立春の頃-3-

 17〜21 2022.2.23.〜2022.3.5

 

-17-
京子の居住空間にみちびき入れられた向井良一は、自分には異空間に思われます。部屋が二つあり、その一つがキッチンです。いま良一と京子が座っていつのは、キッチンの空間です。二人だけです。良一はテーブルのうえの食べ物を箸でつまみながら、意識するのは京子のからだです。
「ねぇ、ねぇ、向井くん、わたしのこと、どう思う?」
京子が、ノンアルビールのコップを持ったまま、訊ねてきます。向きあっていなくて、テーブルのコーナー左が良一、キッチンを背中に京子が右です。
「すてきな、陶芸作家さんだと、思っていますけど」
良一の心は穏やかではありません。二人だけ、というのは倒錯しそうなほどに緊張する空間です。京子の横顔を、まじかに見る良一。そのことは京子にとっても同じ、左に手を伸ばせが良一のからだに触れられる距離です。
「それだけ?、わたしへの気持ち、わたし、知りたいわ」
「島田さんへの気持ち、ですか、こころ、揺れています、好きですよ」
良一は文筆家をめざしていて、言葉を紡ぎだすことにたけているヒトです。京子は、良一のことを、そのように思っていて、危険なことばを投げかけます。若い、京子から見れば五歳も若い男子、良一です。弟のように、というのは嘘で、男として、男性として、京子の前にいるのです。
「さあ、食べてちょうだい、わたしの手づくりよ」
京子が、良一の顔をみて、冷めかけたグラタンを勧めます。テーブルの上からの光が白いグラタンのうえです。京子は、良一の横顔を見て、なにかしら安らぐような不安をいだきます。
「おいしい、美味しいですよ、美味しいなぁ」
良一がスプーンを口に運びながら、京子には目線をあわせずに、美味しい、を連発します。愛が交わる瞬間って、良一には経験がありません。27歳にもなって、良一には恋愛の経験がありません。恋することはあったけど、恋愛にまでは至りませんでした。そういうことでいうと、京子には、陶芸学校に学んでいたころ、好きなお人がいましたが、愛を交わす関係には至りませんでした。そういうことでいえば、京子も良一もオクテなほうでした。
「ぼくって、いつも金がなくて、遊びにもいけなくて、悶々なんですよ」
「アルバイトなんでしょ、お店、自給いくらなの?」
「千円ですよ、ぼくの場合、生活、苦しいですよ、ぼくの場合」
京子は、ほぼ親からの仕送りで、働かなくてもいい立場です。生活費に困る、ということはありません。手を握ってあげようか、京子は内心、スプーンを持った良一の手を見ながら、思います。良一は、京子が着ている生成りのふわふわシャツの胸あたりを見て、抱きたい、との思いがふつふつとわいてきます。でも行動するには恐れ多くてできません。そうこうしているうちに、何も起こらないままに、食事が終わり、珈琲をいただいて、良一は京子の陶房をあとにしたのです。

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良一を見送ったあとの京子は、嬉しいというより侘しい気持ちになっています。二人だけの密室になっていたのに、手も握りあわなかったことが、悔やまれてなりません。食器を洗うのも面倒で、流し台にまとめて、そのままにしてあります。
<良一くん、ダメねぇ、手を出してくれたら、握り返してあげたのに・・・・>
京子は、静寂のままにして、部屋の全体を暗くして、物思いにふけります。陶器をつくる仕事に就いて、気ままにできているのは、親のおかげ、生活費に困ることもない、いつの間にか32歳、養子取り、今どき籠の中の鳥じゃないの、いやだわ、わたし、ああ、つまらない、つまらない。もうピアノを弾くことも、バイオリンを奏でることも、久しくしていない京子。
<佐伯さん、モデルになって、なんて言ってきたけど、どうしようかなぁ、受けるべきかなぁ>
木屋町画廊の高瀬さんを通じて、京子にモデルの話がありました。佐伯東吾は大学のクラブの先輩だし、絵描きの家系で芸術家だし、京子は、寄り添って生きていってもいいかなぁ、と思ったりもします。もう夜も更けてきて、お風呂に入る前に、食洗器で、汚れたお茶碗だのお皿だのコップだの、洗いながら、お風呂の準備をします。お風呂は湯ぶねに栓をして、全自動のボタンを押すだけです。
<佐伯さん、和子の恋人だったひと、つきあいたくないよ、いい人だけど・・・・>
京子の頭のなかは、二人展した会場、木屋町画廊での佐伯の顔が、よみがえってきます。一方で先ほど別れた良一の、顔が鮮明によみがえってきます。
<良一くん、気が弱いんかなぁ、でも、いい感じなのよね、安心できる>
お風呂の用意ができました、との音声がして、京子は、洗面所へはいって、服を脱ぎだします。全裸になります。鏡に胸が腰が映っています。京子は、自分のからだを鏡のなかに見ます。誰にも触らせたことがないからだ、処女、京子には、これでよかったのか、と思います。
<ああ、お湯、気持ちいい、気持ちいいわ、あったかい、温かい・・・・>
お湯につかって、疲れが消えていく感じがして、手で、からだを、撫ぜてあげます、ひとり湯です。中学生の終わりごろから、お風呂はひとりで入ってきました。旅行で、温泉へいって、おおきな露天風呂にはいることがある程度で、ほかはひとりです。
<モデルに、って、裸婦なんやろか、裸婦モデル、いいかもね>
佐伯の顔がちらついて、絵描きと裸体のモデルがいるアトリエを想像している京子。佐伯東吾のアトリエは、美術雑誌で見たことがあって、京子はそのアトリエに、自分がモデル、お洋服を脱いだ裸婦モデル、自分がモデルになるなんて、ありえない、と京子は否定。でも、和服とか洋服とかを着衣のモデルなら、いいかなぁ、とも思っています。

