物語のブログ


秋立ちて-3-

 17〜24 2018.10.20〜2018.11.9

 

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 ホテルのロビーにある喫茶ルームへ、北村信之と水際紗子と大田多恵、この三人がテーブルを介して座った、大学卒業以来十数年ぶりに顔を合わせた三人だ。
「コーヒーにする」
北村がそういうと紗子と多恵もコーヒーにすると言った。東京からの来客、北村はスーツ姿、紗子は赤いドレスを着ている。多恵は和服からワンピースに着替えていたが外出着だ。
「久しぶりだよ、もう十五年が経つのかな、早いなぁ」
「そうですよ、早いですよ、あっとゆうてる間に、三十五」
「紗子とはおない年だから、わたしだってね」
「ぼくは、もうアラフォーだよ、紗子と多恵、懐かしいよ」
「紗子さんは、エッセイストで売れてるから、収入もたっぷりでしょ」
「それは、まあ、そこそこの値段で請け負うから、でも保障なしよ」
「北村先輩は、会社員なんでしょ、お給与制なんでしょ」
テーブルにコーヒーが運ばれてきた。話を中断して、コーヒーカップがテーブルに置かれ終わるのを待った。
「独身だな、われら、どうしたことか、独身だ」
「そう言われてみると、紗子さんも独身なの」
「そうよ、まだ、適当な男が見つからないのよ」
紗子が、つまらなさそうに言葉を紡ぐ。
「わたしだって、縁、ないわ、でも、まだまだ若いんだし、いいんじゃない」
「そうね、いまだから、いいかな、ほら、大宮太一って男子、いたじゃない」
「病院の跡取りだった奴だね、医学部生だった奴、死んだ奴」
「そうよ、その大宮さんと、わたし、好きあったのよ」
告白だ。紗子の告白は、好き合っていたというのだ。紗子が卒業したら結婚したいと言ったという。同棲するところまでは、大宮の実家の手前上、紗子と大宮は考えなかったが、それに近い関係だった、と紗子がいった。思い出してみると、それとなく、その気配は感じとっていた多恵だったが、こうして告げられてみると、それは明らかになった。
「そうだね、ぼくは太一から聞いていたよ、悩んでいたんだ」
「そうでしたか、北村先輩は知っていたんですか」
「太一が言ったんだ、言い方わるいかも知れないが、女に逃げていたんだよ、太一は」
「わたし、卒業して、結婚なんて考えていなくて、恋人のままでいようと思ってた」
「いや、太一が死んだのは、紗子のせいじゃないよ、病院を継ぐことに反発してたんだ」
「そうね、大宮さんは、音楽にも文学にも精通していて、文学青年だったですね」
「透谷とか、太宰とか、好きだったから、死神に取り憑かれたのかもなぁ」
「彼、大宮さん、何度も泣いたのよ、わたしを抱きながら、泣きじゃくってた、それが可愛くて、わたし抱きしめてあげて、温かい肌してた、それが死んだのは、わたし、別れてからよ、お父様がどうしても許してくれないといって、でも、死ぬって、そんなことで死ねないわよね、わたしだって、なにが彼をそうさせたのか、わからないのよ」
紗子の話は、淡々と、言葉を選びながら、語っていた。多恵は、ふっと松宮の顔を思い浮かべた。この前の夜、関係した男子だ。結婚。その相手として松宮を考えることはいけないことだ、と思う多恵だ。北村と紗子を前にして、脳裏に浮かんだ松宮良一のイメージを、多恵は消しにかかった。

