはアクセスしません。だから、えろすのレベルでいえば、たかが知れてるレベルなのかも知れません。

でも、そんななかで無修正ってのに出会うことがあるんですね。無修正ってのは、いうまでもなく修正してないということで、ぼかしてないということです。そもそも、どの部分がぼかされているかといえば、性器の部分、でも、わかります、うすくしか膜を張ってない、まるで鳥を捕ったかすみ網のごとくです。ほんらい、厳密にいえば、それは夫婦というペアになった関係のなかでのみ、見てもよい、見せてもよいことなのですが。いまや、そうゆうことではなくて、というところに落とし穴があるというわけだ。パチンコや競馬競輪、お酒に、女と男、なんてゆうなかに封じ込める風俗草子、物語の中身です。小生はなんにもしていない、まじめな男子でした。その禁制をいまここで破ろうとしているのです。

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えろすといえばかろす、かろすといえばえろす、いずれも、むむっ、っていった感じの気持ちがもっこりと起こってきます。若いうちはこのもっこりがむっくりとなって、男なら勃起してきてごしごししごいていくところまでいってしまう、ということになります。ところがこれが歳のわかれめでしょうね、もっこり気分になるけれど、むっくりとは起こってこない。性欲減退ってゆうよりこれは衰退でしょう。ところが哀れ蛾ですね、少しだけ残っているからその気になってしまうんです。ええ、東野の村山社長さんはもう60半ばを超えられたのに、会社の若い子に、いがかりをつけて、つきあわせるんです。会社といっても社屋は京都の旧家で、土蔵も備えていて、もっぱらこの土蔵がその現場になります。

「だから、わしわ、おまえを、こうして、裸にして、なぶっているのだよ」
「ああん、でも、社長さぁん、それわ、わたしの責任じゃ、ないですよぉ」
「そんなこといっても、わしわ、おまえの仕業だと、わかっているんだから」
あぶないことをしてしまって、香苗という子は、まだ二十歳半ばの独身です。土蔵の中に造られた愛の交感場所で、わけのわからない口実で、村山社長は社員の香苗と関係を結んでしまうのですが、いざとなって関係が結べない、勃起しないのです。このシュチエーションは現実には成立しがたくて、フィクション、物語の出来事なのですが、あたかも現実のことのように、リアルに思えてきます。

小説の世界では、ありえないことがありえるように作られます。フィクション、虚構、作り事です。なのにこの作り事が好まれるというのは、人の願望や欲望、欲という領域を疑似化させるからでしょうか。現実にはありない、起こりえないはずのことが、フィクションとして起こるんです。村山社長はSMマニアでして、女子を縛ってハアハアヒイヒイさせている姿を見るのが、なによりも性欲の欲の湧く極みのようです。香苗は、二十歳半ばで、村山社長と交渉を持つことで、俗にマゾヒストといっている欲を満たしているんです。
「はぁああ、ああん、だからぁ、ああっ、社長さまぁ」
「香苗、いいね、とろとろじゃないか、うれしいんだろ、そうなんだろ」
「はぁああ、いやぁああん、いいやですよぉ」
っていうような具合です。

西鶴に好色一代男って小説というか読み本があって、原本なんぞ現代語訳してもらわないと、情欲するいぜんに意味がわかりにくい。桜もちるに嘆き。月はかぎりありて。入佐山。・・・・。まあ、わからなくもないが、読み下すだけでもたいへんです。まだ漢字の連なりではないだけわかるとはいうものの、時代が過ぎれば、こういうことなのかと、思うんです。今こうして書いている言葉なども、変形し、変態していくものなのでしょう。色事の描き方だって、時代とともに変態してきて、言葉の言い回しだけではなくて、その広さや深さも拡張しているように思えまます。さて、現在の小生は、そういうなかで、風俗小説を書きたいと思っているところで、書きだしたということです。まだまだ続くえろすかろす日記です。

