淡水の写真と文章

春の匂い

 1〜9 2018.3.24〜2018.4.23

    

-1-
 春の匂いがしてきます。どのような匂いかといえば、草もゆる、そう、土筆が出てくる頃のムッとする土の匂い、淡白な匂いだ。青さがあるといえばいいのか。青い春と表現するじゃないか、若い気持ち、初々しい気持ち、男子が女子を好きになり、女子が男子を好きになる。校舎を出て、正門の横まで来たとき、大柳省吾の目にとまったのが、紺の制服の肩に、髪の毛が擦れて揺すれている、刈谷順子の姿だった。一年年下の女子で、小柄で端正な姿、運動部でもないのにスポーツ女子のような雰囲気を漂わせている。まだ、会話をしたことがないが、省吾には、どういうわけか、その女子が気になっていた。
「こんにちわ、これ、先輩のじゃないですか」
刈谷順子がさしだしてきたのは、文庫版の小説だった。ヘッセの春の嵐という小説で、数日前に省吾が失ってしまった読みかけていた本だった。
「どうして、きみが、これを」
省吾は彼女に好意を持っていたから、心臓が高鳴った。失った本を、どうして彼女が持っているのか、すぐにはわからなかった。省吾は、高校の二年生、男女共学校で順子は一年生。まったく関係していくとっかかりがない省吾と順子だったが、省吾が気になったころから、順子も気になっていたというのは、のちになってわかったことだった。
「食堂の藤棚のテーブルに、あったので、ひらいてみると、名前が書いてありました」
「きみは、刈谷ってゆうんだろ、刈谷さん、ありがとう」
「大柳さま、先輩、そうよ、わたし、刈谷順子、稲刈りの刈に谷間の谷、順番の順で、刈谷順子」
「ぼくのなまえを、知っていたんだ、どうしてか、知らないけれど、知っていたんだ」
「おおやぎしょうご、って有名ですよ、賢いヒトだって、音楽ができて、文学青年なんだって」
女子のあいだでは、省吾の噂でもちきり、女子の間で男子の人気投票をすれば、一位になるのは間違いなしだというが、省吾には、それはわからない。その省吾が地味な風采の順子の表情に、遠くから見ているだけなのに、惹かれるのは、なになのか。噂のほどには女友達がいない省吾に、噂にものぼらない男友達がいない順子。返されたヘッセの文庫本に、短い手紙が挟まれていた。
「大柳省吾さま、デートしてほしいです、お返事ください、刈谷順子」
その日は、それで終わって、省吾は、断る気持ちは毛頭なかった。順子は、淡い期待をもって、省吾の返事を待つだけだった。

-2-
 順子は、省吾からの返事を待った。返事は、会って聞くしかなかった。三日が経った。デートしてほしいとのメモを、春の嵐に挟んで渡したのが金曜日だから、土曜、日曜、月曜、そうして今日は火曜日になった。学年が違うから、校舎が別で、会う目的で近づかないと、会うことがない。偶然は、食堂か、図書館か、校門近くかだ。あたたかな日、まもなく春休みになる。順子は、校門が見える図書館の軒下で待つことにした。軒下は日陰だから、春とはいえまだまだ足元が冷える。ソックスを穿いていて、靴を履いているけれど、スカート丈が膝だし、ソックスは膝下だし、フレアのスカートだから、生足が冷える。マフラーは首に巻いていなくて、手袋は鞄にいれたままだった。午後四時がまわって、校門を出ていく男子を見張りながら、小一時間も待ったところで、学生服姿の省吾が見えた。順子の胸が高鳴った。ドキドキ、顔が紅潮してくるのがわかる。ぽ〜っと上気してくるのがわかる。卒倒しそうなほどに、めまいがしてくる。さりげなく、図書館から出てきた風を装って、省吾が校門の手前へ来るまでに、順子は校門のほうへと向かった。省吾の前に、横から割って入るようにして、順子は、並んだ。
「刈谷さん、図書館だったの」
省吾が、順子をみとめて、顔をみて、言った。順子は、省吾の顔をみることなしに、横に並んで、一緒にあるいた。校門の外は道路に沿って新しい家が並んでいた。校門をでて右へいくと市街へ、左へいくと山すそだ。
「大柳先輩、横で、歩いても、いいですか」
暖かい匂いを順子が感じる。顔が火照る気がする。声が出せない気がする。胸がドキドキ、こんなことは初めてのことだ。初恋、とは言えないかもしれないが、これは初恋、高校一年生、16才の初恋だ。
「ううん、いいよ、返事しなくちゃ、いけないんだった、ごめん」
省吾の方が背が高い、170pだ。順子は小柄で160pに満たない。省吾が横を向くと、順子の髪の毛が目の前になる。間を詰める。30pという間隔だ。省吾は左に鞄をさげ、順子は右に鞄をさげている高校生二人だ。
「先輩と、一緒になって、わたし、ごめんなさい」
「どうして、ごめんなさいは、ぼくのほうかも」
「いいえ、わたし、どうしょ、いっしょに歩いて、いいですか」
「ああ、いいよ、いっしょに歩こう」
「うっ、うっ、うれしい、ほんとですかぁ」
「鳴滝を見に行こう、歩いたら、15分ぐらいかな」
順子は、答えをもらっていないが、拒否されたとは思えなくて、安心したけれど、不安だらけの安心だ。初めてのデートといえたのかどうか、偶然ではなくて待ち構えていて偶然を装った結果、並んであるくことができたのだ。人通りはなかった。チンチン、チンチン、踏切の遮断機が下りて、電車が近づいていることを知らせているけれど、順子の歩いている道からは、音は聞こえるが見えない。カタン、カタンと電車が線路を踏む音が聞こえ、ブレーキの音が聞こえた。電車は、鳴滝駅に近づいてきて停車したのだった。

