紫陽花の頃-1-

 
1〜6 2020.6.8〜2020.6.24

 

-1-
大山美咲の部屋に、黒光先生が描かれた紫陽花の頃という複製画が飾ってあります。ちょうど6月のいま、紫陽花が咲くころで、美咲は植物園へ行ってスケッチしようと思っていて、午後の時間を過ごそうとおもっています。ベランダに出て空を見上げると青空、眩いくらいの光、目を細め、眩しさから顔をそむけてしまいます。
<うううん、休みだし、紫陽花、見に行こ>
お昼は簡単におうどんにします。一人用の鍋にお湯を500CC、おうどんが煮立ってきたら粉末のだしをいれておしまい。卵はチンして半熟にしたのをおうどんにいれて食べます。安上り、百円もかからない、なんせバイトしているとはいっても、豊かではありません。もう学費はいらなくなって、親から面倒見てもらうのもいやだから、ワンルームで一人住まいをしているけれど、生活はかつかつ、ああ、どこかにいいひといないかなぁ、そんなこと友だちにも言えないから、じぶんひとりこころのなかでつぶやく、あついおうどんだから、部屋の中涼しいといっても6月、少し汗ばんできます。

るんるん、植物園へは自転車でいきます。年間パスポートをもっているから、それを入口のおしさんに見せるだけです。紫陽花園へは、薔薇園を通って、花壇を通って、その向こうにあります。紫陽花はまだつぼみが多くて、少しだけ、みずみずしく咲いています。ほんのり、美咲の目に緑と白とピンクが映り、ほのかに甘酸っぱい匂いを感じます。
<ああ、だれか、いいひと、いやへんかなぁ>
なにを考えるともなく、いま恋人いないから、ああ、やっぱり恋人といっしょにいる時間があったら、いいなぁ、と思いながらも、けっこう面倒なことだから、独り暮らし、気ままに、コンビニバイトでかつかつ生活しています。
<絵の具、買わんならんし、あんまり贅沢でけへんしなぁ>
冷えたお番茶を水筒にいれてもってきているから、水分補給はこれでします。

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ようやく紫陽花が咲き始めた植物園の遊歩道に立った美咲は、持ってきたノートサイズのスケッチブックをひらいて、鉛筆で写生をはじめます。昼下がりで人が少ないといっても、立ち止まっていると、花好きのお年寄り、おばあさんとおじいさんが後ろを通り過ぎます。二人組の若い女子は、高そうなカメラをもっているから写真学校の生徒かもしれません。美咲は、まわりを気にしながら、立ったままで鉛筆を走らせ、白い花に目をやり、白い紙に目を落とします。
<なにしてるんやろ、わたし、こんなことしていて、いいのかしら>
目線と手が動くのが、あまり意識にはなくて、こころの中でぶつぶつとひとり言です。まわりを気にするたちで、他人の目線が気になる美咲。曇り空、雨がきそうな気配ですが、空は明るいです。水分補給に、自分で詰めてきたお番茶のペットポトルを持つときには、スケッチを中断して、唇をあて、少し上向いてごくんとひとくち、飲みます。
二人組のカメラ女子が目線から消えたとおもったら、若い男子が、高級カメラで紫陽花を撮っているのが見えます。美咲は、何気なくというより、横目でちらりちらり、ボーイハントの気分で、日本語でゆうたら男狩りかも、と思いながら興味津々です。可愛い坊や、といっても学生にもみえなくて、社会人のようにもみえて、小奇麗な男子です。

カメラを持った男子が、美咲がスケッチする紫陽花の、となりの株の前に立ちます。立つといっても手にしたカメラを顔につけ、アングルを探している感じで、なかなかシャッターを切らないのです。
<なんやろ、へたくそなんかなぁ、あほちゃうか>
美咲は、コンパクトカメラですけど、学生の時から写真を撮っていました。デジタルだから、なんぼ撮ってもお金かからへんからと教えられ、下手だけど、素早くシャッターを押すようにしてきたから、男子のへっぴり腰を横目に見て、でも、なんだか、ドキドキ、気持ちが躍ってくるのを感じたのです。男子は、美咲がスケッチしている後ろを通って、反対側の紫陽花の前にきます。具体的に言うと、美咲の右にいた男子が、左側に来ているのです。からだの距離は1mくらいです。美咲は、意識しながらも見ないふりして、立ったまま、スケッチブックに鉛筆を走らせます。男子は、ニコンの一眼レフカメラで紫陽花を撮っています。ラフな服装だといっても身だしなみ整えた男子です。美咲には、興味の対象ですが、声をかけるなんてできなくて、声をかけられても困るなぁ、と思うほどの距離感です。その男子の名前が、川村真一だと知るのは、レストルームでアイスクリームを食べていたところに美咲が現れ、名刺をわたされたからです。肩書には、美咲が通っていた美大の非常勤講師とあり、親しみを感じ、なによりも美男子、イケメンっていうんですね、優しそうな男子なのです。

