淡水の写真と文章


淡雪の街

 1〜9 2018.2.8〜2018.3.8

    

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大江康介は困ってしまって、適当に「淡雪の街」と名付けた。此処を過ぎれば淡雪の街、そんなイメージで、此処と其処は違うところだ、と区切りをつけるつもりだ。此処は淡雪ではなくて大雪。テレビを見ていると、盛んに北陸地方、福井と石川の県境あたりが大雪に見舞われ、国道には1400台もの車両が動けなくなっていて、数百人の自衛隊員が災害派遣され、降り積もった雪をスコップで退けている光景が映しだされている。人海戦術を余儀なくされている状況を、東京の放送局スタジオから、はるか遠くの光景を呼び出し、あたかも困っている風を、大変だ、大変だ、とばかりに放送している。しかしそれは此処の風景、此処の光景だ。二昼夜車に閉じ込められた人たちに食料や水が配られていることを報じているけれど、おしっこやうんこは、どうしているんだろうなんて、話題にはならない。
「もう、あきらめるしか、ない」
「なるようにしか、ならないんだ」
インタビューされる運転手たちは、そう答え、雪に埋もれたトラックの列が映しだされる。コンビニやスーパーマーケットの食料棚は品切れで、なにもない光景が映しだされる。ぼくは、雪のない街にいて、大雪どころか淡雪にさえ、見舞われていない。なのに、朝の目覚めは、よろしくなくて、電気毛布を敷いた布団の中で、寝返りを打ち、夢の中をさまよい、しだいに目ざめてきて、窮屈なパジャマを着たからだを起こす。ほんとうは、裸で寝たいのに、パジャマを着て寝るのが習慣だから、そうしている。何も予定がない日。起きて、顔を洗って、朝食はコーヒーと低脂肪の牛乳で、それ以外はとらない。朝食抜きというのでもなく、コーヒーと牛乳、それに医者が処方した薬を一錠、番茶でグイ飲みする。コーヒーや牛乳で飲むと、薬の効き目がないように思えて、番茶にしている。コーヒーや牛乳で飲むとどうなるか、医者に訊ねていないから、どうなのか、わからない。
 大柳省吾の消息を知りたくて、同窓会に出席したとき、だれか省吾の消息を知らないかと訊ねまわったところ、彼、自殺してるよ、と消息を教えてもらった康介は、驚いたけれど、それがいつ頃のことで、どこでどうして死んだのかはわからないというので、それは不明のままでいまに至っている。省吾は其処を通り越してその奥へ行ってしまったわけで、康介には、高校生だった省吾のイメージが思い浮かぶ。写真はない。というのも省吾は別の進学高校へ再入学していったから、卒業アルバムには載っていない。記憶はかなり明確で好きな女子がいて、その女子のことを、電話で話をしていたときに、よく訪ねてきたから、その女子が好きだったのに違いない。16才の片思い。きっとせっぱ詰まっていたから、恋することにはまりこんでいたかったのではなかったか。そういうことはよくあることで、窮地に陥ったときには同行二人の同行者を求める気持ちがそうさせたのではなかったか。