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 紗子と対談した翌日は、昼前に野村真紀が陶房にいる多恵のポートレートと制作作業風景を取材しに来た。約束どうり午前11時にやってきた真紀は、若い旅行者の格好で、キャノンのカメラを首からぶら下げ、背中にはリュックだ。ロングスカートは渋い茶色で乳白食のジャケットを着ている。
「ここですか、いいですね、静かで、京都ですね、いいですね」
玄関から窓際のテーブルには座らないで、陶房の作業場に入ってき真紀の図々しさに、京都人の志保には、ついていけないなぁ、との感じを持ったが、それも志保には行動派で好感が持てる女子だと思う。
「そうね、作業場で、物置になってるけど、ここ背景でお写真、おねがいします」
「道具がいっぱい、それに乾燥中の器も入ります、いいですね」
真紀が手際よくシャッターを切ってきて、動作をする志保をスナップされる志保。玄関からいうと奥の開いたところが野の花が咲く庭だ。ちょうど秋海棠の花が咲いている庭に、真紀が魅力を感じたのか、目を見張った。
「いいですね、京都のお庭ですね、ナチュラルで素敵です」
「野村さんは、まだお若いんでしょ」
「そうですね、でも、28になっちゃったんです、この前」
「若い、まだ、まだ、これからね、真紀さんは、多才ですね」
「大田さんは、詩人になりたいとか、それが陶芸ですもの、素敵です」
真紀は小一時間取材して、お昼ご飯前には、銀閣寺と哲学の道と南禅寺を散策して東京へ戻るといって、多恵陶房を出ていった。来客が帰ったあとはお昼だ。多恵は、まだお腹も空かないから、昨夜に取り出しておいた同人誌を開いてみる。多恵は、同人でいろいろあった出来事を思い起こすけれど、同人ではなかったオーケストラ部員だった島崎和則のことを思い出す。思い出すというより、深い関係だったから、二十代の頃は思い出すのが辛かったが、最近、三十を過ぎたあたりから気持ちは穏やかに光景だけが浮かんでは消えるようになった。
<そうよね、もう十五年だもの、いまや昔、よね>
水際紗子が自殺した大宮太一と恋愛関係にあったと、昨日、聞いて、腑に落ちなかった思いが払拭された多恵だった。多恵には、誰にも言っていない彼がいた。オーケストラでバイオリン弾きの島崎和則。大学で一年の時、同じクラスだった男子だ。好きになった。どうしたわけか、密かに会うようになった。島崎が恋人だなんて秘密にしておきたかった。関係したのは半年ほど交際したころだ。セックスにのめりこむことはなかったが、そののち、感情のもつれから、別れることになって、多恵にはそれ以降、恋に深入りはしなくなった。
<松宮くん、良くん、いい男子だわ、からだを潤ませる人に、なってもらうおうかなぁ>
家柄からしても、松宮良一と結婚なんて、できるわけがないから、遊ぶといえば汚らしいが、そういう関係でいたいな、と志保は思った。イケメンだし、逞しいけど、なよなよしい処が志保には愛らしい感情を育ませる。そうそう、あのことがあった翌日、午前中に十万円を封筒に入れて持ってきてくれた。律儀な男子だ、と多恵は感心した。

