文章評論第一部
寫眞と文章

美学・文学・映像-1-

 1〜6 2014.1.20〜2014.7.1

    

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1956年の第34回芥川賞は石原慎太郎氏の「太陽の季節」が受けます。
この年、この小説が日活作品として映画化されます。
のちの大俳優石原裕次郎氏の最初の出演となった映画です。
1958年の第39回芥川賞は大江健三郎氏の「飼育」が受けます。
この小説「飼育」は、1961年に大宝作品として映画化されます。
映画監督は大島渚氏、写真家の東松照明氏が脚本協力とあります。
東松聡明氏はこの映画出演者のスチール写真を撮影しています。

芥川賞といえば小説界の最高といわれる賞です。
はるか半世紀以上も前の出来事ですが、映画になる。
小説が原作で映画化されるということが沢山あります。
文章の世界を映像に置き換えて表現するということでしょう。
映像に置き換える、読むことから見ることへ、置き換えられる。
文学が映像の底流に流れているということです。
文学と映像の関係、文学が基底で映像がそれに乗っかる。

小説を読むこと、読ませること。
小説家は文章を読ませることによって想像力を喚起させる。
この喚起させたイメージが映像となって現れる。
映画は、このイメージそのものを映像化させる。
想像によるイメージと、視覚によるイメージが、並置される。
表面に現わされる形態はちがっても、人の操作によって出来上がる。
おなじ時代に生きる小説家が映像家に、映像家が小説家になることも可能か。

美を追求する「美」とはいかに定義すればよいのか。
「美」とは、ひとことで言い表すのは困難な枠組みを持っています。
文学も映像も「美」の創造にむかっていると推論して、「美」とは何か。
美学、文学、映像、この三者を意識しながら、映像論を立てたいと思うんです。
映像は一般には動画を指しますが、動画を構成する静止画、これは写真です。
小説が写真化され、映像化され、風俗化されて、一般大衆に鑑賞される。
この根底に流れる、見えないものを、捜し求めて論を進めたいと思ってます。

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表現するという行為のなかで、とくに芸術行為といえる知恵の発情における表現をとりあげてみます。もちろん芸術とはどうゆうものであって、芸術行為とはどういうことを指すのかを、明確にしていかないといけないんですが、ここでは表現するという「表現」のこと。表現するには形式が必要であって、技術の方法があって、これには、文章または言葉で残す「文学」、写真や映画や動画で残す「映像」をここでは取り上げます。
文学のバックグラウンドには西洋の場合だと聖書があり、日本の場合だと万葉集とか古事記、源氏物語あたりがバックグラウンドかと思っています。

大筋で、物語であり、物語になされることを底流にもちます。「物語」とは時間のながれのなかでイメージが動いていく内容、とでもいえばよろしいでしょうか。もちろん静止画(絵画や写真)においても見る側が時間を持つから、静止していて動かないだけ、見る側は動いているわけです。話は飛びますが、実験映像とか実験映画とかは、外観、おおむねこの物語を排除して、あらたな物語を構築する作業のように見受けてきました。ここでは正統派と実験派とでも言い分けておきましょうか。

正統派の枠組みの流れで、現在、どのような枠組みなのか、ということを問うわけです。表現におけり美、芸術における美、この「美」という枠組みで、正統派の枠組みで、文学・映像の歴史と現在とは、どんなものか。美の話ですが「美」とは、ぼくは、気持ちを高ぶらさせられる「もの」、つまり情動させられることがベースに起こることが「美」の源泉であるように思えています。理ではなくて情が先立つものとしてある「作品」といえるかと思います。いまぼくの立っている場所は、作る側であり見る側であるという立場の場所にいます。また、自然現象がそのままで存在するのとは違って、「作品」は創られて存在するわけです。

このようにしてみると、情がうごかされる「作品」で、物語をもった「作品」が、正統派の「作品」ということになりませんか。その作品が読み見る側に提示され、読み見る側は、物語をイメージとして受け入れ、情を動かすという構造になると思うんですが、この情を動かすための装置を、作者はつくらなければならないわけです。正統派であれ実験派であれ、基本的な構造は変わりません。作品の背景となる光景が、物語を持っているか、物語を排除しているか、です。われらが情を動かす場面は、自然現象(雷とか風とか音とか皮膚感覚とか)に遭遇したときに発生させます。この延長線上に文学作品を読む、視覚作品を見る、ということがあって、情を動かす、その動きの質とか種類とでもいえばいいのでしょうか。