-3-
 省吾は17才。女子と一対一でつきあうのは初めてだ。ガールフレンドと交際する、ということに男子だから性欲もからめられて、思うことがあった。女子についての興味は、未経験分野で、経験の仕方がわからなかった。グループで、男女が入り交じって一緒に遊ぶ。もう中学の三年のころには、女子を、女子であることを意識したし、遊ぶといっても、公園で落ち合って、話をしたりする程度で、俗にいう男と女の関係などにはなるほども成熟していなかった。
「だから、ぼくだって、刈谷さんの名前くらい知っていたよ」
「そうでしたか、わたし、知らなかったです」
「食堂のテーブルで、何人かでしゃべっているのを見て、知ったんだよ」
「わたしは、ね、大柳さんのこと、賢いヒトだって、高校生になってすぐ、知りました」
30pの間隔で、カバンを省吾は左に、順子は右に持っていて、お互いのからだの間には空間があった。住宅になった道を山のほうへ向かって歩く。初めてのデート。省吾は、どうしたらいいのか、順子の顔を見ることもないままに、正面を向いて、歩くいた。順子が横にいて、省吾が足早に歩くから、その歩調にあわせようとして、小走りにまではならないが、ひとりで歩くスピードよりも速い。何を話したらいいのか、順子にしても戸惑っている。なにを話題にしたらいいのか。男子であることを意識する順子だ。
「鳴滝って、滝の音がするんだよ、松尾芭蕉も来て、俳句を詠んだんだよ」
「松尾芭蕉って、俳句のひと、習いました、名前、知っています」
「そうだよ、奥の細道とか、全国を旅して、書き残した本があるんだ」
「わたし、興味あります、俳句とか、短歌とか、習いたいです」
「そうなの、教えてあげようか、ぼく、少しならわかるよ」
一条通りを渡って、了徳寺のまえを通って、高尾から京北町にいく国道の腋に、その鳴滝があった。省吾は以前にきたことがあったけれど、順子は初めての場所だった。ざざざざっと水の音が聞こえる。そこは岩場になっていて、水が滝になって流れている。そんなに驚くほど高くはなく、広くはないが、地名にもなるほどだから、ここにいることで、何か、神がかるような思いが、ひとのこころに生じてくるのだろうか。国道から脇に入ると、急な石の階段になっていて、省吾が先に数段降りて、まだ階段の上にいる順子を振り返り、右手をさしのべた。順子は腰をかがめ、手をさしのべ、省吾と手を握り合って、降りた。省吾は、順子の手を、かなり強く握って、倒れ込むのを防いだ。柔らかい、温かい手だと感じた。順子は、省吾が手をさしのべてきたのを、一瞬、驚いたが、手を出して従った。