-2-
 大柳のことを考えていると、その死因がなんだったのかと、気になって仕方がないのだが、それを誰に訊けばいいのか、まったく手がかりがない。あれこれ推測してみても、わかることはなにもない。
「そんなこと、考えていたってなんの役にもたたないよ」
その話をもちだしたら、友だちは、役にたたない、といった。そうなんだろうな、そんなこと知ったところで、役に立たないよな、と康介は思った。
「でもな、死ぬ奴って、崖っ淵まで後ずさりして、そのまま転落しちゃうんだよな、前向いて、飛び込んでしまう奴っていないよな」
「そりゃわからん、後ずさりするのか前向いているのか、それはわからないけど、あっちへ行ってしまうわけだ」
そんな話題をテーマにしても、何の役にもたたないとわかっていても、室谷明は、康介の話題に乗っている。
「あそこの病院の跡取りだったわけだし、あそこは精神科だし、大柳もその気があって、足場を踏み外したんじゃないかなぁ」
「そうかも知れないけど、そうでないかも知れないよな、結局」
「結局、死んだ奴に訊いてみないと、わからないよな」
「訊いてみても、明確に答えなんて言ってくれないよ」
「明確になっていりゃ、死になんてしないよな、きっと」
「死神に取り憑かれて、生神に見放されたんだろうな、どっかで」
「ところで順子って子がいただろ」
「いたいた、懐かしいな、その子はその後、どうしたんだろ」
「わからないなぁ、消息が、つかめない」
康介は酒は飲まないが、酒飲みの室谷明と待ち合わせ、居酒屋へ入って、ビールから始まり清酒をちびりちびりどころかコップで飲んでいる。話題が、へんなほうに行ってしまったのを室谷が気づいて、話を女のその後に移った。順子という名の女子は、康介と室谷の学年より一つ下の女子で、仁和寺の裏山の庵のような小屋に、母と兄と順子の三人で暮らしていた。その順子を、たぶん、室谷は、好きになっていたのではないか。いまとなっては、そのことを、問うこともままならない。問うて、好きだったよ、と室谷は答えたけれど、ただ康介にとっては、それだけのことに過ぎない。康介が知っている事実は、当時順子はすでに恋していて、康介でも室谷でもない男子を好きになっていた。康介は、そのことを順子から、直接、聞いたから、間違いない。としてもそんな話は、はるか昔のことだ。

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大江康介がまだ若かったころ、といっても40になる前だったから、30数年も前のことになる。そのころ、康介はビジネススクールの教員をしていて、けっこう忙しくしていて、世の中は好景気に浮かれていた。若かったし、まだ体力は性力でみなぎっていたから、学生できていた女子に、言い寄っては、関係を結んでいた。そういうなかに涼子がいた。高校を卒業して、宮崎市内で勤めたが、どうしても大都会の会社に勤めたいというので、ビジネススクールに入学してきた。涼子はもう20を過ぎていたが、幼顔でまだ未成年と言っても十分に通った。
「それで、わたし、アルバイトをしてるから、先生、お店へ来て、これ」
そういって涼子が健介に渡した名刺には、南のバーの店の名前があって、涼子・RYOOKO、と印刷されてあった。
「そうなんだ、バイトしてるんだ、夜のバイトなんだ」
「お金がいるでしょ、稼がないと、いけないのよ、先生、わかるでしょ」
康介には妻子があり、マイホームがあり、住宅ローンがあり、それはまともなサラリーマンの模範のような生活を送っているなかで、起こってきた。都会の底辺で生きている男や女を、康介は、自分とは違う世界にいる人間だ、と思うまでもなく、思うことすらする余裕がない日々生活を送っていて、浮気をする余裕もなかった。涼子との出来事が、康介からいえば若い女との浮気であり、涼子からいえば妻子ある男との情事、であった。
「うううん、わたし、先生のこと、好きになったみたいよ、だから、抱いてよぉ」
夜の涼子は、スクールでは見せない姿で、艶めかしく振る舞い、康介を誘惑してきた。康介は、無理に拒否はしなくて、金はかかるものの、涼子が勤めるバーへ、何度か通った。そのうち、街の中でおちあって、ホテルにはいって、セックスする関係になっていた。
「もうじき、わたし、卒業よ、いい子になって、就職して、いい旦那さん、みっけて結婚して」
「そりゃそうよ、わたし、マジ、有名にもなりたいけれど、そんな器じゃないし」
「でも、いいの、旦那と子供と、仲睦まじく生きて、死んでいく、それでいいのよ」
涼子の言い草は、なんとなく投げやりなところもあったが、康介に無理はねだりはしなかった。
「先生のこと、好きになっちゃったから、先生の家庭を、乱したくないの」
いつのころからか、たばこを吸うようになった涼子をみて、康介は心揺すられ、奈落の底を見てしまうような寂寞とした心境になってしまうのだった。