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美とは何か、こんな質問を出してみます。大学には文学部に美学科という専攻があって、美は学問の対象なのだと思ったのが、大学を受験するころです。美学、ぼくは美学を学んでいません。だから亜流ですが、美については、興味を語ってみたいと思うのです。美に触れると心が高揚する。感動を引き起こす。つまり、美とは、そういうことをさせるオーラが漂っているのではないか。このように言ってしまうとあまりにも、情緒すぎるんですが、これは情緒に訴えられるそのこと。小説であれ映像であれ読んだり見たりして、情緒を動かされることが、何よりの必要条件であろうと思えます。

ぼくの心に波動を起こさせる対象物。この対象物は小説や詩の言葉であり写真や映像であらわされた像(イメージ)です。心に波動を起こさせることを、感動する(させる)とでもいえば、いいかも知れません。感動するんです。驚きの心情になるんです。さて、その驚きの心情を起こさせる対象物を、ここでは文学と映像に置きます。いうまでもなく文学とは文字であらわす表現物、映像は視覚におけるイメージ表現物のほうです。表現の方法は、いまや多様化していて、内容を支える器として、紙媒体とかテレビ画面媒体とかさまざまな方法があります。書籍とかパソコンとかスマートフォーンとかの形式にわけることもできると思います。

文字やイメージを、媒体をつかって読んだり見たりすることで、心に波動を起こさせる。作者と享受者に分けるとすれば、作者は心に波動を起こさせるものを提示し、享受者は心に波動を起こせてもらう、という相互関係になります。文字やイメージを様々な装飾をつけて呈示する。書籍の場合だと表紙デザインとか文字の形(フォント)とかを波動を起こさせるように作り込む。イメージの場合だと、静止画・写真なら額装にして、心に波動を起こさせるように作り込む。文字とかイメージは素材であって、享受者の心に波動を起こさせる装置をつくることで完成となります。ここでは基本形について、その枠組みというか形式を考えていて、そこからの応用で複雑な形式を導きます。いずれも心に波動が起こる、情動が起こるということが、ベースにあります。

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インターネットの普及で、ぼくたちの情報を得る環境が激変したと思っています。かってなら、印刷媒体としての雑誌や書籍は、書店で売られていて対面販売が主でした。それが現在では、インターネット上で対面しなくても閲覧できる環境になっています。基本的にオープンな場であるインターネット。小説や映像を、読み見ることは、課金という介在をいれることで、商用になっています。ここでテーマにあげたいと思うのは、性にまつわる文章や映像の現在です。成人男子及び女子なら、いずれも関心ごとの大きな柱である「性」その「風俗」、一般に「性風俗」と言われている分野です。かっては閲覧するのには、書店などで雑誌や書籍を手に入れる必要があった。ポルノ映画においては映画館で、近年ならレンタルビデオで、いずれも、それらを入手するには、対面が原則でした。

インターネットの普及で、対面で、という原則が崩れて、シームレス化して、ストレートに読み見ることができるようになりました。もちろん未成年は見ることができないとかのチェック機能はつけられているけれど、それは自己申告であるから、突破して、アダルト領域へ入ることができます。何処までが許されて、何処までが禁句なのか、ということは時代になかにおいて、制約されます。極端には性器を見せることに集約される一線の処です。日本において性器露出は禁止です。ところが外国においては禁止されていない国が多々あるようです。インターネットは世界をシームレスに繋いでいますから、そこへアクセスすることができます。もちろん、ここでも年齢確認とかの必要があるとしても、これは形式です。こういう時代がいま、インターネットの時代、スマートフォンの時代、ネット社会の側面です。

さて、こういう現状を知ったうえで、性表現の問題は、時代とともに変容してきているように思います。上段では極端な話をしていますが、そうではなくて、日常の光景のなかに、セクシュアル化が進んでいるように思われます。芸能人の興味本位のスキャンダル、見られる立場としての女子の露出、草食男子化、など、かっての言葉であらわせば「軟派」です。これに対置する「硬派」は政治経済の問題を扱うニュースです。メディアが情報を放出するほとんどが軟派に属していて、硬派はその陰に隠れている、あるいは隠しているごとき、です。この時代、ネット時代とは、どういう状態なのか、ということを評論の対象として、とりあげたいとおもうところです。といいながら、硬派を標榜してきた自分ですが、ここにきて軟派に転向してきているのは、ある意味、時代の要請なのかも知れないと感じています。