-4-
 順子は16才、高校の一年生だ。中学生のときに好きな男子がいて、その男子は二年生のとき、クラスが一緒になって、机が前と後ろになって、その男子は翔太という名前だったが、うしろから悪さをしてきて、なにげなく可愛らしくて、いま、省吾に好意を寄せる好きさとは違って、もっと子供じみた好きさみたいな、仲良しになった。翔太との恋は15才まで続いたけれど、卒業して、淋しい気持ちになったけれど、高校生になってすぐに、翔太のことは忘れてしまった。順子は、男子を好きになるタイプで、多感な気持ちを、異性と交わらせたい欲求になってくるのだった。
「だって、さ、大柳さんって、とっても優しそうな先輩だよ、憧れるなぁ」
「むり、むり、無理よ、順子がいくら頑張っても、頭が違うでしょ、彼は秀才さんよ」
「そうかなぁ、わたし、魅力ないかなぁ、彼のこと、好きになっちゃったのよ」
会って話を交わしたこともない男子を、遠目に見ていて、憧れる16才の順子。まわりに男子がたくさんいて、好きさ加減に順位をつける女子もいるけど、順子は、どうしてだか惹かれる男子にだけ、気持ちを集中するタイプだ。女子のあいだで、噂する男子は、たくさんいる。順子には、男子の話をするのが、好き。友達同士で、男子の噂をするけれど、大柳省吾だけは、誰もが良いという男子だ。一年上で、秀才で、スポーツはやってないけど、音楽部で、合唱の指揮をしていた。秋の学園祭で、大柳省吾が、ギターを演奏して、女子を魅了させた。順子も、そのひとりで、ステージでギター演奏する省吾を見て、胸がキュンキュンしてきたのだ。噂によると、ピアノも弾けて、文学も出来て、つまり、順子のレベルからすれば、賢くて素敵な先輩男子、というわけだ。
「抱かれてみたいわ、わたし」
といったのは順子の友だち愛子だけど、順子にしても、そういわれれば、抱いてほしい、いやいや、抱いてあげたい、そんな夢想が、ドラマのシーンとあわせて、想像してしまうのだった。大柳省吾が食堂で昼ご飯を食べる、というので見学に行った順子。文庫本を読んでいた省吾が、その本をテーブルに置いたまま、去って行った。忘れ物だと順子は思い、その文庫本を手にした。ヘッセの春の嵐という小説だった。順子は、隠すつもりはなかったけれど、その本を手にして、それから鞄にいれた。盗むつもりではなくて、興味津々、どんな本を読んでいるのか、知りたかったから、とっさの判断だった。返すのに、どうしようかと、思案した。あれこれ考えて、待ち構えていて、手紙を挟んでお渡ししよう、と考えた。大柳省吾さま、デートしてほしいです、お返事ください、と書いて、刈谷順子と名前を添えた。そのメモを文庫本に挟んで、省吾を待ったのだった。

