文章評論第一部
寫眞と文章

風俗小説

 1〜3 2014.3.20〜2014.5.2

    

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中村光夫という文学評論家が、もう半世紀以上も前に、<風俗小説輪>というタイトルの文章を残されています。最近、読み直してみましたが、小栗風葉の小説態度をもって、これを風俗小説と呼んでいるのでしょうか。風俗小説とか通俗小説とか、そこはかと男と女の交情や世俗を描く読み物。これに対して「純文学」という軸を立てていて、近代リアリズムの発生から崩壊までを論じた文学評論だと思うのです。あてづっぽうの話ですが、ぼくなんかは、2014年の現在地点で思うことは、純文学、近代リアリズム、ということの概念は西洋文学に模範をとった場所からの論であって、はたして現在においても、そのことが最重要事項なのか、という思いがあるのです。

日本には、文学の系譜として、古事記にはじまり源氏物語や西鶴の好色一代男、あるいは近松の人情ものという文学があったわけです。もちろん自我の問題をどのように扱うかというのが、純文学のある種のテーマだとすれば、自我を扱わない領域の、読み本とかの通俗小説とかは、たしかに価値のない代物かもしれません。だけども、これの逆転として、日本の風土において生まれてきた物語が、西欧に生まれた物語の形式と違うからと言って、西欧上位、日本下位という図式が、決して正しいとは言い難いと思っているところです。19世紀にはじまる芸術上のモダニズム(近代主義)が文学にもあてはめられるとすれば、モダニズムが20世紀の後半には終わって、その後の数十年はポストモダンの時代であるといわれていて、文学においてもポップな感覚の文章など、モダニズムではない文学があるように思われていて、それらがポストモダンな文学なのかも知れない。

そういったポストモダンな時代も色あせていて、新しい潮流が見えるようで見えなくて、しかし、たしかに歴史観からいえば、新しい潮流が起こっていてもおかしくはなくて、それがいったい何なのか、という問題にぶつかるわけです。ところで最近、町場の集会所やお寺や神社といった空間で、主に落語ですが寄席が催されています。まあ、噺家がおればどこででも開催できるからかも知れないですが、巷ではけっこう人気があるように思えます。人情噺とか滑稽噺とか、いわゆる日本文学の潮流そのものが、復活してきているのではないかと思われます。自我や内面の問題は重要テーマだとは考えますが、それが最優先されるという時代ではないように思えます。風俗小説、通俗小説、ままポルノ小説とかエロ小説とか言われたりする領域の文学。ポストモダンの後の今様文学は、日本においては、その系譜かも知れないと思うところです。

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小説を読むということには、どのようなどのようなことを求めるのでしょうか。フィクションだから、事実ではないわけで、それらしく現実にあるように描くというのが一般的でしょう。理論書ではないから、物語なのだから、作中人物はつくられた人格であって、その人格に世の理論たるものを体現化させていく、とでもいうのでしょう。その小説の背景には、理論に裏打ちされた人物を登場させることになる、というのが純文学領域の小説の在り方であったのかも知れない。作者は思想を語り、読者は思想を受けとる。この思想という理知・理性なる領域の論説に、ぼくは、はたしてそれだけが正解なのだろうかと思うのです。

理に対して情ということがあります。小説は理が語られ、情が醸しだされる。情は、感情、感じること、感動、それに情が動く、動かされる。小説にを考えるにあたって内容に必要なことは、理と情、理が強いか、情が強いか。この理から情、情から理への幅のなかに、どちらのほうに傾いているか、ということではないでしょうか。風俗小説というもの、むしろ情の方に重きをおかれ、理が見えなくなる。小説は、読むことで登場人物に共感したり反感したりするわけですから、そこに描かれる人物がどのように扱われるのか。

情は好き嫌い、男と女があって、この世のできごとは、単純には、食べることと子孫を残すこと。動物のレベルにまで戻すと、このようになって、好きか嫌いか。情はからだのうちにこもるもの、情を表に出すことは卑下されることで、感情をむきだしということは好ましいことではない。しかし、だから感情をむきだすような内容にはふみこまない。特に性につながる情は、封印してきたのではないか。性を扱う小説が、特別な領域のものであり、風俗小説とは、いまや特別な領域の出来事を扱う小説だ、ともいえます。特別な領域とは封印された領域です。

ではなぜ特別な領域は封印されるのでしょうか。ここでの想定は性行為の領域を示唆しますが、国家とか軍事とか労働でも、封印したくなる領域が存在していて、一般には、そこへ踏みこむことはできなくて、あえてするとそれは罪になります。風俗小説たるもの、性をともなう領域で、踏む込める限度があることです。限度かあるから、その限度を乗り越えようとするのが、アクティブな芸術が求めところではないか。いやはや体制とという枠組みがあれば、その内側にとどまるのか、それとも枠組みの外へむくのか、でしょうか。

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風俗というと、ウイキペディアには、ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活上のしきたりや習わし、風習のこと、とあります。また、世相や風俗を社会的な広がりでとらえて描いた小説を風俗小説と呼ぶ、ともあります。この説明による場所から、試みとしての風俗小説を構想すると、ぼくが書こうとする小説の枠組みが、見えてくるとおもえます。

ちなみに昨今、風俗というと性風俗を指すような感がありますが、これは偏見というものですね。たとえば、町の医院へいってみると、待合室で時間待ちの間に読む雑誌が、まま置かれてあります。雑誌の類は週刊誌で、読み記事よりも見る記事のほうが多くて、ビジュアル系報道誌には若い女性のセミヌード写真に満ち溢れ、それでも表紙に続く記事は、政治経済社会の出来事で、総理の顔とか皇室の方の顔とかが載っています。けれどもそれ以上に話題の中心は若い女性がいる場所の様々な風景、という写真記事が多い。

今、風俗というと、今という時代や社会、メディアの発信源は東京、若い世代やおじさん世代、このなかで特徴的に見れるのが、前記の週刊誌記事の構成だと想定します。日常生活上の、ひとの行動パターンとでもいえばよろしいかと思います。風俗小説というフレームでいえば、風俗の内容をそのままフィクションにしたてあげていけば、風俗小説、といえなくもないですね。小説とはもともと日常生活上のなかで起こる事件を文章にしてきたのではなかったか。現実離れした空想物語とか夢物語でなければ、その物語は現実に即しているし、風俗小説の部、ですね。

政治や経済は日常生活上の、もちろんベーシックなことであって、衣食住それぞれの内容というのは、政治経済のもとに成り立つ事象です。衣食住への趣向が、その時代の政治経済を反映しているわけだから、その趣向をなぞっていくと時代を映す鏡となる、とは考えられないでしょうか。いま、風俗小説なるものを書こうと試みる者としては、週刊誌ネタなどが、おおいに参考になると思えます。世界はいまセクシュアル化の方へと向かっている実感です。昔よりはるかに速度をはやめて、衣食住、セクシュアル化です。







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最新更新日 2014.8.12


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