夏越の頃-2-

 8〜14 2022.6.24〜2020.6.30

 

-8-
<浩一の記憶>
どうしたはずみか、浩一が社会人生活になじめなくなったのには、浩一自身としては、思い当たるふしがありません。大学では哲学を学ぼうと思って希望の学び舎にはいったまでは良かったのですが、思いがけなくそこで遭遇してしまった女人に惹かれてしまったのでした。男子だから女子を自分のなかにとりこんでしまうというのは、普通です。大学二年のことで、浩一は二十歳でした。相手は一年下の女子。同じく文学部でしたが詩人になることをめざす才能ある少女でした。名前は美幸、東野美幸、キリっと締まった目尻をもった女子。突飛もなく空想の世界を喋り出す詩人になりたいという女子です。
「向井先輩は、平凡な男子さん、でいいのかしら、好きです」
夏休みにはいったころで、男女合わせて十名の哲学グループが真如堂への散策に赴きます。もう蝉が鳴き始めた境内で、いくつか男女のペアができます。浩一は、好意を抱いていた美幸を、話し相手として選びました。
「そうかなぁ、ぼく、平凡なんだ、東野からみたら、平凡なんだ」
「すみません、えらそうなこと言って、ごめんなさい」
美咲のことばにショックをうけたけれど、好きですといわれて、なにやら心が揺らめきました。
「東洋哲学かぁ、道教とか、東野は西洋より、東洋なんだ」
「ええ、仏教とかも、研究してみたいです」
西洋哲学の常識の範囲で、ソクラテスとか、哲学者の名前をあげて、哲学の歴史みたいなフレームで、美幸に知識をわけあたえていた浩一です。でも美幸の興味の方向は、浩一の方向とは違っています。知識を分け与えているとき、浩一は有頂天になります。美幸の知らないことを知っていて、教えるという優越感の気持ちを抱きます。好きになっていく美幸に、美幸のほうも応えてきます。二人で逢うようになり、人目につかない処へ足を運ぶようになり、抱きあうようになります。
「ああ、せんぱい、わたし、ああ、わたし、ううっ」
唇をかさねられた美幸が洩らすかすかなふくらみ声に、浩一のからだが高揚します。美幸は受け入れます。そのまま、誰にも干渉されない二人だけの場所で、身を結んでしまいます。
「わたし、向井せんぱい、好きですけど、理論ばかりで、ついていけないです」
浩一には、美幸の全部をうけいれる心の余裕がありません。
「でも、向井せんぱいは、優しいから、好きです」
美幸のことばに揺れ動きながら、秋がおわるころに、浩一は、美幸に離れられてしまいます。美幸の感性が突飛すぎて、いっそう尖ってきて、カウンセリングをうけるようになって、関係を絶ち切ってきたのでした。
<旅に出よう、ヒッチハイク、流浪の旅、そうしよう>
失恋を癒すためといえばかっこよすぎます。冬に向かう季節のなか、浩一は旅にでかけたのです。