-4-
そのころ涼子はまだ二十歳を過ぎたころだったし、幼顔だったから、ビジネススクールの男子学生にも評判になっていた。評判というのは、器量よし、可愛い、美人だ、といった類の外見だけではなくて、あいつとやったらどんな声を出して呻くんだろうか、とか、あのときの顔を見てみたいな、とか、写真グラビア雑誌に出てくる女子とかわらない、印刷物の中の女ではなく、ビデオの中の女ではなく、実物の女として、手の届くところにあるけれど、手が届かない、という風だった。男子の学生が涼子のことを噂しているのを耳にした康介は、まだ涼子とは先生と学生という関係でしかなかった。
「でしょ、先生、それ、やっぱり、高いですよね」
「まあね、一回一万円、時間は30分、そうだよね、高い」
「でも、お客さんは、次から次、来るのよ、ほんとうよ」
「でも、本番まではやらないんだろ、そうだろうな」
「もちろんそうよ、そこまではその三倍、それも気に入ったらのはなし」
「気に入らなかったら、やらないわけ?」
「そりゃそうよ、わたしにだって選ぶ権利あるわけだし」
「でも、客の男って、それを求めているんじゃないのか」
「ええ、手でしごいてあげて、出してあげて、そこまでよ」
涼子は、南のバーにいて、そこから、どうして、そういうところにまで、いってしまうのかを、話しはしなかった。康介が、そういう涼子に惚れだすのは、それなりに涼子と自分とのバリヤーが低くなっていたかだだ。二人だけで会うといっても、最初のころは難波の喫茶店で話をするだけだった。それが何度か過ぎて、涼子がひとりでいるのが淋しい、と言い出した。男を殺す文句として、それは涼子にとってふさわしい言葉なのだろう。そういわれて、康介がだまっていられるわけがない。初めてのラブホテルで、涼子は、康介を受け入れなかった。抱きあったところまではいったが、入れる処にまで至ろうとすると、涼子がからだをするりとかわしてしまうのだ。
「先生、いっせん超えたら、もう、おしまいよ、だから、ここまで」
涼子は、裸になって、愛撫まで受け入れるのに、勃起させたモノを握るだけで、入れさせはしなかった。

-5-
 室谷明から電話があって、会えないかと言ってきたので、大江康介は次の火曜日、あの喫茶店で朝ミーティングをすることに決めた。朝ミーティングとはいっても、午前11時まで、モーニングメニューがあって、そのモーニングメニューからお気に入りのメニューを選んで、朝昼兼用の食事とするという。会って話をするといっても、緊急を要する案件ではなく、取り留めなく世間の話題を追認していくことが多い。その日は青空で、費の光はもう春を告げていたけれど、寒風が吹いていた。デラックス朝食、ウインナにベーコン、スクランブルの卵、サラダにトースト。飲み物はオレンジジュースにヨーグルト、コーヒー。午前の光が入ってくる窓辺のテーブルで、男が二人、なにやら話をしている。
 室谷明は大江康介と違って、ストレートに上級社会人としての道を歩んできた男だ。大学は国立ではなかったが、私学の雄、そこの経済学部で学んだあと、商社に就職して大きな都市の支店長にまで昇進した男だった。それなりに苦労もあったというけれど、世間から見れば、出世コースを辿ってきた勝組であった。
「それが、それが、だよ、順子の居所がつかめたんだ」
「そうなの、順子の居所が、つかめた」
「金沢近辺の、田舎町に、いるという話だ」
「そうなの、あの順子が、金沢に、いるのか」
「なんだね、大江、気になってたんだろ、彼女のこと」
「いやぁ、室谷こそ、気になっていたから、探したんだろ」
同じ学年でもない女子の消息を、半世紀も後になって探すことじたいが、よほどの好き者でもないかぎり、そこまでのことはしないのに、室谷の情報通で、探し出す。職業柄か、探偵ではないと思うが、室谷は、そういうことにたけているのかも知れない、と大江康介は思った。
「でも、情報だけで、会いに行くなんてことは、無いよな」
「一年下で、順子と同期の男が、知っていたんだ、消息を」
「でも、住所とかわかるのか、連絡先とか」
「同窓会名簿から拾い出してもらって、聞き出したよ」
モーニングにしては、たっぷりの量で、朝昼兼用で十分に足りる食事だ。コーヒーを追加注文して、午後一時過ぎまでその喫茶店に居座った。

