寫眞と文章

美学・文学・映像-2-

 7〜9 2014.8.17〜2014.9.16

    

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この夏の出来事で、ネット情報で知った猥褻系のこと、二つ、書きます。ひとつは、ろくでなし子というアーティストの、女性器を3Dプリンタで出力するためのデジタルデーターを、猥褻物だとして、警察が制作者のろくでなし子さんを逮捕した、というニュースです。もうひとつは、現在展示中の写真、愛知県美術館で行われている「これからの写真」展の写真作品が、「猥褻物の陳列にあたる」として警察から撤去指示があった、というニュースです。毎日、ごった煮で報道されるニュース、最近は奇妙な出来事が多いと思えるんですが、それらを個別には詮索しません。としても刑法に定める猥褻罪、これの適用にむけて、これは、権力が民衆を支配するために逸脱した部分を排除する、ということになると思うのですが、表現の自由を主張する民衆とのせめぎ合い、でしょうかね。

ことは、目に見える物体、オブジェであれ写真イメージであれ、これらは視覚から個の内面へはいってくる物体ということです。形が具体化してるから、見ただけでわかる。もちろんそれが何たるかという前知識は必要だけど、見たらわかる。ふたつの事例の中心点は「性器」ということです。オブジェとしての「性器」、静止画の一部をなす「性器」、いずれも本物ではなく、疑似物ですが、どうもこれがいけないらしい。賛否いろいろだと思うが、ぼくの立場は、「性器露出、いいんじゃない」との立場ですが、日本の文化の現状、為政者の目論見などを総合して、感覚的に捉えると、世の乱れを直す、そのことなんだろな、と感覚的に思うわけです。ぼくの知識を総合すると、おおむね、性器の露出はイケない、これが現在の日本の現状のようです。

アーティストの立場でいえば、アートすることとは、絶えざる社会常識の拡大を目論み作品化することであり、新たな地平を切り開くこと、なのです。美学といえば、文字と発音する言葉のイメージで、感じる感じ方は、ぼくには、個の内面の豊かさをあらわす尺度であるようにも思えます。美しいと思うこと、それを追求する美学、だとすればセクシュアルなこと、性的なことなどが、美学の中心問題ではないかと、とらえます。性器を見て、美と感じるか醜と感じるか。たぶん、成人が性器を見るということに付随する感情の起伏、この起こってくる感情を、良しとするか、否とするか、でしょう。ひとつの文化のなかに混在する、それは価値観の現れとして、賛否が起こる。表面的に性器が見えたら、ということだけではなくて、日本文化の質への考察が、必要になってくるのではないでしょうか。いま、ぼくの感覚では、反動の時期です。何に対する反動か、ということは、別途、考える必要があるのでしょう。

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美のイメージとは何か、と思いをはせらせます。何をもって<美>とするか。<美>の感覚、<美>とはいったいどのようなことをもって<美>だと言うのか。美という一文字のなかに込められたイメージを、文学にしたり映像にしたりするわけですが、その本質的なものは何なのか。このような設問をしてみて、いろいろと思えることがあります。そのひとつに、神さまとイメージする領域の、精神の在り方、そこに感じる感じかたが美という感情ではなかろうか、と思うことがままあります。べつにぼくが融合しようとしている訳ではないと思っているんですけど、神社の存在、日本の文化の中で育まれてきた領域ですが、そのイメージの中に美なるものが存在する、と思うことがあります。感情が揺すられる、という表現がいいのかも知れない。感情が揺すられる。

ひとは物理的な肉体を持っています。最初は、生まれてきます。母親の体内から放出されるわけですが、そこは物理的な場です。ぼくの場合だと、京都という場所に生み出されて、そこに育ちます。育つというのは食料を補給して肉体を成長させるということ以外に、環境からの受信でぼくの感性が育ってきます。これを環境といっていいのだと思いますが、この環境に置かれたぼくの感性の作られ方、作ってきた自分、そういうものを総合して、いま、ここに、ぼくが居るわけです。人ってそれぞれにかなり近似していると思います。環境が同じであれば、かなり同じ感覚が保存されるのではないか。もちろん個体、それぞれの特性があるから、その人だけの、パーソナリティ、個別性があると思います。としても、おおむねの傾向が類似する。

そのようななかで<美>の感覚を言語にしていくとなれば、感覚の大きな流れ、二大潮流を書きだせば、わびさびの世界、枯れた美。それと絢爛豪華な世界、耽美。ぼくじしん、そのどちらもが共存していて、というより、侘び寂び感覚から耽美のところまで、幅広く持ち合わせていて、そのシームレスなスケールからみて、いま、耽美のほうに向いてきている、と思っています。この感覚の推移というのは、多分に肉体的なものに左右されるのではないかと思う。いまや、68才ともなれば、肉体的な衰えはそれなりの衰えです。この衰えに反比例して耽美が成長してきたように感じます。たぶん侘び寂びを形に現わされた人の年齢は、ぼくのいまよりはるかに若い、と思えます。来迎図ってありますが、死を迎えたときにやって来るお迎えの隊列。若い美女の楽隊が、たぶん耽美は音楽を奏でながら、大日如来ですかね、迎えられるというイメージが、死ぬときです。このように日本文化は、イメージ化してきたのです。

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西洋文学の祖といえば、聖書をあげることができます。日本文学の場合は古事記でしょうか。初めに言葉ありき、と言われるように言葉が先にあり、その言葉からのイメージが絵画にされてきた、宗教画という流れがあります。日本の場合だと古事記ですが、そのイメージから説話や絵物語が生まれてきて、いまでこそアニメにもなっているところです。ひとの気持を引き付ける、魅了させるという根源を「美」として捉え、そのことを考察することが「美学」だとすれば、美学の根源は、聖書であり古事記である、とうのは稚拙でありましょうか。ぼくは、美のイメージの根源、そして根幹は、その物語ではないだろうかと思うわけです。

絵を描くというのは、写実から始まります。洞窟に描かれる動物たち、狩りをする人たち、目に見えた光景がそのまま類似で描かれる。そのうち目には見えないが、目に見えるような姿で、絵画が描かれる。まだ写真や映画といった今でいう映像が生み出される18世紀以前、脳裏に生じたイメージを絵画に仕立てていく。あるいは物語と絵画は共存して絵物語が仕立てられます。このようにして見ると、イメージ表現としての絵画に先立つものとして、言葉による記述があるわけで、イメージを言葉に置き換える作業、言葉をイメージに置き換える作業、この相互への交換の根源にまで至ると、言語が先か、イメージが先かということになり、イメージが先だ、と現代の考察方法では、導き出せます。

はたして、これからの映像を、どのように展開するかということが、本題のテーマであるのですが、ここまで来て、作品と化すときの映像イメージが、言語から独立したものとなる、と言えると思います。言語はイメージの後を追いかけてくる構図です。言語活動は理知のたまものであります。そうすると「理・知」でないところで作用させることが、映像の独立を成す、基本的条件ではないかと思われます。もちろんこれまで培われてきた理知をベースにした作品を、全く非難したりはしません。本道として言語があり、言語による世界認識があり、そのことから並列して映像が組み上げられるという構図は、これからも有効です。新しい映像のスタイルとして、理知に基づかない領域も、価値の体系の一筋に置いていかなければならない、と思うのです。現代以降の芸術体系の一筋に、です。理知に基づかない、の考察は追って考えてみたいと思います。





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最新更新日 2014.9.18


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