文章評論第一部
内海淡水写文集

 風景論・ロマンリアリズム(桜の季節)

風景論
 1〜8 2017.6.8〜2018.6.20

 

-1-
風景について再び語ることにしました。
あんまり難しくしてしまうとわかりにくいので簡単に表記します。
写真を撮っていて、目の前に広がる世界というか光景を目にして、写真にします。
実はこのときの「写真にする意味」を捉えようとするのが目的でもあるのです。
でも、いろいろと考えていて、この意味ということ、そのことから語らないといけない。
なにせ本質に迫ろうとして、その本質とはどういうことなのか、と迷宮入りになります。
なので、そのことを排除して、写真を載せていこうと思っているところです。
昨年、風景論と称して、写真集を9冊作りました。
でも諸般の事情もあって、9月末で終了させました。
それからいろいろ考えてはいるけれど、行為にはなっていません。
なんだか虚しい気持ちになってしまって、書けなく、作れなくなったようです。
どうしたことか、ここもぼちぼち、恢復させていきます。

-2-
今日2月11日は建国記念の日という国民の祝日だといいます。
なんでなのかよくわからないんですが、それはぼくが怠慢だからでしょうか。
あんまり深くは考えないようにしていますから、深部はわからなくてよいのかも。
三年前、橿原神宮へ、写真撮影を目的に、グループで行きました。
その後、昨年から奈良の古代史の跡巡りらしきこと、やりはじめました。
橿原神宮は畝傍山の麓にある神社で、明治になって創建されたと聞きました。
そういえば京都の建勲神社も明治になっての創建だと、これは記されています。
日本の風景、美しい自然の風景ではなくて、美しい社会の風景、これがこれか。
美しいという表現は、美(び)ということですが、この美とは、何か。
心情というか、心のなかの感覚というか、そういうことの中身そのことか。
社会的風景に向かって、なんて1966年だったか、もう半世紀も前のアメリカ。
そういえば新しい大統領が選ばれて、日本の首相が今日トップ会談をしてる。
どのように風景が変わってくるのか、注視していかないといけません。

-3-
<内なる風景-1->
自分という身体を介して、その外側と内側があると想定しましょう。
身体の内側というと脳とか内蔵とかとか血管とか、血液とかリンパ液とか。
いってみれば生理的に確認できる、見えるものとしての内側があります。
それから、ここでいう<内なる風景>の内なるという内のことですが。
内面とかいう言葉がありますが、いったいこれが何モノなのか、ということです。
あるいは最近の言葉だと、心とか、精神だとか身体を割ってみても、見えるモノではありません。
それなのに内面、内なる風景、あるいは心とか精神ということがいわれます。
見えないモノを見る、ということをいうようになり、実践しようとします。
これは心・精神の、ヒトの在り方の未来形ではないだろうかと考えます。
そもそも外と内に分けるという思考法、いつのころから成立してきたのか。
たぶん、近代という枠組みの中で、組み立てられてきた言葉ではないか。
そうして、その言葉が醸すイメージを、感情を伴わせて、内に立ち昇らせる。
経験のイメージを、自分の中で組み合わせる。
これを言語に置き換えていくというのが文学、小説、詩、和歌、俳句。
なかなか、この<内なる風景>のことを考えるようになったのは最近ではないか。

-4-
<内なる風景-2->
 コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって、にかけて「内的風景に向かって」という言葉が浮かんできました。半世紀前の写真家意識というのは、社会的風景に向けて作品を創るということだと言えます。それから半世紀後の現在では、人間の進化というか変化も含め、その意識の向かい方は内に向かってきていると思います。外面がひろがって、自己の存在を認識できるようになったところから、内面を認識するように目覚めてきたといえるのではないか。ケン・ウイルバーでしたか「進化の構造」のなかで、このことを分析していたように記憶しています。

 個を中心に世界の構造をみると、外にひろがる世界と内にひろがる世界があることに気づきます。内にひろがる世界のことを「内面」という言い方や「心的風景」「心象風景」といったような言い方があるかと思います。この内面のイメージを、平面に静止画として定着させるということを、自分表現の一つとして浮上してきていると思います。今更のことではなく、それは1930年代とか、1960年代とか、いくつかの年代を越えて深化してきているように思えます。新興写真運動や社会風景への認識を越えて今があると思えることです。風景の発見ということを文学上で論じるのは柄谷行人氏です(日本近代文学の起源:1978)。

-5-
<内なる風景-3->
今日は2017年3月6日という日付です。
ここに掲載した写真は嵯峨天皇陵の正面から撮ったものです。
すでに撮った日時は過去になったことです。
時間という意識の区切りは、ひとの記憶を司ります。
ところが内なる風景というとき、この時間がランダムになります。
一年前の2016年3月6日という日の記憶は、一枚の写真で記憶が呼び覚まされます。
ここには掲載しませんが、日付がはいった写真でした。
その写真を撮ったときのことを思いだします。
お別れした日の、そのあとの、傷心をとどめようとした記憶がよみがえります。
連鎖的にそのことが起こった日のこと、そこに至った日々のことを思いだします。
内なる風景は、記憶だから自分には幻影で見える風景ですが、写真のように定着しません。
写真が内なる風景の定着であろうとするなら、それは、どうすれば、そうなるのか。
内なる風景と表現された風景は、乖離しているわけですが、そこに美が介在するのかも。

