その当時のイメージなんて、現在の静止画像や動画のことからみれば、まるで子供だましみたいな内容ですが、日本の戦後風俗の隠れた精神史として、紐解いていくのは、価値あるものかと思います。まあ、ぶっちゃけて、ここらは、良俗社会からは、封印されている領域ですから、そのことを話題にすることすら、ためらわれます。小生も、この年齢になってようやく、このような文章が書けるようになったところです。思い起こせば、この半世紀、ピンク映画と言われていた時代、SM雑誌が書店で売られていた時代、ビデオが出てきて、レンタルビデオで見た時代。それがいま、パソコンで、ネットのなかで、第三者と対面することなく、極秘裏にそこへいける時代になっています。近い将来、いまもそうですが、テレビがパソコンと一体になって、高画質で動画を、見ることができるようになるのでしょう。掲載画像は、ネットからダウンロードさせていただきましたことご了解ください。
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エロスという言葉とこそから起こるイメージについて考えてみます。
エロスは生きる源泉の力である、なんて言葉が起こってきます。
イメージとしては男であるぼくには、女人の姿を想い起こさせます。
ここでいうイメージとは頭の中に連想で起こる像のことです。
最近だとネットに現われるヌード、交合の場面とかが、具体的です。
着衣の場合もあれば裸体の場合もあり、大股開き姿もあります。
これらは巷にあふれて目に触れたイメージが脳裏に焼きついているもの。
巷に溢れたメディアからのイメージです。
アダルト、18禁、言い方はいくつかあるみたいですが、大人向けイメージです。
これが生きる源泉の力といえば、言い過ぎでしょうか。
意識してみると、ある、ある、山ほどあります。
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えろすは生きる力であり、生きる糧でもあると思っています。
からだを養う食事、こころを養う性欲処理、ひとの二大欲求ですね。
巷を見ても食べることと性のことが溢れているじゃないですか。
とはいっても、性のことは、公然とは溢れていません、隠れています。
どうして性のことを隠してしまうのか、そのことが本質、よくわかりません。
性欲を秘密のベールに包んでおくことで、体制が維持できる。
とはいっても全禁止だと欲求不満になるから、少しだけ解禁しておきます。
かっては裸体写真に陰毛なんてご法度でしたが、いまは解禁されています。
被写体はおおむね女性で、大股開きスタイルで、真ん中にモザイクが入ります。
かなりそれなりに垣間見えるところまで、性器露出がなされています。
とはいえ、外国から入ってくる画像や映像は、それどころではありません。
俗に、無修正、あたかも女性器を見せるための静止画・動画、が溢れています。
男女の性交渉の場面を、静止画・動画で撮られて、ネットに載せられています。
ネットの時代、情報は地球規模で展開されているから、見れます。
生きる力、生きる糧、としてのエロスです。
えろすかろす(4)-1-
もう来年には還暦を迎える歳になる向井伸介が、最近、ある女性に恋をしているというのです。その女性の名前は大沢久美といって24才になる美術家です。河原町の画廊で、偶然に見かけたのが、大沢久美でした。伸介が、久美を見た最初の印象が、それは神々しい女、のようにも見えたのです。芳名録に書かれた名前の字体は、くっきりとたどたどしい楷書で、大沢久美、と書かれていたのです。
「そうなのですか、絵をお描きになっていらっしゃるの?」
「はい、少しだけ、上手ではありませんから、習おうと思っています」
「この画廊の講座ですか?」
「そのように、思って、申し込んでみました」
さっぱりした髪型、薄化粧の顔、清楚な白のブラウスに、黒いズボンを穿いた姿の彼女は、向井伸介がこの画廊で絵を教えていることを知らないようでした。
「そうですか、ぼく、ここで先生をしてるんですよ」
「そうでしたか、それは、知りませんでした、大沢といいます」