-9-
陶芸教室に通って来る向井浩一を迎える美和子は、なにかしら10年以上もまえに知りあって、別れた男子の面影にダブらせています。ミニトマトを食べる浩一を、美和子は無性にかわいく思えてしまいます。小説を書いているという浩一が、どんなストーリーの小説を書いているのか、美和子はまだ読んでいません。
「ねえ、ねえ、向井くん、小説って、社会派?、それともインナー派?」
「社会派ではないなぁ、恋愛でもない、性愛、みたいな内容だけど」
「興味あるわ、読みたいわ、向井くんの書いてる小説、興味ある」
「尾上姉さん、インナー派って、なにを想像します、ないめん告白みたいなこと?」
「向井くん、哲学者やから、今の哲学って、自分のないめん探りをするんでしょ、だから」
美和子には、表向き、陶房を運営する手腕をもった女子を演じていますが、内面はあれこれお悩みの女子です。揺らいでいます。ひとりでは生きていけない、支えられたい、支えてあげたい、共生したい、とは思うけれど、利害ばかりの身の回りです。馬鹿にも思える男子を演じている浩一を、社会の役に立っていないとはいえ、美和子がいる目の前で、無意味を演じてくれる浩一に、吸い込まれていく感じです。23の頃、親が決めようとしていた男子には、こころの奥でどうしても受け入れられない気持ちがあって、それからには恋愛する縁もなく、三十路半ばまで来てしまいました。親の財にて陶房を持てたことは、よろこばしいことです。芸術家の家系、親や兄の名声で自分が見られていることを意識します。その整備された籠のなかからでしか羽ばたくことができない自分を、これでいいのかと思う気持ちも持ち合わせています。
「学生の頃、つきあった女子とのことを、読み物にしようと思っているんですけど」
浩一の描く、描きたい場面は、浮世絵春画の現代版、だから表向いて公言するには、躊躇してしまいます。春画ではなくて役者画とか風景画の文章版を試みたりもしますが、描くところのヘッジがつかめなくて、モノになりません。春画の文章版なら、ヘッジは愛欲の極みで落ち着かせられます。
「花袋って小説家に蒲団って題の小説があるんですけど、ぼくが思うのは、その派です」
「かたい、って田山花袋、近代文学史で学んだよ、名前、知ってるよ」
美和子の表情が柔らかくなっていて、素顔がとても素晴らしくて、浩一の感情に降りてきます。ぎこちないところがなくて、開放された表情に、浩一はこころを揺すぶられます。理屈言っちゃだめだよ、と浩一は思います。美幸が去って行ったのは、知識で解決しようとする態度にあったから、との反省があるからです。
「そうなの、向井くん、花袋みたいな、女々しい男の小説を、書きたいのね」
「いやぁ、ピエタ像のイメージをとか、フィクションにしたい、慈悲ですよ、母ですよ」
「むつかしいことゆうのね、陶芸はからだで感じるもの、制作の作業は、ね」
「すみません、小説も理屈抜きで感動させる、そのことの描写だと、思います」
「読みたいわ、向井くんの小説、春画みたいなフィクション、興味あるわ」
等身大の観音さま、等身大の聖母、マリアさま、浩一の前にいる美和子が、生きられているそのお方のようにも、浩一には思えてきます。

-10-
<姉さん、だめだ、さきにいくよ>
自分の叫びの声が聴こえて、夢からさめた浩一です。目を開けて安堵、奈落におちる感覚と、天上にのぼる感覚を交わらせた感覚、官能の意識といえばいいのか、美和子の顔が浮かびます。浩一の夢。陶房の畳の間、座布団に仰向いた美和子と重なりあった浩一です。下半身が露わになった美和子が、膝をたて、太腿をひろげていて、浩一は、夢精のようす。声をあげない美和子に、ぐっとこらえた浩一が、限界に達して果てていく瞬間です。死にゆく直治の遺書の冒頭を、浩一はなにかあるごとにつぶやきます。
<ゆめ、夢、美和子姉さん、どうして登場してくるんよ>
まだ布団に仰向き寝そべったままの浩一が、夢からさめた幻の美和子に話しかけます。白い手、白いうなじ、柔らかい手、柔肌のはえぎわ、美和子のからだが思い浮かばれ、まだ見ぬ股間を想像し、夢精してしまった自分を処置します。今日は、午後から、陶芸教室へ赴く日です。夜中二時ごろまでパソコンの画面で、小説を書いていた浩一です。そのまま、敷いたままの布団に仰向き、寝込んでしまって、夢で目が覚めた、午前七時です。
<どうして、遺書なのよ、おれ、死なないよ、射精の瞬間だよ>
<姉さん、感じてくれなかった、おれ、ひとり、感じて、高揚して、発射したんだ>
<不浄だな、神さま、仏さま、お姉さま、汚しちゃったらいけないな・・・・>
起き上がり、水道栓の蛇口から、コップに水を注いでぐっと飲み。顔をあらって髭をそり、身だしなみを整えます。聖護院近くのワンルーム、学生のころから入居しているから、かれこれ十年近くになります。美幸が通ってきたワンルームだから、その記憶を引き寄せたままにしておくのも嫌な日々もありました。と言いながらも、ここで無価値に生きてきたのです。
「ちょっと、むし暑いですね、こんにちわ」
「いらっしゃい、こんにちわ、クーラーいれましょう、ね、向井くん」
「そうですね、作業するのに、快適なほうがいいです」
「向井くんのためよ、わたしわ、自然派だから、クーラーなしでもいいのよ」
この日の午後は、外気温に湿度が高く、緑が多い処だといってもムシムシです。尾上陶房の昼間は、電気を灯さなくても明るい光が戸外からはいってきます。
「素焼き、あがってるから、釉薬、塗って、乾かす、よね、向井くん」
「はい、おねえさま、きょうは、そのつもり、出来上がったのは、持って帰ります」
いつものように清楚な服装の美和子を、眩く見てしまう浩一。美しい、生きられているお方です。
「太宰の斜陽って小説、知っていますか、おねえさま」
「知ってるわよ、読んだわよ、読んだ、悲しい小説ね」
「そうですか、悲しい、ぼく、その、姉さんに憧れちゃうんですよね」
「こども、身ごもっちゃって、っていうんでしょ、侘しいわ」
「ぼく、ゆめ、見ちゃった、姉さんの顔、そのお顔、おねえさまでしたよ」
「なによ、直治なの、向井くん、そういえば、向井くんは、直治のイメージかなぁ?」
美和子は、ルンルンな感じで、泉鏡花とか徳田秋声とか、知ってるわよ、といい、浩一にも知っているかと訊ねているようなのです。浩一は、あまり知りません、深くは読んでいません、哲学だから、文学ではないから、と言い逃れします。