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東野織物といえば京都では有名な織物会社のひとつです。主には西陣織の帯が中心ですが、最近は業界自体がパッとしない。不景気というのではなくて、社会の需要が構造的に小さくなってきているから、生き残りをかけて、特徴を出そうと努めているところです。パソコンを使って、絵柄を描き出し、織り機にかけて帯を織る。村山社長には、新しくなったその手法にはついていけなくて、採用したのが浅野香苗で、美大を卒業して入社し、めきめきと才能を発揮しだして、パソコンを使いこなして、新柄を世に問うているのです。そんな香苗が、プログラムミスをしてしまって、柄に余分な糸がからんで、商品にならなくなって、村山社長から、お叱りを受けるはめになったというのです。さて、物語は、ここから始まるのですが、事実は小説よりも奇なりなんていうことが言われて、これは事実なのに、小説よりもまれなことへと、進んでいくのです。小生の聞き取りを基に、再構成して物語りふうに、書き連ねていきたいと思います。

    えろすかろす物語(1)

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日記と物語を行き来して書いていこうかという構想が、固まってきています。なにより描く内容、物語は当然フィクションです、作り話ですが、日記は、作り話ではなくて、小生の生きざまの本音で、ありのままに、とはいいながら、ありのままになんて書けないのですが、ノンフィクションです。第一篇は連続9回でひとまず終わりました。短編でつなげていくのもいいか、と思っているところです。描かれる内容は、えろすを想わせる内容、幻想的なイメージが描ければいいのだけれど、それは小生の資質によるもので、そとから読めばどのようなイメージなのか。耽美イメージについて、だれとイメージ交換したのだったか、最近、耽美な作家または作品について、小生の具体例をあげたところ、少しニュアンスのちがった作家や作品が返ってきたのです。それぞれに、その言葉から派生するイメージが違うのは、当然のことであって、小生は小生のおもうところを言葉の羅列で創りあげていくしかありません。

今日は青空、玄関から外へ出てみて空を見上げたら、眩いです。明るい、眩しい、健康的です。このイメージと裏腹なところに、小生が想う幻想の世界があると思われます。暗い、陰湿、病的、まあ、こういうイメージですね。好みにもよりますが、案外、このイメージは受けるかも知れないな。体験的にいって、歳をとるにつれて、明るく健康的な方へと向いていくようです。だから、暗い、陰湿、病的とはいっても、案外、明るいイメージになるのかも知れません。天に召されるとき、そこは花園、若いピチピチ女性が戯れる花園のなかへ、連れて行かれる。そのように思えるイメージが、かもしだせればいいなと思います。日本文学の系譜なんていえば大袈裟かも知れませんが、小生のイメージでは近代文学といわれる範疇のイメージなんて、そういえば病的だし陰湿ですね。黴とか蒲団とか砂とか、そんなイメージも共有しながら、源氏物語や好色一代男の系譜なんぞ、現代的ポルノ小説にしてしまえば、いいわけです。

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パソコンが手元に置けるようになった昨今、かって観ることが出来にくかったイメージが、かなり簡単に観られるようになっています。あまり公然とはいえない内容なのですが、かっては外国旅行で手に入れられた図版とか、8ミリフィルムの、俗に云うブルーフィルムが、それ以上のクオリティをもって、パソコンの向こうに見えるんです。これらは危険サイトとして、警告されるふしもあるけれど、その気になれば観れるのです。つまり、こういう自称メディア研究家の小生は、この類のサイトへ見学にいきます。そこにはモザイクされた裸体と、俗に無修正といわれているモザイクなしの画像が、観るだけではなくダウンロードもできてしまう。無料で観れるその奥には有料になる。これが現在の情況です。こんな時代が来るとは、ゆめゆめ思いもかけなかったことだから、老年になった人たちの感慨も深いことだと思います。小生も、その老年になった人のひとりです。

1950年代から60年代というと、もう半世紀以上もむかしのはなしになるのだけれど、いま、その頃の雑誌がネット上に公開されているのを見つけました。奇譚クラブ、風俗草紙、といった今でいうSMの月間雑誌です。風俗史に残る資料として、それらは公開されているのだと思います。それが小生には、奇妙な気持ちにさせられているのです。かって少年だった頃に密かに見て読んでいた記憶の雑誌だからです。いまとは比較にならないほど隠されている裸体ですが、戦後間もないその時代の風俗が、そこには見てとれるように思います。しょせん人間の人間たる思いは、セクシュアルなことにあり、とこの年になってつくづくと思います。隠された心のうちには、セックス表現をタブーとする表層とは裏腹に、人間の本性としての感情が流れている気がします。セックスがもっとおおらかにうたえる気分にならないと、それにまつわる情緒が歪められてしまうのではないか、と思うのです。