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1961年の第13回読売アンデパンダン展に出品された吉岡康弘の写真作品が、撤去された事例があります。この事例は写真で、被写体は女性器、そのクローズアップ、それだけでは女体とはすぐさまにはわからないイメージの、モノクロ作品です。主催者側の判断で撤去されたようなのですが、たぶんそれは猥褻作品であると判断されたのだと思います。2014年の現在とちがって、半世紀も前の出来事で、猥褻とされる美の基準が、今よりもはるかに限定されていたように思われます。1960年代には、文学や映像の若い作家たちが、性を扱う、とくに描写において、開放を求めていたと思われます。世の中がセクシュアル化してくる第一波だったのかも知れません。

性表現の猥褻性については、文学において、映像において、これまでには裁判になった事例もあって、その露出度が拡大されてきたと考えています。陰のところへ光をあて、人間の本来持っている本能の部分に照射し、表面化させるという芸術家としての役割を、果たそうとしていることであり、避けては通れない関門として、時の権力がかぶせる規制を払いのけようとするのです。性表現の方法は、ある意味反体制運動としての要素を持っており、これは芸術の本来的姿であるとわたしは認知しているところです。映画における性表現、写真における性表現、文学における性表現、もちろん絵画においても扱われる性表現があります。イメージで直接見せる表現と、言語によって間接にイメージさせる表現があります。表現の形態としては、この二者です。

言語による性描写と、写真や動画による性描写、むしろ写真や動画による性描写のほうが、直接的です。写真と動画というところで言えば、写真より動画が、情欲を湧き立たせます。そのグレードもあってか、いまやメディアの発達もあり、動画が大量に生産されているように思えます。メディアの盛隆の裏側には、いつもセクシュアルな領域がついてまわっていて、一定の観客をつかんでいます。人間の持つ本能が、本能のままだと制度が乱れる。乱れるという内容で示される、内容そのもの、隠された裏面史なんていわれる言われ方、これらのことがらそのものが、いま、問われなければならないのではないかと考えています。人間の内側が開放されていく道筋が現代だと思っていますが、それらが歪曲されて、商用に利されている現状です。行き過ぎた商用利用は、遺憾ですが、です。行き過ぎた、行き過ぎない、というあいまいな線引きの問題もありますが。

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1968年11月に、写真同人誌といえばよいか、「PROVOKE」が発行されます。時は70年日米安保条約改定前の、国民的反対運動が盛り上がっていた時期で、後になってこの「PROVOKE」に掲載された写真や記事に対しての賛否両論が起こったと思われます。というのも、そこに発表された写真群は、それまであった写真映像の美学にたいして、まったくそうではない写真映像のいわば醜学(美にたいしての醜)への賛否だったのではないか、と思えます。ぼくは、当時は文学に傾斜していて、写真映像については興味の埒外でした。むしろ写真を撮る奴を道楽者と切り捨てていた記憶があります。

「PROVOKE」の作家、中平卓馬が、写真を撮り、写真を発表した、その写真は、まるでそれまで君臨していた美意識、美的感覚のない荒れてぶれて、何が写っているのか正体不明のような写真群でした。何かの象徴のように、たぶん若い世代の写真愛好者たちが、その写真映像を見て、心揺すぶられたと想像するのは、それほど困難なことではないと思えます。安保反対、それだけではなくて、反体制勢力のなかでの主導権争い、世の中が騒然としている時期でした。学問の府、東京大学をはじめとして大学が解体の危機にさらされ、権力装置の警察が前面にでてきて、反体制派を封じる行動に出ていて、それ自体が被写体として選ばれる時代でもありました。

三島由紀夫が主体となって「楯の会」が結成されるのが1968年10月です。政治潮流として左翼右翼という呼び方で区分していくなら、「PROVOKU」に集まる心情は左翼、「楯の会」に集まる心情は右翼、このようにも言えるかと思います。既存の制度を解体しようとする左翼学生運動、日本民族という固有の価値観を標榜する民族派学生運動、様々な潮流が渦巻くなかで、社会全体が転換期を迎えていたように思えます。写真表現においてもまた、転換点ともいえる1968年、これはその背景にある社会構造そのものが変容してきて、あらたな枠組みとなった時期ではなかったかと思います。それでは、いったい、なにが変わろうとしていたのだろうか。それは、人間の在り方そのもの、個人に在り方、個人という人格が個人の権利として、表に出はじめたのではないか、と推論します。個人の時代、とでも括ればいいのかも知れません。











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最新更新日 2014.8.12


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