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 多恵の作風は伝統工芸品というより創作陶芸品だと、現代美術評論家の沢木治郎が書いた。煌びやかな色彩をシックな素材でまとめた内面描写は心打つ、と批評した。言葉で表現され、情緒に訴えられ、その陶芸作品が写真イメージで載せられる。そのページは、月刊誌陶苑に六ページの記事として編集される。
「そうですか、お待ちしています、明日午後2時、ですね」
北村信之が、多恵に会いたいと、スマホの電話で連絡してきた。この秋になって顔を会わすのは三度目だ。待ち合わせの場所は、銀閣寺道から哲学の道へはいる角の喫茶店だ。多恵は、先輩北村が会いに来る要件が分かりかねたが、受け入れた。翌日は秋の雨が降っていた。きつい雨ではなく、傘が要るか要らないかほどの雨降りだ。時間が時間だから、食事ではない、喫茶だけ、夕方にはわかれて、北村は東京へ日帰りで戻るのだろう、と多恵には思われた。
「雨だね、ちょっと鬱陶しいな、でも、京都のこのあたり、風情があるなぁ」
「編集のお仕事で、お忙しいんでしょ、北村先輩」
「大田多恵、京都、銀閣寺、哲学の道、多恵陶房、もう35歳なんだね」
「北村さんは?」
「四十、越えた、京都は、落ち着く、このあたりいいね」
「祖父の支援で、ここに陶房を持つ事が出来たんです」
「あとで、陶房へ行きたい、野村真紀が感動してた」
「わたしって、なにもないのに、外見ばっかり」
「そうじゃないよ、内容、濃いよ、大田多恵の立ち位置」
「そうですね、そうかもしれない、でも、わたし、普通の女よ」
「普通の女って、その普通という意味が、ははっ、昔もこんな話をしたっけな」
「北村先輩は、いつも、その意味するところは、なんて追求派、だったでしょ」
多恵の今日は黒基調のスラックス姿だ。北村は後輩の多恵を、可愛い、と思った。小さな喫茶店で、落ち着いた洋風だが、窓辺に座る多恵の姿は魅力を放っているように感じさせる。男心を動かす北村信之だ。
 あの当時、多恵が大学生でまだ二十歳前だったころ、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた同い年の島崎和則を好きになった。文学同人の仲間ではなかったから、北村信之や水際紗子には内緒にしていた多恵。二十歳になった頃、感情が高ぶっていたけれど、陰湿なケンカになって、別れてしまったのは多恵だった。良家のお嬢さま。祖父の太田耕三が、孫の多恵を可愛がったし、持ち物もブランドものばかりで、女子学生としては贅沢なものばかりだった。
「大宮さんと紗子がいい関係だったなんて、初めて知ったんです、このまえ」
「ぼくは、大宮の恋人だってことは、知っていたけれど、なのにどうして大宮が死んだのか」
「どうして、死んだ、なんて本人しかわからない、わからないですよね」
話題が、学生時代の、男と女の関係に及んできて、男の北村は女の多恵に、遠慮がちに言葉を選んでいる。死に至った理由を詮索する北村だが、多恵にはそれほどの哀しみはなかった。

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 小雨が降るなか、多恵は北村と哲学の道を銀閣寺から若王子の方へと歩く。それぞれに傘をさしたから、会話ができないまま、北村が前を、多恵が少し後ろを歩く。もう桜の葉が紅葉をおえ、梢にはわずかの茶色くなった葉が残っていた。北村が後ろを振り返り、多恵に声をかけてくる。雨の中で、聞き取りにくいので、多恵が聞き直す。
「京都に宿泊して帰ろうかな、と思ったんだよ」
多恵には思いがけなく北村が京都に泊まるというので、どうしようかと思う。あと少しでお別れして、やり残しの仕事をかたずけたいと思っていた矢先だ。
「そうですか、どこか、ホテルご予約しないと、いけませんわ」
「そうだね、ビジネスホテルでいいんだ、多恵さん、いっしょに行けませんか」
「そうね、北村先輩のお話も聞きたい、どうしょうかな」
「無理にとはいわないけど、つきあえよ」
北村は、あきらかに多恵を女としてみている。多恵にはわかる。十年ぶりに目の前に現れた北村信之。東京の出版社では陶芸雑誌の編集次長だ。陶芸作家としてデビューする多恵の前にあらわれたメディアの操り手だ。何かの縁を感じた多恵だった。
「先輩、そうですね、内緒で、つきあっちゃおかな」
もちろん多恵は独身だし、北村も独身だし、多恵には男としての魅力を感じるし、身近にも感じるところだった。
「湯豆腐が喰いたい、南禅寺がいいな」
「同人の新年会で、行ったこと、ありましたね、南禅寺の」
「そうだよ、そこ、いいだろ、そこで夜にしよう」
「電話してみます、予約」
「そうしてくれたら、ありがたい」
多恵が二人、湯豆腐で有名な老舗、雲亭に午後六時、個室を予約した。八坂神社の前にあるホテルを北村が予約する。ツインのルームを予約した。まだ時間があるので、一旦、陶房に戻った。北村も一緒だ。人っ気がなかった陶房は、秋雨のなかすでに温度は二十度なくて寒い。ストーブを入れる。二階の生活空間へ招くほどのことはしない多恵だ。赤い光を放つストーブ。ガラスの引き違い戸が入れてある向こうの庭は、雨に濡れた草が、光ってみえる。
「いいなぁ、京都、落ち着くなぁ、時間が止まる感じだ」
「お忙しいんでしょ、北村先輩、編集のお仕事」
「そうだよ、営業もしなくちゃいけないから、大変といえば大変だな」
「わたし、東京へ行ってみたい、東京にお部屋、持ちたいと思ってる」
「そうか、ぼくは、京都に、ワンルーム、持ちたいな」
午後五時半が過ぎたところで、多恵がタクシーを呼ぶ。タクシーが配車され、多恵と北村は、南禅寺の雲亭へと赴いた。