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京子が訪れるのは佐伯のアトリエです。場所は衣笠山の麓、金閣寺の裏になる処のです。京子が陶房を構えている銀閣寺の山裾からいうと、金閣寺のほうだから、ちょうど京都の市街の左と右です。門構えがあって、インターフォンで来たことを告げると、しばらくして佐伯があらわれ、京子をみちびき入れます。母屋とは別の棟になるアトリエは、山の斜面に建てられている二階建てです。東に面した窓からは、朝日がはいり、昼前までは陽が射し込みます。八畳間を四つ、田の字にした広さで、絵の具の棚があり、木製の大きなテーブルがあり、作りつけの書棚には画集が入れられています。
「まあぁ、いい、アトリエですね、気持ちが落ち着きそうですね」
京子は、ワンピース姿で、赤いカーデガンを羽織り、コートは脱いでいます。スリッパを履いた足には白いソックスです。アトリエを見回し、祖父からのアトリエだと聞いていたので、それなりの古さを感じるレトロです。
「よく、来てくれたね、京子」
「まあ、なんというか、佐伯さんのためなら、と思って、ね」
「まあ、よかった、よかった、ぼくは、京子を、描きたい」
「まさか、裸じゃ、ないですよ、ね」
京子は、そこまでいうのかとも思われそうな口調で、佐伯に話しかけます。佐伯は、京子よりも背が高いから、見下ろすほどではないけれど、顔を下向け、お望みならそうしたいけど、と半分冗談とでもいうように応えます。佐伯は、アトリエの隅に置かれたオーディオのスイッチが入れられ、醸されてきた音楽は、軽やかなピアノの曲、モーツアルトのピアノソナタ、京子にはわかります。
「11時かぁ、ちょっと遅めの昼食で、いいか」
「はい、いいですよ、モデルするんでしょ、わたし」
「そうだよ、お昼は、持ってきてもらう、寿司でいいか?」
「いいですよ、佐伯さんにお任せします」
半ば他人様、半ば親し気、ぎこちない会話体になるのは、アトリエに二人だけということが脳裏にあるからです。モーツアルトのピアノソナタ、ボリュームを落しでバックミュージック、佐伯はスケッチブックを手にします。京子は藤で編まれた肘掛椅子に座らされます。白っぽいワンピースに真っ赤なカーデガン。白いソックスに皮のスリッパ。足元は、足首上から膝小僧までが生足です。首にはネックレスなし、耳にはイヤリングなし、髪の毛はショートカットです。
「美しいねぇ、京子、こうして見てると、美人だわ、チャーミングだわ」
立ったままの佐伯は、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、お世辞ではなく本音で、京子の見た目のことを言います。京子は、肘掛椅子に座ったまま、膝をあわせ、手は左右を重ねて太腿のつけ根に置いています。清楚な、素直な、女子、佐伯には、眩くも見える陶芸家の京子です。