-6-
 大江康介が大柳省吾と一緒に過ごしたのは高校一年から二年生のとき、同じクラスになったことから始まった。同じクラスになって中学生の時から知っていたから、急速に関係が深まった。青春という時期、政治や芸術のことに興味を持ちだす年頃で、大人になってからは稚拙だったと思えることを、真剣に悩んでいた。プラトニックラブという言葉の意味が分からないまま、好きになってしまった女子にラブコールした康介だけど、省吾は省吾で康介とは別の女子を好きになっていた。
「それで、すれ違うだけで、ドキドキしてしまうよな」
「ほんとやね、好きな子だから、そうなるんやろな」
千鶴子っていう名の同級生の女子が、康介が好きになっていった女子だった。省吾は一年年下の女子が好きで、学年が違うから、最初は近寄りがたかった。その子が文芸部に入ったというので、省吾も遅れてそのサークルに入った。省吾と順子の間柄は、その後、順子の方が省吾を好きになっていった。秋の学園祭の実行委員として、省吾が二年生のひとりに選ばれ、順子が一年生のひとりに選ばれ、男女七人が実行委員会役員として、ともに時間を過ごすことが多くなり、好きどうしになったのだ。
「それで、手を握ったのか、順子の、手」
「そこまで、いけるわけないやろ、プラトニックだよ」
省吾は、真剣なまなざしで、青春の切れるような感覚のなかで、順子を思っていた。
「順子のことを思うと、勉強なんてやってられない」
とは省吾の言い草だった。17歳の恋心。男子が女子を好きになる。極々当たり前のことだけど、省吾は、すでに自慰をしていたから、その時には、順子の顔が思い浮かぶんだ、とも言った。プラトニックだとは言いながら、性欲が湧いていて、その想像の対象は好きな女子を思うことだった。
「家の前まで行ってみたんだ、小さな家だったけど、そこに住んでるんだ」
「それで、会ったのか」
「会えなかった、家、見ただけだよ、それで、身近になったんだ」
「そうだよ、順子だって、おしっこするんだよ」
「そうだよな、俺らと一緒だよな」
「でも、ちがうんだ、俺ら男だけど、順子は女だ、男と女のちがいだよ」
「どこがどう違うって、からだの構造が違うんだよ、男と女は」
「そうだよな、からだの構造が違う、メスとオスだよな」
女子の生態について、康介も省吾も、学校の先生から教えてもらうことはなかった。女子に生理があって、それが子供を産むための、からだのことだ、ということは、うすうすわかっていることであったが、本当か嘘かは、わからない。進んだ男と女は、高校生なのに妊娠した生徒がいると、年寄りの男の先生がつぶやいたことを、康介は耳にした。康介と省吾は、図書館に備わっていた百科事典で、女の身体、のページを開いて、図解入りの構造を見ていた。男の子が、女の子を、妖精ではなくて現実の女子として認識しだす年齢だ。