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 南禅寺の湯豆腐屋雲亭の座敷は四畳半で、三方が壁で、間口の対面の壁に窓、間口は二枚の引き違い襖だ。和室で、二人だけでくつろぐことができるようにされている、中居が鍋を用意して、料理の小皿が並べられ、豆腐がある。
「京都だな、趣があって、落ち着くね」
「ええ、わたしは京都にいてるけど、湯豆腐の店へは、あまり来ませんね」
「どうしてなの、風情があって、京都らしい」
「わたしは、鍋なら、水炊きがいいの、あまり変わらないかしら」
ぶくぶく煮立ってきたので、食べ始めることにする。北村が小鉢に豆腐をあげ、多恵が同じように豆腐をあげる。ポン酢に紅葉おろしだ。小皿には小魚の炊いたの、漬物、煮物、十皿が並べられ、生湯葉や生麩がついている。
「そうですよ、わたしなんか、まだまだ駆け出しですよ、技術だってまだまだですよ」
「でもな、多恵ちゃん、作家を支える筋ってのもある、有名になるには、だ」
「それとなく、わかりますが、わたしはこれだけのわたし、のんとは普通の女よ」
「まあ、それはそうと、未婚、なんだろ、正真正銘の、独身だろ」
「変なこと言うわね、そのとおり、もう、熟れ時も過ぎそうよ」
「その気はあるのかい、結婚とか、さ」
「それはあるけど、まま、ならない、好きだけじゃ、どうにもならない」
湯豆腐の湯気と鍋の熱さで、四畳半、部屋の中が暖かくなっている。多恵は、行儀悪く、足をずらして女座りになる。向き合う北村は胡坐座りだ。
「まあ、無理にとはいわないけどさ、おれ、独身だよ、どうだね」
「まぁああ、北村先輩、冗談はよしてくださいよ、本気にしちゃいますよ」
多恵は、日本酒を杯に注いでもらって、ちょびちょびと呑む。北村は、酒豪だから、二合徳利を三本目だ。酒がまわってくると、愉快になるタイプの北村だ。陰気なのより扱いやすいし、気分が楽だ、と多恵は思う。学生の時には、よく酒の宴があって、北村はウイスキーをラッパ飲みしていたのを、多恵が思い出す。もう四十にもなる北村は、そんな無茶な飲み方はしないが、酒豪であることはそのままだ。雲亭へ入って一時間半を過ぎた。支払いは北村がクレジットカードで支払い、まだ時間は早いから、とはいいながら、タクシーを呼んでもらって、予約してあるホテルへと向かった。

