文章評論第二部
物語と小説のブログ


嵯峨野に想う/雑記帳
 1〜3 2018.2.25〜2018.8.20

 

-1-
嵯峨は京都の北西部、双ヶ岡を越え、広沢の池を越え、山ぎわを歩んでいったあたりが嵯峨。ネットで検索すると「嵯峨」「嵯峨野」は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称だ、と記されています。ぼくの通った高等学校が嵯峨野高校だったといっても、もう半世紀以上も前に卒業だから、現在の有名進学高校というよりはもう少し鄙びた感じの田舎の高校というイメージでした。その高校から歩いて広沢の池までいって、貸ボートにのって池で遊んだものでした。そういう嵯峨のイメージだけど、しだいにこの嵯峨という名前に、ぼくはある種、古典の風情を感じるようになったのです。たとえば紫式部の源氏物語とか、清少納言の枕草子とか、文学においても古典のなかで、名作を生んだ地域の感性でしょう。

 千鶴子さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。広江さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。美花さんも嵯峨野高等学校の卒業生です。千鶴子さんはぼくと同じ学年でした。広江さんはぼくより二十年ほど後輩になります。美花さんはぼくより四十年ほど後輩になります。いずれの方も思い出深い女性で、嵯峨の地に十代を過ごされて、やさしい心をお持ちになった包容力のあるお方でした。嵯峨のあたりを散策すると、そのご三方のお顔が、浮かんでは消えていくのです。恋心を抱いたお方ですから、心から消えてしまうことはありません。千鶴子さんはその後の消息がわかりません。広江さんのことは、最近、画家をやっていらっしゃることを知りました。美花さんは、その後の消息がわからなくなってしまいました。嵯峨の野に母のようにしてぼくの心に残ります。ことあるごとに思い出してしまいます。もうお会いすることもないのだと思うと、壊れてしまいそうになります。

 嵯峨大覚寺の裏になる所に名古曽という地名があって、最近、その場所が、高貴なお方の住居があった所だということを知りました。その高貴なお方が住まわれてたのは一千年以上も前のことになり、その後には大覚寺の敷地になっているようです。それはさておき、その名古曽という所の民家に住まっていた女子がおられました。ご存命ならば、古希を迎えられた方ですが、その後の消息がわかりません。先に記した千鶴子さんではありません。そのお方は、一年下のお方で、お姫様のようでした。その方のイメージは、別の所で別人として出会うことになりましたが、本人とは出会うことができませんでした。嵯峨の地には、思い出がたくさんあります。ぼくが生きている心の基底が、そこに支えられているような気がしてなりません。野辺の花が間もなく咲きだします。野辺の花一輪のかよわさとやさしさに、ぼくは支えられているのだと感じるのです。

-2-
 16歳になるとき学ぶ高校が決まって、その高校の名前が嵯峨野高校でした。それまでは、街の中に住んでいた身にとって郊外に所在する高校にいくことになるなど、思いもかけないことでした。当時の京都市内の中学校から公立高校の普通科に通えるのは、個人の選択ではなくて小学区ごとの割り当てで決められていました。前の学年の人は山城高校でしたから、当然の事、ぼくもそこへ行くことになる予定でした。が新聞紙上での発表を見ると、嵯峨野高校になっていました。嵐電の北野白梅町駅から嵐山の方へ、帷子ノ辻の一つ手前の駅、常盤の駅前にある学校です。まわりは農地で、田舎な感じがして、都会センスを失う感じがして、行く気がしない気分にもなって入学式を迎えました。

 住めば都という諺があるように、その学校に慣れていきます。高校野球の夏の選抜大会予選に出場するというので応援にいきます。応援といっても応援団があったのかどうか、ブラスバンドはありませんでした。強いわけがなく最初の試合で敗退していました。入学してすぐのことだったかと思います。気になる女子があらわれました。きっかけはわかりません、なにに惹かれていったのか、わかりません。かわった女子というか、田舎っぽい女子というか、訳ありそうな女子で、夏休み前には気になっていて、40日間の夏休みが哀しみの夏に思えた気持ちがよみがえってきます。初恋ではありませんでしたが、好きになって会話を交わすようになった最初の女子でしたから、これを初恋というべきかも知れません。誘われるままに青少年赤十字のクラブに入部しました。興味のあった新聞部に入部しました。クラブはこの二つで、青少年赤十字は夏のおわりに辞めました。新聞部は、その年のおわりまで在籍していて、先輩になる林という男子の影響をうけます。

 思想的なことはまだわかりません。青少年赤十字が右系だとすれば新聞部は左系的な区分けでしょうか。どちらのクラブも女子が多かったように思います。一年先輩だから二年生の女子たち。いまも何人もの顔を思い出しますが、まるでお姉さまで、まるで弟扱いされたような気がします。新聞部にいた女子は、良家の子みたいな風にみえます。部室のテーブルを囲んだ長椅子に座って隣に女子がいて、押し合う格好で横に並んで、先輩女子は、いいのよいいのよ、と言いながらぐいぐいと腰を寄せてきたのです。そんなに接近して密着するなんて初めての事だし、相手が女子だし、久我美子みたいは顔立ちなので、その密着した女子は好意をもった先輩でしたから、内心、あわてふためき、青春の感性を揺すられました。女子はしょせん女子なので、友達になって交流するということはありませんでしたが、気になったひとりだけに、高校生活の三年間を揺すられてしまいます。