-5-
 鳴滝を見に行って、ざざざざっと流れ落ちる水音を聞いて、その場所は自動車道から入って石の階段を降りたところだから、省吾と順子は、まわりから閉ざされ、二人だけになっていることを、なにげなく意識した。男子が女子に、女子が男子に、興味を持つのは、ふつうのことで、省吾は17才だし、順子は16才。それぞれに淡い気持ちだけではなくて、現実としてのセックスを、抱きあうことを想う年頃でもあった。
「ねえ、先輩、水の音、素敵ですよね」
滝つぼに落ちる水の音に、順子の声は、かき消されそうになる。水の流れに顔をむけていて、横並びだから、聴こえにくい。順子の声に、慎吾が答えなくて、流れ落ちる白い水面を見ている。順子は、どうしたものかと、内心困ってしまう。言葉がないと、困ってしまう。
「本を拾ってくれて、ありがとう、このまえ、お礼をゆうの、忘れてた」
かなり大きな声だったから、順子に聞こえた。順子は、省吾の言葉に、少しの間をおいて、返答した。
「いいえ、どうしたしまして、ごめんなさい、先輩」
「どうして、ごめんなさいなの、ぼくこそ」
「いいえ、わたし、見ちゃったの、本のなかのメモみたいなの」
省吾は、メモ紙かわりに、思いつく言葉を、書いていたのだ。女子にかかる内容のことも、メモ書き風に書き記していた。
「そうなんだ、見たんだ、ぼくのメモ」
「だから、ごめんなさい」
人の秘密を見た感じがする順子。男子の心の秘密を読んでしまった順子。男子の悩みというか、からだに関する疑問が言葉にして、男子の描き方で記されていたのだった。
「いいんよ、見られても、刈谷さん、ぼく、ちょっと、恥ずかしいけど」
滝のところから道路にあがる階段を、こんどは順子が先にあがります。省吾があとに続きます。石の階段を上がりきって道路に出ると、乗用車が通り過ぎる。市内へ行く道、国道になっているからそれだけ交通量も多い。並んで歩きながら、話を交わす。
「ピアノは、小っちゃい時から習ってたけど、音楽家にはならない」
「そうなんですか、大柳先輩は、音楽、得意じゃないんですか」
「好きだけど、職業にはしないんだ、ぼくは医者にならないと、いけない」
「お家が、病院だから、ですか」
「そうだよ、そう決まっているんだ、ぼくは、嫌だけど」
「わたし、なんにもないけど、どうしようかな、いいお嫁さんになりたい」
「そうなんだ、刈谷さんは、お嫁さんなんだ、いいね」
嵐電の鳴滝駅まで戻ってきて、省吾は等持院の駅へ帰る、順子は帷子ノ辻へ帰る。ホームに行く手前の踏切で電車が来るのを待つ省吾と順子。順子が乗る電車が先に来る。ちん、ちん、ちん、と警報機が鳴りだして、順子が線路を渡り、ホームにあがって、電車の到着を待った。帷子の辻行きを見送って、省吾はホームのベンチに座った。夕暮れの淡くて暗い光がホームに流れている。丸い傘がついた裸電球に、灯がともった。

-6-
 三月の終わりころから学校は春休みに入った。省吾は三年生になる準備だし、順子は二年生になる準備にいそしむ。とはいっても学校が休みになると、会うことがままならない。省吾からの連絡を待つ順子だ。連絡は電話だ。おたがいに家族の者に受話器をあげられないように、ダイヤルしてコールされてリーンリーンリーンと三回なって切れる。これが合図で、掛け直すと相手がでる。長話ではなくて、会う時間を決める、それだけのことだ。落ち合う場所は鳴滝駅だ。順子から電話があったのが午後三時過ぎだった。コールされて切られ、省吾から掛け直したら、すぐに順子が受話器に出た。
「もしもし」
「大柳さん、わたくし、家、今から出れる」
「じゃ、ぼくもすぐに出かける」
これだけの会話を交わして、省吾が、家を出た。順子は、電話を終えると、五分ほど時間を置いて家を出た。鳴滝の駅には、省吾が先に着き、順子が少し遅れて着いた。まだ夕暮れまでには二時間程の時間がある。
「歩こうか」
ただ、とぼとぼと並んで歩く。順子が省吾の手を握ってくるので、省吾が握り返す。柔らかい、温かい、順子の右手。手の平の柔らかさが女子の証しだ。省吾の手を握った順子は、じぶんのよりひとまわり大きな手指の男の手を意識する。
「三年だし、受験勉強しなくちゃいけないし、なぁ」
「わたくし、二年だし、就職することになるから、楽といえば楽です」
「そうなの、短大とか、大学とか、進まないのか」
「行かなくてもいいんだって、親が、ゆうのよ」
「ぼくなんて、医大へ行け、そればっかりだからなぁ」
「大柳さんは、賢いから、難なく合格なんでしょ」
「そんなこと、ないよ、ぼく、そんなに賢くないよ」
省吾が、握り合った手を、ぎゅっときつく握ってきて、順子は、ことばよりその手の感触に、気が行ってしまう。手を握る、握り合う、男と女が手を握り合う。高校生にとって、交際が始まってまだ最初のころだから、意識の中では漠然とからだのことを思っても、まだ実行に至らない。男同士での会話には、女の話が話題になる。女同士の会話では男子のことが話題になる。とはいえセックスの相手としての深くまでは話さない。友人の間でもそのことは話題にしない。この日は、鳴滝まで歩いて、滝の淵で、抱きあった。抱きあって、唇を重ねた。抱く勇気を持ったのは省吾の方だった。順子は、ハッとしたようにも見えたが、省吾の抱き寄せに、従った。順子の息する音と匂いが、省吾に感じられた。体の中が蠢くのがわかった。







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最新更新日 2018.5.22


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