-11-
美和子が小泉ギャラリーで個展を開催されてからふた月が過ぎます。ギャラリーのオーナー小泉信一郎から、店に展示している制作陶器の入れ替えを、との要請もあり、美和子は新作を風呂敷に包んで、ギャラリーを訪れます。
「尾上さんの器は、人気で、よく売れてますよ、よかったね」
小泉は、ほくほく顔で、美和子に応対します。そろそろ雑誌に、辰野裕子が取材した記事が載るころです。すでにゲラ刷りがあがっていて、六ページの記事と写真です。
「小泉先生には、お世話になるばかりで、申し訳ございません」
「なになに、こちらこそ、新進作家さん、尾上さんは筋がいいから、ね」
「いいえ、ありがとうございます」
「虹のシリーズが、斬新だというので、売れ筋だね」
個展で初公開した彩色の器です。飾るによし、和食器として使うのもよし、現代陶芸の要素をもった鮮やかな色合いの器です。もう外は夏の光です。日傘はささない美和子ですから、ひさしがおおきな日よけ帽子をかぶります。ノースリーブのワンピース。小柄な美和子には清楚なブルーが似合います。爪には透明色のマニキュアです。陶房に過ごすときはしませんが、外出でお人さまと会うときには、施します。
「美和子さんが十二単を着たら、高貴なお方に、見えるんでしょうね」
小泉が、美和子を眺めて、突飛に王朝時代の女装束を持ち出します。というのも美和子が採用している彩色が、古典の色彩を彷彿とさせるからです。平安の時代から、京は都で栄えてきた処です。雅文化の発祥地、継承地、いまや保存庫になっている京都です。京娘、美和子は日本画家の系譜で、京都派を構成する人脈のなかに組み込まれた女人です。
「ええ、尾上さんがいらっしゃるというので、来ました」
辰野裕子が、ギャラリーへやってきたのです。
「その節には、取材させていただき、ありがとうございました」
首から小型カメラのストラップをかけた裕子が、礼儀正しく、挨拶をしてきます。美和子は、裕子の来訪を事前にしらなかったから、ちょっと驚きです。小泉から、事前に、美和子が来ることを、連絡されていたのです。美術史に精通している辰野裕子です。ギャラリーと画廊を経営している小泉には、尾上美和子と辰野裕子を交わらせることで、メディアでの相乗効果を狙うのです。美和子のイメージを、どのように作りあげていくのか、作家誕生のための回廊をイメージさせていくのか、アートディレクターの仕事を、小泉は自分のギャラリーと画廊の存続にもかけて策をねっているのです。