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佐伯が、藤で編まれた肘掛椅子に座った京子を、見つめます。スケッチブックに鉛筆を走らせながら、京子を描いていきます。まだお昼前のアトリエへ、おおきなガラス窓から光が這入っています。明るいアトリエ、32畳の広さです。
「はい、ええ、ええ、そうですけど」
佐伯が、京子のことを訊いてきます。京子は、言葉少なく、応えます。佐伯が言うには、木屋町画廊の客で、佐伯の作品を買ってくれる老人がいる。その客が、京子の陶器を見て、色の出具合に感動して、コレクションしたいというのです。買っていただいたことは、京子も知っていて、たいへんありがたく思っていました。
「もっと、島田京子の陶器を、購入したいらしいんだって」
「木屋町画廊さんをとおして、のことですよね」
「もちろん、もちろん」
「わたしのん、作品って呼んでもいいのかしら、うれしいけど」
会話しながら、佐伯は、スケッチを続けています。清楚な京子の顔を見て、足先までを丹念に見ては鉛筆をスケッチブックに走らせます。佐伯の頭のなかは、京子を抱きしめたい、との衝動とのたたかいです。ちょっと柔らかめの話題を、京子に投げかけます。
「京子には、こいびと、いるのかなぁ、いるんやろなぁ、どうなん?」
「いやよ、そんなしつもん、でも、わたし、いない、ほんとうよ」
「そうなの、じゃぁ、ぼくが、立候補しようかな、いいかなぁ」
「冗談は、いけないわ、そんなの、だめよ」
アトリエは、明るいとはいっても二人だけの空間です。なにも警戒心などないままに、京子は肘掛椅子に座っていて、佐伯の目線が気になるとはいっても、スケッチのためだと割り切っていました。そういうときに、突然、恋人がいるのかと問われて、相当に戸惑ったのです。事実として恋人はいません。いませんけれど、京子も女子、恋人ほしい、恋愛したい、と思う気持ちはたっぷりあります。それほど淡白な性質ではありません。
「養子取りなんやろ、京子は」
「親はそうしたいと思ってるけど」
「京子は、そう思っていない」
「あんまり考えたくないわ、わたし、そうするかもしれないけれど、成り行きです」
佐伯は、京子の心の内を知りたいと思っています。佐伯は、京子に、かなりの興味を持っています。二人展にしたのも、画廊で教室を開くというのも、京子に興味、それ以上の、いいや京子の家の財産に、興味があるといっても、過言ではありません。

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京子のこころは揺れています。佐伯のアトリエでモデルをして、それ以上の深みにはまっていくこともなく、終わりました。良一を陶房の二階へ導き入れたけど、何事もなく終わっています。京子は内心、やっぱり恋して、恋愛して、結婚したい、との願望があります。それほど強くは表にださない性質ですが、32歳になった京子に、親たちから早く家庭を持ちなさいとの強い勧めも、いまやありません。
<でも、なんだか、むなしいなぁ>
ひとり陶房にいて、庭には光が這入っていて、春の草花が芽吹きだしているのを見て、自分のことを思うと、むなしい気持ちになるのです。
<陶芸作家なのよね、わたし、何なのかしら、わたしって?>
ぶつぶつ独り言、脳裏には、佐伯東吾の顔がちらつき、向井良一の顔がちらつきます。母の顔、膣の顔、一人っ子で育ってきて、いっぱい教養を身につけてきて、島田家を継ぐために養子縁組を求められている、そのことを思うのです。
<良一くん、いい人なんやけど、親が、ゆるして、くれないやろなぁ>
家柄とかを重んじる制度に、京子は強く反対するのでもなく、精度に流されて生きていく、というのにも嫌な気持ちです。中途半端に生きていることを、自覚しても、親がいなければ経済的に自分は生きていけない、と思っています。学生の時の親友、大村和子の生き方を想うとき、京子は、独り立ちしている和子は素晴らしいと思ってしまいます。その和子は、学生時代に先輩になる佐伯と恋愛して、こどもを堕胎して、ひとり学校の先生の道を選んで、自立していったのです。由緒ある絵描きの家系にいた佐伯とは、家系にあわないことの理由から別れていった和子でした。その佐伯が、京子にプロポーズしいるのだけれど、京子は醒めた気持ち、むしろ良一のほうに傾いているけれど、良一は貧農の息子だから、資産家の島田家には迎え入れられない、とのほうが強い京子の心です。
「はい、向井くんね、いいわよ、うん、いく、いく、四条河原町」
向井良一から、休みだから、会えませんかとの電話があって、京子は、嬉しくなって、会う約束をします。なにごとかが起こってもいいように、身なりを整え、年下で文学青年の向井良一と会いにいくのです。
(この章おわり)





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最新更新日 2022.3.6


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