-6-
宮内庁が管理している御陵が、京都市内から西の方には、あちこちにあります。
その管理地の御陵には、掲載した写真のような柵があり鳥居があります。
目に見える形で、その場所へ赴くと、その姿が確認できます。
いまや、これら御陵は、社会的な風景となっている光景です。
この光景を見て、ぼくは、内的な風景へとイメージをふくらませていきます。
表現とは、その外的風景を表して、内的風景を感じさせることではないか。
現代に近づくにつれ、この内的風景を表すことが、表現の大きなテーマとなります。
文学でいう「内面の発見」という概念です。
表現の歴史をざっくりと俯瞰してみると、内面を発見してくる歴史でありました。
この内面という問題を、絵画や写真という静止したイメージで、解いていく作業。
このことが、いま求められている課題なのだと思います。
いかに具体的に、それがイメージとして成立するか、でしょうか。

-7-
<風景ということについて>
 このまえに、風景を見る個人の変遷みたいな話を、どこかでしていたんですが、柄谷行人さんが「日本近代文学の起源」という評論で、明らかにされたのは、<風景の発見によって内面の発見につながる>という論の立て方でした。なるほどそうなのかと思うわけです。大きな流れとして、現在的には、表現のテーマが個人の内面を扱い、どのように表出していくか、というのがメインテーマだと感じているところです。この風景という概念は、目の前にひろがる風景、ランドスケープそのもので、たまたまぼくが認識するから、ぼくに見える風景ですが、客観的にはぼくがいなくても存在するものです。とは言いながらも、ぼくがいるからその風景がある、という個人の視点に即した捉え方で、風景なるものがとらえられるのだとも思います。

 写真展で1966年にアメリカで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって展」の話題を語ることがあります。詳しくは別にしますが、ここで「ソーシャルランドスケープ」という言葉、直訳で社会風景、あるいは社会的風景、ということですが、これは写真家の目の前にある、生活を伴った風景、日常風景、ととらえていいのではないかと考えています。この写真展の作家たちのスタンスというのが、それまで、つまり1960年代までにカメラが追ってきた風景と個人の内面との関係で、ひとつには自然風景ではない、ひとつには個人の日常ではない写真風景に対して、という位置での写真であったように思います。この展覧会の名前から、略されて日本では「コンポラ」という言葉が流布されるのですが、コンポラの意味を、今一度、捉えなおす必要があるのではないか、と現在、思っています。

 歴史の流れを全く否定するのではなくて、それとは別の流れがあるだろう、というのがぼくの現在地点での風景論なのですが、表現において、個人が自分の外の風景を自分のものとする視覚には、個人の内面をどのように表出するか、という問題が含まれると思うところです。この内面の表出と、個人が何処に向かって、誰に向けてといってもいいと思いますが、その相手先との距離感ですね、これの総合として作品が生み出されるのが、現在的表現そのものではないのか、と思います。写真表現に限りません。文学表現にもこのことは当てはまるのではないかと思います。では、それが、いったい、どういう内容のことになるのか、ということです。その時代において、主たる表現媒体のインフラを想うと、1960年代半ばといえば、日本においてはテレビがメインで、もちろん雑誌などの印刷媒体が主でした。それは半世紀後の現在を見ると、個人ツールとしてのスマートフォーンです。個人のことを発信することが容易にできて、容易に受け取れる、こういう時代が現在です。

  

ロマンリアリズム(桜の季節)
 1〜 2018.3.11.2018.4.4

-1-
ロマンリアリズム宣言
もしくはローマンレアリスム宣言
2018年3月11日 淡水

春の気配になにやらうようよ蠢いてくるものがある。
皮膚のうちがわの血が騒ぐ、あるいは潮が満ちてくる。
これは初源の蠢きといっていい。
豊かな感情、正確な描写、芸術の原点、<これ>を求めよう。

時代の風潮はいまや内面の時代だ。
体の内部の情なるものを表に出そう。
豊かなる感情と感覚を求めるプロセスとして。
新しい文学と表象を我の内部から紡ぎ出せ。

もっと本質本音を表現として掘り下げようというのだ。
これは論外に置いている領域を論内に取り戻せ運動だ。
表現の根源は生の根源、性の痕跡を表に現わすこと。
新しい潮流がいま始まっていく宣言をここに発する。