-12-
東京日本橋にある百貨店のギャラリーで、新進作家、陶芸作品の部、老舗百貨店が主催する美術展示会があるというので、小泉ギャラリーを代表して美和子の器を出品するというのです。
「来月、京都は祇園祭にあわせて、展覧会が開かれる、尾上美和子のデビューだね」
特選、新進作家展、日本画京都派の家系にある才女尾上美和子。陶芸に挑んだ作品、との触れ込みです。
「ああん、なんだか、こわいわ、わたし、そんなんじゃないのに、ねぇ、辰野さん」
「どうして?、尾上さん、そんなのですよ、美しい尾上さん」
美和子の個展を取材した裕子の記事が、美術雑誌に載せられ、その存在感をバックにした東京進出です。
「よかったよね、いいタイミングだよ、雑誌にも紹介されたし、いいじゃない」
「あ、でも、ありがとう、ございます」
「ルポライターとして、辰野さんの存在も大きいけれど、何より尾上美和子、だよ」
「そうですよね、素材としての尾上美和子さん、デビューするべくしてデビューした」
「辰野さん、上手にゆうねぇ、どこをとっても遜色ない、若き陶芸家だよ、ね」
美和子は、小泉の持ち上げられ方に、こころを擽らされていて、おもはゆい気持ちです。
<うそ、うそ、うそよ・・・・>
こころではそんな感じが渦巻きますが、表向きには作家として、持って出るべく陶器作品もできているし、チャンスだととらえる利口な美和子です。
「京都って、美の典型ですよね、古代から日本美術の系譜をつくってきた処ですもの」
美術批評家として陶芸の作家をルポする実績を積んでいく辰野裕子。京都の奥の院、茶道の家元が目の前、小泉ギャラリーが特選する批評家と芸術家とのコラボです。この夏は、祇園祭にもあわせて、尾上美和子が雲の上にあがっていくお膳立てです。
「それにしても、美しいですね、尾上さん、うらやましいです」
どちらかというと律儀な硬めの表情をする裕子が、知的でのほほんな空気を醸す美和子を、褒めます。ナチュラル派の美和子も、アイテムとして売り物のひとつです。裏庭で家庭菜園する美和子の写真も雑誌に掲載されているし、陶芸制作中の美和子の写真も掲載されている六ページ仕立て記事広告です。
<ああ、向井くん、どうしたの?、ねぇ>
どうして小泉さんと辰野さんがいるこの場面に、向井浩一の顔が浮かんできたのか、美和子には理解できません。なのに、うつむいた浩一の姿が思い浮かび、消えていきます。
「はい、新作と言うより、ここで展示して、雑誌に載った作品で、いいですね」
「あれは逸品だよ、あれがいい、若さもあるし、艶もあるし、魅力な陶器だから」
「そうですよね、これまでの代表作として、展示されるのが、いいです」
「京都に小泉ギャラリーあり、長谷川等伯もこの界隈にいた、そういう地だしね」
美和子の意識は、もう浩一のほうに向いていて、小泉と辰野との会話のなかに真剣に入り込めません。浩一に異変が起こっているんじゃないかと、美和子は思います。この前、陶芸教室で会ったとき、へんな話しをしてきたから、さきに行くよ、なんてこと言うもんだから、しんぱいになるのです。

-13-
「姉さんって、すごいんだね、ぼくなんか、及びもつかない処のおひとやね」
陶芸教室に通ってきた浩一が、美和子に誘われるように、近くを散策、その途中です。哲学の道を南にとって、法然院への参道になるところまできます。
「どうして?、わたし、ただのおんなよ、もう、婚期逃しそうな女よ」
「作家になられたし、ぼくには、姉さん、宝石のように光ってる」
「なによ、わたし、むかしもいまも、おんなじよ」
「でも、筋が、ぼくなんか、なんにもない、賞、狙ってるわけでもないし」
「向井くんは、ピュアーなのよ、学歴とか、いかせばいいのに」
藁葺屋根の小さな山門をこえると池があります。ひとはあまりいません。散歩に誘ったのは美和子です。たしかに、浩一に、自慢したい気持ちもありますが、別の世界へ降りていく浩一には、むしろ自分をけなしたい感情です。
「ただのおんなよ、向井くんのとなりにいる、おんなよ、わたし」
「でも、作家デビューする姉さん、うれしいけど、遠いところにいかれて、ぼくなんか」
「ぼくの、小説、読ませてよ、上手なのか、下手なのか、わたしが読んであげるから」
家柄の壁とでもいえばいいのか、浩一には、すばらしい観音さまのようにみえる美和子です。でも育ってこられた美和子の環境には、違和感を覚えます。山陰は松江の片田舎に育ってきて、京都の大学に入学できて、哲学を学びだし、恋した後には転落してしまった浩一にです。キラキラ光るかの家系にいる尾上美和子を、興味を抱いてみていますが、あきらかに環境が違う、生活の場が違う、相容れない、交差する処がないとおもえるのです。法然院の池のそばに佇む美和子を見ていると、清楚な女子が観音さまに思えます。浩一は、くらくら、めまいを起こしそうな後光を感じます。
「ねえ、向井くん、氷、たべにいこうか、おりたところのお店、赤いのがいいわ」
「うん、はい、姉さん、かき氷、いいなぁ、いいですねぇ」
喫茶店になっているから、クーラーが利いていて、窓からの光が眩しい、窓際に座ります。平日の午後だから、お店に客はいません。赤いかき氷は、いちごといいます。ガラスの器に山盛られたかき氷に真っ赤な蜜がかけられて、下の方は掻いた氷の白いまま。
「あああ、冷たい、美味しい、くちのなか凍えるわ」
美和子が、氷の赤い上部に匙を突っ込み、顔を近づけ、くちのなかへ滑りこませて、うわずった声で、発音します。その光景が、声が、まるで子供のようにもみえた浩一です。近親感を取り戻し、浩一は、美和子を、憧れの気持ちで包みます。
「あああ、冷たい、汗、ひくわ」
「こどものころ、ピアノのレッスンから帰ってくると、ママがかき氷してくれたわ」
「ぼくなんか、京都に来てからです、夏になると、食べましたよ」
なごみます。いっしょに歩いて、いっしょに氷をたべて、さきに行くんじゃなくて、いっしょに行きたい。浩一の脳裏には、官能する美和子が、清楚なすがたで、交錯しています。