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 北村信之と南禅寺の湯豆腐雲亭からタクシーで祇園のホテル前まで同伴してしまった大田多恵。フロントへ行く前に信之がコーヒーが飲みたいというので、道路に面したコーヒー店へ入った。食事は二人きりだったし酒の場でもあったから、多恵は疲れを感じていた。わざわざ東京から会いに来てくれた先輩の信之に感謝の気持ちもなくはなかったが、彼の真意が測りかねて、どうしたものかと思うのだった。
「ええ、コーヒーをお飲みになったら、わたし、帰ります」
「そうなの、多恵ちゃん、一緒にいたいんだ、多恵ちゃんと」
コーヒーはセルフでカウンターで受け取るので、多恵が受け取り、信之は先に空いているテーブルに座っている。コーヒーのカップを丸いテーブルに並べて、砂糖もミルクも入れないで飲む信之だ。四十になる男の旅行者。ダンディないでたちで、小柄な多恵とは似合ったカップルだ。バッグ一つの軽装で、東京からやってきた雑誌編集者の先輩信之だ。真意を測りかねる多恵に、信之は、多恵に好感を示している。
「個展会場で、会った時、多恵ちゃんの変容とゆうか、その美しさに見とれてしまったんだよ」
「なにをおっしゃるのかと、わたし、普通の女よ、三十半ば、そんなに若くないもん」
会話には、敬語が混じりばがらも、親しみ込める言葉使いが混じる。ほろ酔い気分の東京からの来客を、おもてなしする京都の女大田多恵だ。
「いや、ぼくは、キミのこと、学生時代の多恵と出会ったんだな、そのとき」
「学生時代って、もうずいぶん昔よ、もう、随分と昔よ」
「ほら、オーケストラにいた奴、多恵ちゃん、好きだったんだろ」
多恵は、いきなり昔の、そういえば恋人、いいえ、もっと深くまで入った関係の男子のことを言われて、胸を締めつけられる。
「いまさら、先輩、そんなお話し、もう、いいことよ」
「ぼくは、嫉妬してた、もう昔のことだから、いえるけど、ね」
「いいのよ、いいんです、もう昔のことですから」
「そうだよな、昔だよな、若かったよな、まだ」
感慨深げに、多恵の傍で、コーヒーカップを弄びながら、北村信之は言葉を紡いでいく。多恵と信之のあいだに、その頃の光景がフラッシュバックしてくる。
「嫉妬だなんて、先輩、わたし、恥ずかしいですよ、今更、そんなこと」
「でも、それは、清算しておかないと、陶芸家大田多恵との付き合いが始まらない」
「なんだったんでしょうね、何に切羽詰まってたんでしょうね、わかんない」
「大田多恵って、あの頃も、旧家のお嬢さまだったから、近寄りがたいところもあったのよ」
北村には、眩い存在に見えていた太田財閥のお嬢さん。多恵は普通に青春を、大学生生活を、過ごしていたとしても、経済的に豊かでなかった北村には、眩い、その心の襞にまで入りこめないバリアーを感じていた。も四十になって、それなりの仕事をしている今では、むしろ多恵の心の襞に触れたいと思うところだが。

-23-
 11月になった。北村信之は、一泊どまりで京都へ行き、デビューする陶芸家の大田多恵と時間を過ごした。その頃、北村はすでに学生を終えていたが文学同人誌を主宰していた。その時はまだ学生だった多恵が同人メンバーにいた。多恵は、北村には、思い出の多い女子学生だ。好き合ったとかの関係はなかったが、良家の一人娘だということで、興味を持ったのだった。この秋になって、その頃のメンバーが京都に集まったのだ。多恵の個展をきっかけに、北村が編集次長を勤める陶芸雑誌で大田多恵を取り上げることになって、詩人の水際紗子との対談が実現し、雑誌の編集作業に入っているところだ。
「大田多恵って、素直なお嬢さま、って感じで、好感もっちゃったですよ」
編集部の野村真紀が手を止め、対面のデスクに座っている北村に話しかける。多恵陶房で撮った多恵のスナップ写真を数枚、ページに入れる版下つくりをしているところだ。
「そうだよな、好感もてる女子だよな、そうなんだ、そうなんだよ」
「なにが、そうなんですか、次長、先週、お会いになったんでしょ」
「そうだよ、会って、いろいろと話を交わした、京都の夜、落ち着いた時間だった」
「夜もご一緒だったんでしょ、大田多恵さんと、危険だなぁ」
「なにいってるのか、なにも、なかったよ、なにもなかった」
「むかし好きだった女の人、北村次長の、恋人だった?」
「まさかキミ、それは勘繰りすぎだって、そうではなかった」
たしかにそうではなかったし、オーケストラの島崎和則と恋に陥ってたと分かったところだが、恋心がなかったかといえば嘘かも知れない。
「夜、メシ、喰いに、行こうか、渋谷がいいか、本郷がいいか、真紀ちゃんに任すよ」
「渋谷がいい、高級なステーキ、おごってもらえますか、ふふっ」
「いいとも、奢ってやるよ、真紀ちゃんには、惚れているからなぁ、オレ」
「奢ってもらって、奪っちゃおかなぁ」
「なにを、さ、真紀ちゃん、オレ、本気にするぜ、いいのか」
「冗談ですよ、次長、可愛いから、ちょっと可愛がってあげたいな、と思って」
今日の編集仕事をかたずけたのは夜八時。本郷から渋谷へメトロででかけ、駅から少し離れた道玄坂途中にある店だ。高級というほどではないが、編集部ではよく接待に使う店だ。ここのステーキは、年配者でも口に合う美味しさが売り物だ。真紀も北村も、牛肉は250グラムを頼んで、ワインをいただくことにした。
「わたし、北村次長のこと、敵対心じゃないんですよ、そうじゃなくて」
「いやに、女々しくなっているじゃないか、真紀ちゃん、どうしたん」
普段は男のような女だと、男連中からは思われている野村真紀だ。原稿をいただく先生方からも、その理知なスタイルには、隙がないと言われている。真紀も承知していて、美貌には自信があるが、才能あり、編集部のつわものでいようと思っているところだ。その野村真紀が、これまでには見せなかった素振りを感じる北村信之だ。