-7-
順子が母と兄と三人で暮らす庵は、仁和寺の裏、御室八十八か所巡りの終点になる所にあった。その当時、父はすでに亡くしており、兄は高校を出て、肉体労働を伴う仕事に就いていた。この順子のことを、一年上の室谷明が好きになっていたが、順子には、別に好きな男子がいた。その相手が、大柳省吾であった。十六歳の男女のことだから、大人の世界からいえば、たわいない男女間だけど、気持ちは鋭い刃物で切り付けるほどに張りつめていた。
「しらないよ、しらないったら、知らないよ」
「でも、わたし、どうしたらいいのか、わからない」
「ぼくだって、どうしたらいいのか、わからない」
「兄ちゃんが、面倒見てくれてるんよ、母の病院費」
「だから、高校をやめるって、いうん?」
嵐電は、北野白梅町と帷子ノ辻を結ぶ路線で、順子が利用する液は、御室という駅名だ。省吾は等持院に家があったから、嵐電に乗らなくても、御室駅へは歩いていけた。順子にしても、山を少し降りる感じで御室駅までは歩いていけた。省吾と順子が落ち合うところがこの御室の駅前だった。
「でも、ぼくは、別の高校へ行くことになるし、刈谷さんとは、もう会えないかも」
「そしたら、文通できますか、わたし、でないと、どうしたらいいのか」
「ぼくは、管理されているから、手紙のやりとり、できない」
「できないって?」
「そうだよ、母が封を開くと思うんだ、だから、それは、困るだろ」
「ええ?もう、会えない、文通もできない、そうなのですか」
省吾よりも順子の方が好きになっていたから、閉ざされてしまうと、無性に失いたくない気持ちだ。順子には、経済力もなく、どうしようもなく、堪えるしかなかった。省吾にしても、家族に管理され、有名大学を目指すには、私学の進学高校で学ぶことを余儀なくされていた。順子と省吾は、つかの間の恋でしかなかった。

-8-
嵐電御室駅の南には双ヶ岡があって、順子は一年年上の省吾を誘って、人があまり来ない其処へ行った。鬱蒼としているといえばいえる小高い山で、東の山裾には兼好法師が徒然草を書いた庵が、いまは寺として残されています。御室駅でおちあい、そこから山ぎわを歩いて、登り口にさしかかって、順子は、省吾に、ここから登ろうと手を引いた。
「てっぺんは、明るいから、心配しないで」
「順子は、登ったことがあるの、そうなの、ぼくは初めてだよ」
「てっぺんから、仁和寺が見下ろせるのよ、さあ、登ろ」
手をさしだしたのは順子のほうで、省吾が手を握ってきた。最初は急な昇りだから、順子の手首を握るようにして、順子は省吾の手首を握るようにして、握り合い、順子が後ろ向きになって、省吾を引き上げる。スカートを穿いた順子の膝が、省吾の目の高さになる勾配だ。
「ほら、大柳さん、引っ張ってあげる」
木の根に足をかけて踏んばる順子の下から見上げる省吾には、順子のスカートの中が見えてしまう。一瞬のことだが、順子の白いズロースが見えた。
「ああっ、すべっちゃう、ううっ」
後ろ向きになった順子の足は運動靴。その裏が急斜面の土に滑って、よろけた。省吾が受けとめ、抱く格好で順子が滑って転ぶのが救われた。
「あっ、ごめん、ああっ、大柳さん、ごめん」
抱きついてくる順子を、省吾が受けとめる。抱きあうか格好になってしまって、順子は、離れようとはしなかった。省吾は、どうしたものか、二人だけの岡の中腹、羊歯が生え茂る1mの合間で抱きあってしまった。先にも後にも、抱きあったことは、この時だけで、手をつなぐこともなく、数か月後の春先に、わかれることになったのだが。
「どうしても、大柳さんと、ここに来たかったの、わたし」
高校一年生の順子、高校二年生の省吾、どこでどのようにして、学年違いの二人が近づいたかというと、それは学園祭の実行委員会が組まれ、クラス代表に選ばれたなかからの選抜で委員会の実行役が決まってきて、省吾と順子が、他の数名とともに、実行役を担ったのだった。
「ぼくは、病院の跡継ぎだから、医者にならないとダメなんだ」
「大柳さんは、お医者様になるんですか、いいですね」
「よくないよ、ぼく、あまり医者になりたくないんだ」
「どうして?、なにかしたいこと、あるんですか」
「そうだなぁ、詩人になりたい、ポエムつくるひと」
「そうえば大柳さんは、本を、たくさん、読んでる、もんね」
「順子は、文芸部だろ、詩人になりたいと、思わない?」
「そこまで、考えたこと、ないけど、そうね、詩人かぁ」
「そうだな、ふたりで、詩集発行しようか、ふたり詩集」
大柳省吾は、真面目な男子生徒で、学業は学年のトップクラスだった。といってもそのままで東大や京大へストレートに合格するには、無理があると判断した医師の父親が、有名な進学高へ転校するように手続きを進めていた。そのことへの反発が、省吾を、順子に詩集発行を持ちかけた大きな内なる理由だった。順子は、思ってもみなかった詩集発行という思惑に、目を見張り、胸をときめき驚かせ、省吾と二人の詩集発行に向けて、動き出した。