小説は物語、フィクションだから、作り話です。作り話とはいっても現実に想像できることでないと作品にはならないわけです。現代小説のジャンルには、いろんなジャンルがあると思うんです。その読み物、かってなら純文学、日本においては西洋文学、近代文学という枠組みを踏まえて人間を描く。この文学に対して、戯作文学、風俗小説、通俗小説、この類。さまざまなジャンルのなかで、小生はこの純文学の周辺文学に興味をもったわけだ。純文学とは何か、なんてことはいまどきいいません。理性のたまものとしての文学、なんてこともいいません。むしろ理性から解放された情緒を醸し出したい。それが心をなごませる読み物になればいい。とはいうものの世の中の立派な教育者は、それらを排除していくことを、建前で言ったり、行ったりしているのです。小説は本音だ。啓蒙の時代は終わった。心のなかの本音を吐くべきだと、小生は思うのです。

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日活の映画「日活ロマンポルノ」が1971年から始まったという話です。小生は、この日活ロマンポルノの映画は見ていません。それより遡ること4年ほど前でしょうか、1967年、この年は小生、大学受験の浪人していた年で、このころポルノ映画といえばパートカラー映画でした。時代的には学園紛争が始まっていて、大学内では全共闘運動が起こってくる年代です。政治問題とセックス問題、このふたつは切っても切れない相関関係にあると思います。ムーブメントとしての対立項です。そういうことでいえば、セックス表現の表現のされ方において、今では考えられないほどに封印されていた領域です。その当時からいえば、現在のような環境になっているなど、とうてい想像も出来ないくらいです。現在は、開放されているということです。

ロマンポルノはセックス映像が商業になってきた走りだと思えます。映画だけではなくて、雑誌、単行本、写真集などにおいても、セックスが前面に出されてくる年代です。1970年代、そういえばまだビデオ装置は、一般家庭レベルでは入っていませんね。もちろんネット環境もなかったから、書店へいかないとその類の印刷物は手に入りませんでした。ビニ本が自動販売機で一冊千円で売られていた記憶があります。そういえば自動販売機、いまならドリンクの自販機ですが、大人の玩具なども自販機、コンドームも自販機、対面ではなくて顔を見られずに手に入る。このながれが、つまり誰にも知られることなく、セックス領域の欲望を満たせる環境が整ってきます。人の心には本能としてセックスを欲望するもののようです。だから環境が、その欲望に沿って整ってくる、といえそうです。

写真雑誌でいえば、1980年代の初めごろ、「写真時代」とか「写真生活」とか、主に女の子の裸を中心に情欲をかきたてる雑誌が書店に並びます。エロ本といわれて特殊扱いされていた書籍や雑誌が、いわば写真雑誌という名のもとに公然と姿を現したのです。ビデオはVHSで、繁華街の片隅にビデオを観る館がありました。これはいまもありますね。いまは、ネットの時代になって10数年、スマホの時代になって3年程ですかね。いまや、かっての時代には想像もできないくらいに、セックス映像が氾濫しています。これからも、まだまだ深く解放されていくのでしょうが、この先は読めません。ハードコアといわれる領域、SM領域。なんだか正常というよりアブノーマルな領域が当たり前になってきた感。映画がポルノと任侠を扱ったように、ネットはそれ以上にナマに無修正で配信されるのでしょう。