-2-
<桜の季節>
今年は桜の開花が早いので、まだ三月が一週間あるというのに、満開になっています。毎年、桜の季節になって、桜の開花が伝えられると、こころが浮き立ってきます。陽気との関係もあるのかと思いますが、こころが浮き立つ、もぞもぞとからだが蠢いてくる感覚になるのです。花といえば桜のことのようで、パッと咲いてパッと散る、これが武士道だというのだけれど、ぼくにはどうもそぐわない感じです。もっともぞもぞ、ぐずぐず、うごめいている感じで生きている気がします。それでも、ここ十年、桜の季節には桜を撮ります。見返してみると、その都度、撮り方が変わってきています。今年はスマホで撮っています。スマホといっても、エクスペリアという機種で、ソニーが製造している機種で、たぶんそこについているカメラ機能も、この機種に作られたやつだと思います。オートでストレートに撮って、パンチにして黒枠つけて露出とコントラストをつけて、保存します。おおむねこの保存した画像が、ここに載せたようなイメージに仕上がるのです。インスタグラムのカメラで撮るときは、その場で編集してライブ発信します。ライブで発信する、ということにこだわっています。いまは静止画ですが、動画がスムーズにアップできれば、動画を使う、これは制作態度というやつで、撮る場所、ライブ、そこに自分という生命体が介在している、ということの存在感を表しているのだと、思っています。即時性、ライブ感覚、共有、そんな感覚で世界とつながっている、そう感じることで、自分が安定する気分になっていきます。同行してくれるヒトが欲しくって、同行していただいて、親密感を抱いて、夢の中、ロマンリアリズムに浸っています。春の嵐、読み出しました。

-3-
今年は、スマートフォンで桜の風景を撮っています。作画というか絵作りは、なるべく奇を衒わないように、突拍子もなく変わったことをしなくて、日本画の構図とか、それに類似の絵画とか、その風味をスマホで出せないかと試みているところです。
 スマホといっても、アップルのiPhoneを使っていたけれど、一年半前からグーグルのアンドロイドに変えています。機種はソニーのエクスペリア、そこに入っているカメラを使って撮っています。正方形で作るイメージは、インスタグラムにアップする画像で、ライブでアップしています。現場で撮って加工してそこからアップしています。このライブで静止画という方法を、あえて採用しています。
 そのほか長方形で黒縁しているのは、数時間から数日遅れで、ブログにアップします。ツイッター、facebookに連動させているので、ブログに載せた記事が、facebookで見れるようにしているのです。でも、これだとFacebookつながりの人にはあまり配信されないようなので、facebookへ記事をアップするという方法も混在させています。
 そんなこんなで、桜のある風景を求めて、名所古刹、神社仏閣を訪ねて、桜のある風景を撮ってアップしています。スマホで撮った静止画には、場所を載せられるので表題の補助となり、画像が桜だけで場所を特定する風物をいれなくても成り立つので、スマホでは、位置情報も作品の一部として、信憑性を保持しようと考えています。スマホで撮る静止画が、作品として成立するように、と考えているところです。

-4-
例年よりも桜の開花が早かったのですね。それと桜の開花は日本列島北上していくんですね。桜の話題は、何かと話題になる、話題です。というのも桜の話とかイメージは、日本国民の意識レベルで、生活レベルで美意識につながっていると思うんです。小説家が桜を素材に、小説の風景として書く。坂口安吾とか、谷崎潤一郎とか、ほかにも多々あると思います。日本画の世界でも、東山魁夷とか、あげだしたらきりがないほどいらっしゃいますね。写真も、桜を素材に撮って、表現された作品を見ます。東松照明が桜を撮って、写真集にされています。そうなのですね、芸術の各表現のなかで、各ジャンルの作家が、桜をテーマにして、素材にして、われわれの意識に刻み込んできます。

 ぼくも桜の取材は、1980年代から、その季節になると、浮足立って撮影に入ります。新しい切り口でイメージを構成しようと思って取り組みますが、なかなか難しいです。難しいといえば、技術的な難しさと表現する意図を明確にするという難しさの両方があります。どこまでいっても際限なく奥が深いと感じています。この記事のトップにあげた写真は、昨日、4月2日の午前中、京都の千本えんま堂に咲く関山桜です。千本えんま堂といえば「えんま堂普賢象桜」が固有種としてありますが、まだ蕾でした。文化の中にある桜を、文化をバックヤードとして撮る、このことに想いをはせています。思想的には「考察する」とかの言い方が適当なのでしょうが、ぼくはそれほどの学術家ではないので、散文的に感想をつける、程度でいいんだと思っているところです。

-5-
毎年のことながら、桜は咲きだす便りを見聞きすると浮足立ってきます。
そわそわ、落ち着きが無くなって、花見気分に浮かれ出します。
ぼくは酒を飲まないから、飲食しながら花見する、という癖は持っていません。
でも、浮き立ってくるんですね、不思議ですね、気分が高揚してくる。
この歳になって、気づいたんですが、からだの内側がムズムズしてくるんだ。
生殖の兆しが、体内にあらわれてきて、顕在化してくるんだ。
そのもぞもぞの、うごめき感が、気分を高揚させるんですね。
人間は年中が発情期だといいますが、動物的には春が発情期ですね。
そのせいで、桜の季節って、こころがかき乱され、浮足立ってくるんですね。
5月の牡丹の頃は、こころは熟れ切っていて、発情の真っ最中なんでしょう。
なにかしら、生き物の原点を、想像しながら、桜の花を見ています。
(桜の季節おわり)










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最新更新日 2018.5.30

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