「ぼくは、向井です、よろしく、ね」
久美との最初の出逢いは、このような淡白なものでしたが、次の週の土曜日に、ふたたび画廊で出会って、久美は軽く会釈してきたのでした。
画廊の名前が多田画廊。昭和の中頃に創業したという、いまや創業から半世紀を迎えたという画廊です。この老舗画廊に併設されている日本画の講座が、けっこう人気があって、受講する人がいるのです。伸介は、講座の運営責任者で、受講したい人に、満足いくよう、フォローする役割です。
「日本画、古くて新しい絵画、日本の美、それをどうとらえるか」
「そうなんですか、日本の美、ですか、むつかしいですね」
「いや、そんなに難しくとらえると息苦しいから、気楽にいけばいいんです」
「なんにもわからないから、いろいろ、教えてください」
「そうだね、気長に、ゆっくりと、お進みになればいい」
大人になって、新しいことを学ぶということは、なかなか難しいことが多いんです。独学の場合には、基礎と応用が、同じレベルで学ぶから、ステップアップができにくい。その点、画塾では、カリキュラムがあって、そのカリキュラムに沿って学んでいけば、おおむね卒なくステップアップしていけるというのです。いずれにしても学ぶことへのモチベーションが、何にも増して必要なことなのです。向井伸介が大沢久美と出会ったのが、偶然と言えば偶然のことですが、なにかの縁、というものがあるとすれば、それはいったいなにだったというのでしょう。奇妙な出会いから始まった、伸介と久美の物語です。
美について-1-
「美」という概念について、なにやら思うことがままあるんですが、その実態についてが、ぼくのなかで明確にならないのです。
美しいということなのですが、その美しいということで、なにがどのようになるのか。
これは個人の問題で、その人が、美、においてどういう状態になるのか、ということです。
美しいものには感動が起こる。美しいと思うのは感動するイメージに遭遇したとき。
そうか、視覚上での出来事に関して、そのように傾斜するのか。
美術は、視覚、目に見える表現の総体ですかね、音楽ではないし、文学でもない。
そうか、文学、小説とか詩において美を感じるのは、文字によって書かれた文章からイメージが生じて、そのイメージで感動が起こる。
「美」というものは、ひとの心を潤す、からだの潤滑油とでもいえばいいのか。
美は肉体と結びつき、肉体は情を誘発する。
でも、ようわからんなぁ、もう、言葉が先にありきのイズムは終わって、ダイレクトに感じる感性と情が動く感動が直結する状態。
そういう状態にさせてくれる外からのインパクトが、美、というものなのか。
美について-3-
少し趣向をかえて、雑文風、おしゃべりをしてみたいと思います。
というのも、ここでは小説を書いているところですが、遅々として進まない。
なので、ぼくの告白も含め、文章を綴っていきたいと思うのです。
このブログは昨年の2月から書きはじめて、すでに一年半です。
いくつかの小説を書いて、いま、途中で止ってしまっています。
それは、身辺が書くことに集中できなくなったからです。
とはいえ、気になっていて、美について思うところを書きます。
絵画や写真にあらわれる美、絵物語や小説にあらわれる美。
その「美」とはいったい何ぞや、といったことです。
いやはや、論じてみても仕方がなくて、実感することでしょう。
心が洗われるという言葉で、たとえば伝統工芸品の漆器を観る。
そこには「美」があり、美意識なるものが心に起こってきます。
美のイメージが想起されるといえばよろしいか、それに伴う感情。
感じる情、得体のしれないもやもや感、萌える情とでもいえばよろしいか。
美の意識は、絵画や写真という静止した図版を観ても起こります。
美にいくつもの種類があれば、エロスの美、といえばよろしいか。
浮世絵の春画、裸婦の絵画、ヌード写真、裸体彫刻・・・・。
全裸、半裸、着衣といろいろありますが、おおむね表わされるのは女体。
仏像も美の対象、むしろ美の典型なのかもしれないが、仏像はおおむね男子像。
ギリシャ彫刻でも、男性像、肉体美、三島由紀夫の薔薇刑も美対象は男子か。