-24-
 野村真紀は大学で美学を勉強して大手出版社への就職を希望したがかなわず、美術系専門の出版社で仕事をするようになった。大学を出て五年が過ぎて今、月刊誌陶苑の編集部員だ。なかなかの才女で、仕事をテキパキとこなす女性選集者として作家や批評家からの受けもいい。ただガードがきつくてプライベートには触れさせないとの話も聞かれる。その真紀が、上司の北村信之にプライベートを見せ始めた。
「わたし、負けるな、と思って頑張ってきたけど、ちょっと疲れたかなぁ」
もうステーキの半分以上は食べてしまったテーブルの席。ワインを飲んだから、少しはゆったり頬が紅潮しはじめた真紀だ。向かい合った北村に、聞いてほしいとばかりに、ぽつぽっと話しだした。
「がんばってるのはわかる、がんばりすぎてるってことも、わかるなぁ」
「わたし、会社やめようかと、思ったり、するんです」
「それは、ただ事じゃないな、仕事のやりすぎかな」
「そうかもしれない、がんばっても、死んだらなんにもならない」
「疲れてるんだな、特集の仕事終えたら、少し休みを取れよ」
「ありがとうございます、北村次長、でも、いいの、わたし、いいのよ」
いつも束ねている長い髪の毛を肩におろした真紀を見る北村だ。女だと思った。渋谷のステーキ屋で、男と女が食事するムードを醸す雰囲気は作られているから、情緒が揺らぐのだ。思いがけなく真紀が心を開いてきたから、北村の気持ちが揺らぐ。店を出たころ、真紀は少し足元がゆらついていた。介助する北村の腕にすがって、坂をあがっていく方へと向かう。駅とは反対の方角だ。
「いいの、次長を可愛がってあげる、可愛がってあげるからぁ」
横道にはいってサチという名のラブホテル、その入り口ドアの前にに立った。野村真紀と北村信之、部下と上司だ。ともに独身だから、スキャンダルでも何でもない。静かな佇まいで女と男が連れ添ったとしても、誰も咎めることはない。サチホテルの部屋に入る。バストイレスペースがありワンルームの洋間だ。大きなベッドが置かれていて、壁には大きな鏡が張られている。ベッドの横の床は漆黒のフローリングで肘掛椅子とマーブル仕立ての丸いテーブルがある。
「ううん、わたし、とっても、欲しかった」
黒いスーツに身を包んだ真紀は、そのボタンを外しながら、恥じらいもなく北村の前で、洋服を脱ぎ始めた。














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最新更新日 2018.12.2


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