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「ああっ、さっきのひと」
美咲がレストルームの椅子に座って、さきに描いたスケッチブックをひろげているとき、真一がアイスクリームのカップを手にしたまま、そばに寄ってきて、声をかけてきたのです。
「ああっ、さっきのひと」
顔を上げてみると真一が斜め後ろから、スケッチブックに目線をおとし、見ている顔が見えます。まだ名前を知らなかったカメラを持った男がいることは、レストルームにはいったときからわかっていた美咲。イケメンだから興味はあったものの、心動いても動作では完全無視です。
「絵、描いてるん、学生?」
「いいえ、学生じゃありません」
「うまいね、絵、スケッチ、下描きなんだよね」
美咲は、うっとおしいなぁ、と思いながらも、無視できなくて、自分から相手のことを問うことがないまま、ちょっと執拗に絡んでくるという感じで、美咲のまえにまわってきたのです。平日の午後の植物園、レストルームには年配のおばさん三人組がおしゃべりしているだけで、あとは美咲と川村真一となのる男だけです。ナンパされてる、と美咲は思う。まあ、けっこう、しょっちゅう、こういうことがあるから、美咲は適当にあしらうのですが、心象わるくさせないためにも、笑顔を絶やさないようにと心がけているんです。

「写真撮って、学校で教えてるんよ、名刺、ほら、ぼく、これ」
椅子に座った美咲の前に立ったままの真一が、名刺を出してきて、自己アピールをするので、受け取り、名前を見て、肩書を見て、電話とメールアドレス、住所は非常勤講師をやっている学校の住所です。
「ええっ、わたし、ここ卒業した学校、短大のほうでしたけど」
「そうなの、卒業生なんだ、これは奇遇だな、よろしくですね」
名前は訊いてこなかったから、美咲は答えないまま、LINEで繋がろうというので、友達になりました。また、LINEでやりとりしよう、と真一がいうので、美咲は、よろしくおねがいします、と返答しました。美咲に警戒感が解けて、カメラバックを肩からさげた真一を見送ったあと、もう少しレストルームで時間をつぶします。
<なんなんやろ、優しそうなひと、たぶん、LINE、くるやろなぁ>
緑の広場がレストルームからみえます。美咲は、スケッチブックを閉じ、なんか得した気持ちで、植物園をでて北大路通りを西へ、自転車で自分のワンルームへと戻りました。

-4-
川村真一はカメラマンをしてるといっても、それだけでは生活が成り立たないから、印刷会社のスタジオでアルバイトをしています。美大の非常勤講師といっても、ひとコマを担当しているだけだから、生活を支えるだけの収入は得られていません。フリーランスで雑誌仕事とか請け負うのだけれど、そんなに撮影の仕事がくるわけでもありません。とはいいながらも、マンション一室を借り、事務所兼スタジオにしていて、簡単なモデル撮影やテーブルトップ撮影はできるように投資しています。
<あの子、モデルにしたいなぁ、美咲といったよぁ、LINEするかぁ>
印刷会社のバイトは週三日ほど、講師の仕事が学校がある期間には、週に一回です。もう三十半ばになったのに、いま、恋人はいません。セックスフレンドもいません。二十代の半ばからの数年間は、セックスを求める年上の女性に仕えて、生活をつくっていたこともありました。近年には、セックスレスで、男、ひとり、悶々とする日々なのです。

植物園で撮影のモデルになってほしいんだけど、モデル代払います、OKですか、この文面の前後に挨拶やお世辞を書き、LINEで美咲に送信したところ、すぐに既読になったが、返信はありません。警戒してるんやろか、もっと褒めてやらないとモデルになってくれないのか、真一は下心をもっています。清楚な美女だし、美大の短大卒業だし、セミヌードとか、セミどころか一糸纏わぬフルヌードとか、妄想が妄想を生んできて、男の欲望に浸っていきます。美咲から返信がきたのは数時間が過ぎてからでした。
<こんにちわ、川村さま、モデルやります、15日の午前あいています>
再会するのは三日後の午前なら、二時間、モデルOKという内容です。心ときめく真一は、もう内心笑顔です、うれしくってたまらない。あのとき、なんとなく、興味を示してくれて、名刺を受け取ってもらいました。LINEでのメッセージ交換まで、OKをとったところでした。それからもう四日も過ぎています。コンビニでバイトしているといっていた美咲のことを、いきつけローソンの制服姿の女子を思い浮かべ、顔を美咲に入れ替え、髪の毛を後ろで束ねた姿を思ったのです。