-9-
鉄筆と孔版用のやすりは、順子の兄が使っていて、それを譲り受けることになった。蝋の原紙は、千本中立売にある文具店で購入できた。文芸部に所属していた順子には、ガリ版ずりの方法を見て知っていたから、省吾から詩を書いたノートの切れ端を預かり、自分の詩とあわせてレイアウトし、高校の生徒会室にあるローラーを借りればよかった。
「ページ数は、十二ページよ、表紙と裏表紙、それから十ページだからね」
「詩は、五つずつ載せる、ページに一つ、レイアウトは狩谷さんにたのむ」
「わかったわ、わたしが、つくります」
御室駅でノートの切れ端を順子にわたす省吾には、いちまつの寂しさがつきまとっていた。もう冬になりかけていたし、寒い風が吹いてきていたし、もう薄暗くなってきた風景に、省吾の学生服がいっそう黒く見えるのだった。順子は、慎吾から十篇の詩をあずかり、そこから五編を選んで、自分の五編と合わせ、詩集に仕立てていくのだ。
「わたし、アポリネールみたいな、詩がすきなのよ、すっきり、明るい」
「ええ、アポリネール、明るい、そうかなぁ、ぼくは藤村がいいな」
「若菜集でしょ、わたしだって、好きよ、でも、アポリネールがいい」
順子は、感覚派だけれど、理論肌ではなかった。でも省吾は、理論好きで感情派、感傷派、センチメンタルジャニー派といえばいいのかも知れない。省吾の詩が書かれたノートの切れ端を預かって、数日ののちには、詩集の姿になって、出来上がってきた。省吾は、目をみはるばかりに、順子が作り上げたB5版の薄っぺらくて軽いが、重みのある詩集を手にして、喜びに心がふるえた。
「寒いから、あったかく、しよう」
省吾が首に巻いていたマフラーを、順子の首に巻いてやると、順子は、涙ぐむのを押さえられなくなってしまった。
「ううん、だいじょうぶよ、わたし、先輩とこうしていられるの、うれしい」
暗くなってきた背後の双ヶ岡から風が吹いてきた、白いものが舞ってきて、それは雪だった。淡い雪が舞ってきたのだ。電車がやってくる踏切の音がして、ガタゴトガタゴト、一両の電車がやってきて、ホームに停まる。乗る人も降りる人もないままに、明るい車内の電車が発車する。雪が舞い、淡い雪がうっすらと積もる。
「こうして、また、あいたい、ぼくから、でんわするから、待っててよね」
「もう、学校では、あえないの、学校へは、こないの」
「もう、行かない、もう、別の高校の編入が決まったから」
順子には、省吾は編入していく高校が、関西では東京大学への進学人数がトップだと聞いていた。そこへ転校していく省吾に、なんといって別れればいいのか、哀しみばかりです。










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最新更新日 2018.5.22


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