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この世に男と女があって、男と女が密着して、いい気持になって、子孫を残していく。このことを神の摂理とゆう言い方もあるかと思いますが、神様の存在を信じるか信じないかにもよりますが、小生は神様の存在よりもが科学的な論証を望んできたから、これは生命の摂理、男と女の自然の理です。なんて難しいことを言っているのがばからしくて、小生としては身体が要求する性欲たるものを、どうするかという問題なのです。おっとっと、小生は年齢が高くなってきているから、性欲といっても20代30代40代ほどには催さないようになっているところです。どうもこれは身体の変化というか、精子をつくる機能の、造られる量に拠るのではないか、と思えるのです。生物学とかのところで、どういう説明がなされるのかというのは、小生は関知しないところです。

そもそも性欲は、生命をもった動物であれば、あるものだと思えます。人間以外の動物は、人間のようなおしゃべりをしないから、その気持ったるものはわかりません。人間といったって、他人のことがわからないから、これは個人の経験値にもとずく話になってしまいます。とはいっても一般的に、世にあらわれる視覚を刺激する装置によって、みずからを情欲させることになります。みずからを情欲させる装置としての現在は、何があるのか。イメージとして静止画像、つまり写真があげられますね。かってであれば印刷物、エロ本、でしたが今なら、動画、テレビモニターとかパソコン画面とか、スマホ画面とか、つまり紙のうえではない装置によって、ということが主流なんでしょうね。小生はもっぱらパソコンによって、インターネットを通じてのホームページとかへアクセスして、視覚と聴覚をみてきいて情欲してしまうのです。

リアルとバーチャル、現実と仮想空間。ほんとうは現実のリアルで、結婚という儀式をふまえたうえで、男と女が交情し、性欲を満足させるのがいいのです。でも、現実には、それだけではなくて、そのまわりに様々な性欲を満たす装置が、配置されているのが現実です。小生は、たまたまフィクション・小説という分野に興味があって、ここ10年ほどは読むとゆうより書き手のほうにまわっています。わかいころに読むことがあったエロ文学、地下本といわれていた領域、これを目指していこうと思っているんです。芸術表現には様々な方法とジャンルがあるわけですが、小生は文学・小説という方法でエロスジャンルを選択しているといえます。さて、そのエロスジャンルの表現の中身です。やっぱり究極を求めたいと考えていて、文章による究極の描写を求めています。さて、この究極の描写とは如何に、ということですね。

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木屋町の二条と三条の間には、高瀬川の船発着場があって、その場所は日本銀行京都支店の裏にあたります。高瀬川といえば淀から二条のこの発着場まで荷物を運ぶための運河です。角倉了以が作ったとされる高瀬川。森鴎外の小説には高瀬舟という作品があります。罪人を西国へ流すためにもこの川が使われる。罪人を乗せた高瀬舟が下っていきます。夜のとばりがおりるころ、木屋町通りをはさんだ側の大きなお屋敷、いまは「がんこ」という料理屋になっている此処で、小生は宴会に出席するために参じたのです。ふ〜っと脳裏をよぎってくるのは、明確な言葉でもなく、明確なイメージでもないのですが、しかしかなり明確なイメージが浮かんでくるのでした。着衣の女の姿、色めかしい女の姿、けっこうロマンポルノチックな風情の、昭和か大正イメージの、そうですねモガ、モダンガール風な和服の女、竹下夢二ではなくて、それよりもう少し濃い色艶の女が主人公の物語・・・・。

なにやらひとりでいるときは、妄想にあけくれているような老人です。若い、ピチピチ、皺のない肌、そんな女が目の前に見えます、なんていえば幻覚症状がでているんじゃない、と言われそうですが、たしかに幻覚かもしれないけれど、頭のなかに浮かんでは消えていきます。からだのそとにある視覚イメージとしての写真、音声をともなった映像、それらをパソコンの画面を通して、いつでも見ようと思えば見られます。欲を出さなければ無料でそれなりに深いところまで、バーチャル体験できるんです。よもやまそんなものを見るだけじゃなくて、コレクションして、作品に使うなんてことをしていて時間を過ごす。こんな時間、決して無駄だとは思っていなくて、パスカルさんじゃないけれど、生きてるもがきを感じながらも命ある限り求めるんだな、と思っていて充実、しかし空しい。