京都にまつわる雑記-1-

千本通りは平安京の朱雀大路になるといいます。
千本丸太町の西側が大極殿跡で、そこから北へまっすぐで船岡山です。
平安京を設計するのに船岡山が北になって、そこが基点だというのです。
一条通りは、現在の中立売上がる、今出川下がる、東西の通りです。
平安京では一条が北の大路で、そこから北は野原、北に船岡山という地形です。
一条から歩いて10分ほどで上立売へ、その北に釘抜地蔵があります。
そこから歩いて5分ほどで閻魔堂に到着です。
閻魔堂には閻魔大王がいて、あの世へ行く入り口にあたるのでしょう。
この世での罪を吟味してもらって、判決を下されて、六道に振り分けられる。
この千本のこのあたりから蓮台野といわれていて、ここより北は墓場です。
死者埋葬地となっていく地域一帯で、鷹峯に至り、京北に至る、というのです。
鳥辺野、蓮台野、化野、というのが京都の死者を埋葬する地です。
死者を埋葬、と記したが、風葬、野晒し、木に吊るして鳥の餌、のようです。
白い布に巻いて棄てておくという死者の扱い方もあったのでしょうか。
衣笠山の衣笠は「きぬかけ」、死者を巻いた白い布で山が白く見えた、とか。
衣笠山は鹿苑寺・金閣寺の裏山になって、金閣寺の借景になっています。
死者をどのように扱ってきたか、ということに不謹慎ながら興味ありです。
もちろん生まれてくる誕生にも言及して、この世のことをクローズアップ。
死んでから、次に生まれてくるまで、輪廻というのでしょうか。
死者が甦るという考え方は、死への恐怖から逃れるための方策なのかも。
生と死、死から生へ、シームレスにとらえることで、本性を安心させた。
究極の行き場、この世に生きる人の内面の、いちばん安定する意識の場所のことです。
この世のそのような場所が、お寺であり神社であると思うが、相思相愛の場もそうです。
カフェって、神社仏閣ではなく、二人の場でもなく、しかし、その場と同質の在処かな。
こうして記述していると、なんとなくわかって、目に見えないけれど、見えてきますね。

京都にまつわる雑記-2-

京都だけではないとおもいますけど、地蔵盆という催事があります。
お地蔵さんをまえに、町内の子供を守っていただくお礼、でしょうか。
その意味は調べていないのでわからないけれど、お盆にあわせて行われます。
ぼくは京都に生まれて京都に住んでいるので、当たり前みたいな感覚です。
子供の時から、この日には、お菓子をもらったり、していたから、嬉しい催事。
ヒトの内面をつくる風土という空気みたいな感覚があるとすれば、これです。
先日、大文字の送り火があって、この週末にはお地蔵さんの催事。
まあ、大人の休みにあわせて催される昨今です。
京都が日本の精神風土を培ってきた現場ではないか、と思うのです。
どうしてそう思うのかといえば、千年も都があった土地だからです。
どういうことかというと、雅の文、です。
天皇がいる場所に、食べ物、着る物、調度品、様々な文化が育まれた。
華道も、茶道も、文学だって紫式部から枕草子、鴨長明、兼好法師さん。
といいながら、京都のことを知っているかといえば、そんなに知りません。
でも、情念というか怨念というか、ヒトの心の奥のドロドロ感の蓄積。
京都という風土に育つヒトの風土ってのは、ちょっと根深いね、たぶん。
京都の人って腹の底で何を思っているのかわからない、と言われるます。
そのとうりだと思うんですが、京都だけでしょうか、人間の本性ですが。

京都にまつわる雑記-3-

千本寺の内を上がった西側に、千本えんま堂があります。
閻魔大王が睨みを効かしていらっしゃる座像が置かれてあるお堂です。
京都の北西部の庶民文化が集約しているスポットじゃないかと思っています。
文化遺産としては現在も保存会がある、えんま堂狂言や千本六斎念仏。
京都における位置的には、千本通りの船岡山麓、蓮台野の入り口、のぼり口。
この世とあの世の境界が、このえんま堂を介して意識せられたのではないか。
ちょうどこのあたりから北に向かってひろがる野は、坂になって蓮の形状になる。
そのようにイメージされて、ここから北には死者を葬る野原が広がっていった。
現在地で云うと、千本北大路から北へは上り坂で、鷹ヶ峯に至る一帯です。
京都から日本海へ通じる街道がいくつかあるけれど、ここもまたそのひとつ。
鷹ヶ峯から山道で京見峠を経て真弓、杉坂、京北から美山に通じる街道でした。
現在は仁和寺から高雄にいく道路があって、そのまま美山へいけるルートです。
千本えんま堂の狂言や、千本六斎念仏などは、子供の頃には見て聞いていた光景です。
知らず知らずに自分の感覚が作られてきたように、思えます。
風土ということですが、庶民文化、庶民の生きざま、そのものではないかと思うのです。
だから、もちろん、映像や文章表現においては、その地域風土を意識します。
自分の地場そのものが、表現の対象となる、という古くもあり現代的な視点です。
このあとには、また、北野天満宮を基点とした話を、してみたいと思っています。











HOME

最新更新日 2018.11.20

ツイート


HOME



文章・小説HOME


さくら協奏曲表紙


文章・評論表紙

或る物語

嵯峨野に想う/雑記帳

雑記