-14-
<あっ、あっ、ああっ、そっちいったらだめよ、浩一、だめよ>
美和子が夢からさめて、目をあけると、窓からの光がもうベッドにさしこんでいます。午前四時がすぎて、夏至の朝、もう明るいのです。パジャマのなかに手をいれて、胸をなであげる美和子。
<ねえ、こわかったわよ、断崖よ、手前の命の公衆電話には目もくれないで、降りていくんだもん、浩一、だめよ、しっかりしなさいよ>
なぜ、こんな夢をみたのか、美和子には思い当たる節がないといえばない、あるといえば、法然院の境内を散策しているとき、伏目がちだった浩一の表情が、ちょっと詰まっていたようにも感じた美和子です。夢のなか。観光地になっている断崖は、自殺の名所で有名で、悩んだ男が、女が、途方に暮れてそこを訪れる。命の公衆電話、10円玉が袋に入れられていて、救助の電話か掛けられる。美和子は、そんなつもりでそこを訪れたのではなくて、観光客がこないほうへ、少し歩いて降りたところで、その光景に巡り合わせたのです。もう十年以上もまえのこと、陶芸学校の友達たちと軽四輪車で旅行の途中でした。女子大を卒業して、陶芸学校に入学したころ、親も許した恋愛をしていた美和子です。死に場所があるなんて、思いもつかない世界のことでしたが、古典で近世文学で、近松の人形浄瑠璃の演目、みちゆき、道行ってことが起こるという話しを聴講しました。恋愛する美和子には、そこまでの思い詰めにはいたりませんでしたが、愛したことは事実でした。
「そうなの、ちょっと、こわい、ゆめ、だったわよ、向井くんがいたのよ」
「へぇええ、ぼくが、いたんですか、夢のなかに出させてもらって、光栄です」
陶芸の土を捏ねるのもだいぶん上達してきた浩一です。立って、腰を使って、手腕を使って、ぐいぐい菊揉みしている浩一です。陶房にはクーラーを入れているから暑くはありません。
「土窯をつくらないかってお話しがあるのよ、場所は、亀岡の山のほうだけど」
「土窯って、陶器焼く窯ですよね、亀岡の山のほう、ですか」
「小泉さんが、ね、田んぼしなくなった休耕地に、芸術村をつくるっておっしゃるのよ」
「そうなんですか、いいですね、土窯ですか、そうですか」
「向井くん、のって来ない?、なんかね、法人にするっておっしゃるのよ」
美和子が陶芸作家としてデビューしだしています。その美和子が拠って立つ場所、農園陶房をつくるという小泉信一郎の企画です。
「わたし、興味あるわ、電気窯じゃなくて、土窯よ、土だってつくるのよ、陶芸の基礎」
「尾上さんと知りあって、からだとあたまと、共にあるんだと、教えられました」
「ねぇ、向井くんの小説、読ませてよ、おねがいよ」
「いやぁ、まだ、恥ずかしい、尾上さんに、叱られそうです」
「えっちな小説?、叱らないわよ、たぶん、ね、いっしょに土窯つくろうよ」
「そうだね、ぼくは、会社員なんてできないから、土と戯れる、ですね」
なんとなく合意に達してきて、美和子には、安堵感というか安心感に満ちてきます。世の中に組み込まれる農園陶房の経営ですが、哲学者で文学者の向井浩一を迎えることで、その企画は、成熟するようにも思えるのです。















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