空しいといえば、肉体が滅びて行くことを自覚すればするほど空しい気分になります。性欲を満たす代わりに食欲を満たす。その食欲だって加齢とともに新陳代謝機能が落ちてきて、食べ過ぎて消化できなくなって肥満になってしまう。どうしたら、この欲求を解消できるのか。オナニーなんてできないよ、うずうず性欲がおこってきてもそこまでのことには至らない。森鴎外の高瀬舟から、えらい飛躍になっている文章だけど、森鴎外は、小生、大学三年生のときのゼミで選んだ作家なのです。でも、本音で語っていないよね、本質ってゆうか、しょせん物語としてあって、本音の感情なんて表出させていないよね、といいながらここだって、言いたいことありながら本音が言えていない。えろすかろすを標榜してるんだから、もっとエロスとカロスに徹しないといけない、でも実名だから、ペンネームなら出来る、出来ますね。

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<えろす>というのは性欲を伴なう感情を表わす言葉だと思うんです。それから<かろす>というのは美、目を見張るような美的感情を表わす言葉だと思うんです。だから<えろすかろす>という表し方は、小生の感覚からいえば、性的で美的な領域における感情であろうかと思います。エロスにはタナトスという反語で、生と死、なんて語られていたようですが、ここではエロスとカロス、同義語に近い並べ方です。なんだか理屈的に書いているのがもどかしい気分です。でも、こうして文章にしないと論理の構築、積み重ねができないから、仕方がないです。あへあへ、ひいひい、こんな文字を羅列していても論理構築にはなりません。あへあへ、ひいひい、これは論理構築がベースにあって生きる言葉の羅列なわけです。いやはや、<えろす>も<かろす>も生の本質にかかわる事柄だと思っているんです。生きているからだとこころがあって、えろすは横へのひろがり、かろすは縦へのひろがり、性への欲求と美への欲求、といえばわかりやすいかもしれません。

小説はフィクション、作り事だといいますが、それは想像力のたまもの、人間特有のイマージネーション能力がなせるところでしょう。作家という動物が、頭の中にイメージする映像らしきものを、言葉に置き換えていく作業が小説であってフィクションなのです。つくりごとのなかに生きている証を求めていくんです。つくる側の立場としては、映像の細部の部分を言葉に置き換えて、表記していきます。映像なら性器が見えるのはよろしくない、禁止されていますが、言葉ならどういう表記がいけないのでしょうか。性器を言い当てる言葉でしょうか。行為を言い当てる言葉でしょうか。猥褻って言葉がありますが、これは性的な感情を呼び起こすことを指しているのでしょうか。現状ではかなりあいまいなことですが、これは主観にかかるところで、権力を持った人が、主観によって決まる。自主規制って言葉がありますが、そうではないかな?と思ったらそれは使わない、ということでしょうから、逆に、それを使う、というのも芸術のためには必要でしょう。

芸術家がまま政治や経済の規制を超えたところで作品を制作することがあると思うんです。この、規制を超えたところ、というのがどういう処なのか、これを認識しておかないといけません。この場所、処とは、いまある体制を突き崩そうとすること、の立場からのことでしょうか。体制というものは枠があるんです。社会を形作るシステムでしょう。このシステムを崩す暴力なんかは、戦争だったり内戦だったり、これは極めて明らかにわかります。でも、個人のこころのなかのこと、精神といいますか、この心の中のことを、外に出されたところで規制されるんですね。日本国内においての映像表現の限界は、だいたい性器が見えないところまでなら、許されると思えます。これが文字表現、文章表現となると、どうなんでしょうか、使ってはいけない放送用語とか新聞用語とかはあると思うんですが、インターネットにおける個人が商用目的ではなくて、ホームページやブログにおいて使える、単語または文章の制約のことです。

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唐十郎が主宰した唐組の写真集で、状況劇場全記録、という書籍が小生の書架に収まっています。1960年代から1970年代、もう半世紀近く昔のことなのですが、小生にしてみれば、二十歳ごろの学生のころの、おもはゆい感情を伴なった記憶のかけらが散りばめられた、それは目に見える形で残されている写真集&文章です。というのも小生は、1980年代の初め、その流れとも無縁でない東方夜想会・白虎社の写真を撮っていて、全くの未発表ネガをスキャンした画像で、ネットのアルバムにアップしたところなのです。あらためて、いま、その時代、そのイメージを再録すると、エロスでありジャポニズムな雰囲気を醸しているように思えます。小生は状況劇場の公演を見ていません。オクテの小生には当時演劇界のそういった動向は知りません。知るのはそれが終わったころに、その流れをくむ白虎社の取材を始めた連鎖でした。