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モデル撮影といっても一対一で、最初のデートです。カメラを持って、写真を撮る、というのは本当だけど、これは名目です。真一にとっては、女の子をデートに誘う口実にすぎません。先日にすれちがった植物園の紫陽花園で待ち合わせることにしていて、曇り空です。雨ではなくてよかったと真一は思います。雨が降ると撮影しにくい、曇りなら太陽光線もよわくて、まったりだから、顔の影も柔らかで、デーライトでストロボを使うけれど、使わないのも撮るつもりです。
「こんにちは、よろしくおねがいします」
もう真一の心は、ドキドキです。素人の女子をモデルにして撮影するたびに、最初は、ドキドキの気持ちです。美咲は淡いブルーで清楚なワンピース姿です。美咲の髪はまっすぐで細くて長めで、肩にかかるおかっぱです。素足に白いサンダル、爪は赤いマニュキュアです。
「こんにちわ、よろしくおねがいします」
ちょっと引き攣った表情にもみえる美咲は、まるで妖精のようです。紫陽花のまだ白い花の前に立っている美咲は、美しい。真一には、その眩さに、一目惚れとはこのことです。初めてではないから、一目惚れではないかも知れませんが、美咲が意識して笑顔にしていて、小妖精の綺麗さで振る舞うものだから、男心を揺するのです。

「うん、うん、いいね、いいよ、いいねぇ、かわいいいっ」
美咲は、モデルすることに慣れていないのに、素のままで、すでにモデルの風を呈しているから、天性の美女なのかも知れません。男経験は、ありません。抱かれたとはいっても丸山公園でお花見の時に彼に抱かれただけで、キッスするところまでもなく、処女のまま、21才です。
「こんなので、いいのかしら、わたくし、あんまし、わからない」
「そうだよ、そのままでいいけど、にっこりは、つけったらしいから」
真一が手にしているニコンカメラは、それなりに高価なカメラです。美咲には、きれいに写るカメラだと思えて、モデル気分になってきます。撮られるってことで、うれしい気分になれる美咲。ちょっとイケメンなカメラマンで美大で講師をするくらいだから、立派な人のように思えるのです。
「ほら、見てごらんよ、気に入るかなぁ」
真一が撮ったばかりの美咲を、カメラのうしろの画面に映し出し、見せてきます。美咲の顔がカメラを覗き込むので、真一の顔が美咲の頭にきます。ほんのり、あまい匂いがします。美咲の匂い、真一は、美咲が醸す温かさと甘い匂いに、その存在を意識してしまいます。

-6-
「午後からバイトだから、ここで」
お昼前の時間になって、真一がお昼ご飯はどうかと誘うと、美咲が断ってきました。植物園の北門は北山通りで、小奇麗なパン屋さんとかレストランとかのお店があります。あわよくばと思って、男心です、真一が誘ったけれど、美咲は、コンビニでのバイトを口実にお断りしたのです。美咲に揺らぎがあることは、純真な感じに思える振る舞いで、わかる気がした真一です。
「そうなの、では、また、会えるかなぁ」
「また機会があれば、誘ってください、ええ、だいじょうぶです」
地下鉄乗り場へ降りるところで、立ち話する真一と美咲です。美咲は地下鉄の改札へいくというので、真一は北山界隈で食事することにします。美咲をモデルにして撮った写真は300枚ほど、同じ場所で何枚もシャッターを切っているから、場面は、それでも10か所あります。なるべく人が来ない場所を選んで、撮影して、真一は、懇意になった気分ですが、美咲のことを知ることができないまま、別れることになったのでした。

<それにしても可愛い子だよな、好きになってしまいそうな子だな>
真一には、女子をみると写真に撮りたくなる癖があります。いつの頃だか、大学は美術系ではなく私立の経済学部ですが、その後に写真の専門学校に通って技術を身に着け、コマーシャルスタジオで働きだしたのです。それから10年、もう三十半ばにもなっている年齢ですが、独立しているとはいえ、印刷会社でアルバイト、美大の講師とはいっても非常勤だから、名刺の肩書に載せると、見栄えがいい気がするのです。
<美咲ちゃん、可愛いね、はだか、撮りたいね、いいからだしてそう>
真一の妄想癖は、撮ったばかりの美咲の顔を、頭の中で、よく見る裸体女子とだぶらせていくのです。喫茶店のテーブルで、アイスコーヒーを飲みながら、撮ったコマを確認していく真一です。300枚といっても、一枚と同じ表情の写真はなく、セレクトしているなかで、自分の恋人、というよりセックスフレンドのようにも錯覚してしまいます。清楚なワンピース、おかっぱ頭の髪の毛、アップ写真から全身写真まで、紫陽花をバックにして撮られた美咲が、真一には輝いているのです。


















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最新更新日 2020.7.14


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