生きている証は肉体、小生は男体だから、男のからだです。子を孕む女体ではないから、小生の興味はその女体に向けられます。その象徴である胸と股間に、興味は集中します。これって、ごくごく普通の異性への興味であって、細部にこだわるフェチの部類ではないと思っています。ところが、それだけにとどまらず、その女体に縄をかける、拘束具をつけさせる。そういったイメージを具体的な写真にして見せられる。これはどうしたことか。小生は受益者であって、その恩恵を受ける側でした。自らがその主体となるのは妻との交渉だけです。まだ妻と巡りあう二十歳前から、俗に云うエロ本、エロ映画の類を見るわけです。書店に並ぶエロ本を買ったことはありません。友達から見せてもらうことでした。ネットやビデオがなかった時代だから、映像を見るには映画館へ赴かなければならなりませんでした。

大阪は北浜近くに10Wギャラリーって名前の主に写真イメージを展示する空間があります。10Wと書いてテンワットと読むんだと思いますが、小生は今年の夏ごろから、何度かそこの展示を見ています。ロマンポルノっていう呼び方は、1970年代の日活映画が、軟派路線を打ち出して制作しはじめた映画の全体イメージが、これでした。ロマンとポルノを組み合わせたシリーズで、それぞれの映画のタイトルは、情欲をそそる文字が羅列です。なんとなく卑猥な感覚を醸しださせる文字、言葉の、そのイメージを抱かされるのは、たぶんこのあたりのタイトルなどが無意識に心の襞に織りこまれているのかも知れません。その10Wギャラリー、2015年春の企画はパロマンポルノポスター展が開催される。東學と書いてあずまがくと読む名前の人が描くポスター展です。奇才と冠詞された東學氏の描き方には、それはこころ揺すられる感動ものです。

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映画会社日活(にっかつ)のロマンポルノは、1971年から1988年まで制作された成人映画です。1100本が公開されたと記されています。小生は、映画館へ足を運んでの鑑賞はしていません。当時では、広告のポスターを見る程度でした。その頃といえば、ストリップ劇場がいくつかありました。このストリップ劇場へも足を運んだことはありません。小生、二十歳代のことです。ロマンポルノが上映されるようになるまえ、1960年代の後半は、パートカラー映画、主にはモノクロ映画だけど部分的にカラーになるというピンク映画。その当時はピンク映画と呼んでいたと思います。ピンク映画、三本立て、夏の暑い日中、クーラーが効いた館内で、冬の風景のなかで裸の女子があらわれる、そんな鑑賞のしかたで観たものです。京都住まいの小生は、まだ浪人時代でしたから、時間はけっこうあった。京都御苑の東側は寺町通り、新島会館の近くにっ文化会館という名前の映画館がありました。小生が、ピンク映画を観たのは、この文化会館でした。

高校生のころから外国映画をよく見ました。イタリア映画、鉄道員、種着駅、ブーベの恋人、なんだか懐かしい名前のタイトル、太陽がいっぱい、アランドロン、これは観ていなくて、近年BSで観ました。カトリーヌドヌーブ、オードリーヘップバーン、思い出がいまよみがえってきます。そういったなかで、封印されていた領域、それがえろす、エロス、性の領域でした。中学の三年生だれだったか、自分の部屋を持っているお金持ちの子の家へ、友達数人と遊びに行って、そこで彼の机の引き出しに仕舞われていた女性の裸が載った雑誌を見た。友達といっしょに裸体写真集を見たのはこのときが最初であり、最後です。高校生になったとき、だれかがガリ刷りの冊子をまわしてくれた。温泉場で密かに売られているエロ本、地下本の類、ガリ刷りの文字だけの冊子です。興奮しましたよ、若いからだだから、性欲を発情させるには自慰しかないから、それに励むということになります。男子中学生から高校生の性欲処理については、当時は語ることタブーであったと思うんです。

高校生になると、百科事典を紐解くようになるじゃないですか。小生が見れた百科事典は、平凡社が発行していた分厚い本です。密かな興味は女性器の名称とか構造とか。百科事典で該当の検索で引くと、説明文とともに詳細な絵が載っていました。女性器の正面から開いてみた姿。その構造に名称がつけられていて、丹念にそれを読むのでした。現在なら、ネットで検索すれば、それは出てきます。写真はダメで絵です。写真であれ映像であれ、女性器を見ることはできません。現在なら無修正という画像です。実際に見ようとすれば、それは現実の女性のそれを見るしかないわけで、そんなことは高校生の小生に出来る術もありません。彼女ができて、彼女のそれを見たのは、もう二十歳を過ぎてからのことでした。学校での性教育なんて、男子にはありませんでした。いつのまにか知るようになったわけだけれど、小学校の何年生だったか、人が入らない草叢に落ちている、ぐしゃぐしゃのチリ紙をひろげて、眺めて、渇いた処の匂いを嗅いでいた年上の、たぶん中学生の男子の姿を見て、小生にはその意味がわかりませんでした。

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もう半世紀ほども前の話しですが、当時八ミリ映画が手ごろに撮れるようになったころだったと思いますが、この八ミリ映画の上映会とかに連れられていったことがあります。アパートの階段をあがっていった先の一室は、狭い四畳半くらいだったかと思うけれど、窓には遮光カーテンがかけられてほぼ暗闇、暗室になるんです。八ミリ映画の直径5pか6pくらいのオープンリールは、上映時間三分です。カラーの八ミリ、なにが撮られているのかといえば、女の性器、それを男が眺め、弄り、それを接写している、というストーリーです。男子のハメ込は、見た記憶がないから、それは無かったと思います。映写機が回るジーーーという音、映写機から洩れる光の印象、それから50p角ほどのスクリーンに映し出される女体、ぎこちない動作、なにやら喋っているが音声は録音されていなくて、映写機の回る音だけが、静寂を破ってきます。三本立てだったか終見終わったあと、500円をまだ若い男に払って、外に出ると、明るさが閃光のごとく思えて、眩くて、くらくらとしてしまったのです。

そのころ70年代に入っていたと思いますが、外国旅行に行ってきた、たぶん米国、ハワイなのかも知れないですが、その時に購入したという八ミリ映画を見たことがあります。動画を見るということは、映写機という装置がいるから、一般には手元になくて、持っている人のところで鑑賞するということになりました。この八ミリフィルムは、リールの直径が10p以上あったように思えます。だから上映時間は三分ではなく、十五分くらいだったのではないかと思います。アメリカ産のブルーフィルムは、とにかくあっけからんとしたイメージで、暗さはありません。それと外国から薄っぺらい写真集が持ち込まれてきて、見せてもらったことがあります。とにかく、半世紀ほど前というのは、ビデオもなくネットもなくて、動く絵はフィルム、それも八ミリフィルムなら、映写機があれば簡単に上映できたのだと思います。

ビデオ装置が売り出されて、知人が高価な買い物だと言いながらもお買いになられて、一晩、借りたことがあります。すでにVHSのカセットビデオで、テレビモニターにつないで見ることができます。テレビ放送と同じ画面で見るから、それはもう内心びっくりしました。ええ、アダルトビデオ、無修正のモノ、ナマそのもの、これは時間が一時間とかの長さだから、それに音声が入っているから、それはそれは、そんなことがこの世に出現しているというびっくりです。昭和の時代、1970年代のおわりごろから1980年代のなかばぐらいでしたか、ビデオデッキではなくて録音録画ができて再生ができるという機材です。再生だけができるビデオデッキが普及しだしたのが何時頃だったのか記憶が曖昧ですが、通信販売で裏ビデオ五本一万円とかの値段で、流通していました。小生は直接に購入したことはありませんが、知人から譲り受けた裏ビデオが手元にありました。






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最新更新日 2015.1.3


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