ものがたりブログ

ものがたり-2-
 7〜14 2021.12.13〜2021.12.27

 

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やはり、生まれたところから書くべきだとおもったので、そこから書き始めます。生まれたのは昭和21年(1946年)4月です。戦争が終わった翌年のことです。へんな計算ですが、妊娠から生誕まで、十月十日といわれていますから、母親の腹に宿ったのは終戦一か月ほど前のことになります。父は身体に理由があって、戦争には駆り出されずに、国内の軍需工場で働いていたと聞いています。母は七人ほどいるきょうだいの長女でした。烏丸六条に和漢薬店を営む家、いつ開店したのか、戦前から営まれていた和漢薬店の長女で、理髪の免許を持っていました。父は建具職人ですが、ぼくが生まれたときには、失業状態ではなかったのか、と思えます。もの心つくころ、壬生に住んでいた父は、和漢薬店を営んでいました。父の母は、西陣織の手機の織子であったようで、住まいに設えた織り機で、ばったんばったん、帯を織っていた光景が記憶にあります。昭和21年から昭和27年、ぼくが小学校に入学するときまで、壬生に営んでいた和漢薬店に、その後に弟が生まれたので、親子四人が住んでいたことになります。壬生の家屋は、電車道に面していました。元は花屋さんの店だったと聞いていますが、その家屋には地下室がありました。一階が店舗と狭い部屋があったようで、二階が寝室だったと思えます。

記憶の断片は、これまでにも文章にしたためているところもあるので、今もってその記憶がよみがえってきます。花電車が通っていきました。飛行機が空中からビラを撒いていきました。家の横は空き地で、これは火事で焼けたあとの空き地で、竹籠に鶏が買われていました。大相撲京都場所が開かれたのがこの空き地で、お相撲さんをまじかに見ました。少し離れた、といってもいちばん近い家屋は果物屋さんで、そこのお母さんはお亡くなりなっていて、おじさんと男の子供がおられました。その向こうにお菓子屋さんがあり、カバヤキャラメルを、よく買ってもらいました。朱雀第一小学校が斜め向かいにあります。校門を入ったところに、幼児の背の高さよりヘリが高い樽がおいてあり、捕らえたネズミを死なせて、持っていくと五円もらえて、樽に投入するのです。ぼくは小さくて目の高さ以上なので、樽のなかは見えませんでした。食べ物が無くてお腹を空かしていたという記憶はありません。ビリヤードをする店があり、ダンスを教えている店があり、夜になると明かりがついて大人の声がする、というのがこわかった気持ちを思い出します。

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いつごろから自意識というか、自分の記憶を思い起こすことができるのか。そんなことを思いながら辿っていくと、四歳くらいのことが思い出されます。でも、自分の感情を伴っているかといえば、嬉しいとか悲しいとはの感情ですが、それはまだのようです。小学生になって、二年生頃になると、夕暮れになると侘しい思いが込みあがってきていたのを思い出します。そのころ、母親は働きに出ていて、帰宅が夜でした。夕ご飯には、母がいなくて、お腹が空いたというと、ひとりでお膳にのせられたおかずの皿を前にして、白米のご飯を食べていた光景を描くことができます。S君というクラスの友だちの家へ遊びに行って、S君のお家で夕ご飯を食べさせてもらうことがありました。家族団らん、S君のお家はお母さんが家にいて白の割烹着姿だったので、専業主婦してらしたと思えます。なにか、うらやましいと思っていたような記憶があります。母への憧れみたいな視線でいうと、割烹着をまとっておられたお母さんに、母のイメージを抱いていたようにおもわれ、外に仕事に行っていた自分の母には、白い割烹着をつけている姿が思い出せないのです。

母はそのころ、広小路にあった立命館大学の理髪店で、働いていました。理髪の免許を持っていたんです。よくその理髪店へいって、大学のなかで遊んだものでした。校舎には入りませんが、理髪店があったは研心館の地下でした。地下には食堂とか本屋さんとかありました。わだつみの像が、研心館の入り口近くに設えられておりました。母が、わだつみの像が学校に来た、と言っているのを聞いた記憶があるので、それは1953年、昭和28年のことですから、ぼくは7歳、小学二年生のことになります。立命館というのは、ぼくの記憶の中に濃厚に残っていて、その後に大学生になったのが、立命館だったというのも奇妙な縁だと思っています。わだつみの像が何を意味していて、何故立命館にあったのか、ということはかなり後日になってぼくは知るようになります。学生戦没者の慰霊碑みたいな像だと聞き知りましたし、高橋和巳が荒神橋事件をテーマに小説を書いていますね。

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そのころ、ぼくの住む家は、織屋仕立ての家屋で、玄関から通路があって、右側に三畳の間、その奥が四畳半の部屋になっていました。元は織屋で手機は設えられていたのを、部屋にしたものです。上がりに段があってガラス戸、部屋はベニヤ板張り、振り子時計が掛かっていました。二階建ての四軒長屋で中二階は四畳半、叔母さんが寝起きしていました。もとは庭だった奥に、三畳の部屋が造られて、祖母が寝起きしていました。父も母も仕事に出ていて、祖母がぼくの面倒をみてくれていました。叔母さんは母よりひとつ若くて三十過ぎでした。叔母さんは織機の織子で何処だかの織物工場で働いていました。四畳半の部屋に、父と母、それに弟が寝起きしていて、ぼくは中二階の叔母さんと寝起きをともにしていました。その頃の銭湯といえば、小学生、三年か四年生でも、男の子が女風呂、女の子が男風呂にはいっていました。ということで、ぼくは叔母さんと銭湯にいくので、女風呂にはいっておりました。まだ性に目覚めていないから、お風呂で、とくに女性を意識することはなかったように思いますが、女子を好きになるという気持ちは芽生えていたと思えます。雑誌などで顔が出ていて、映画にも出ていた松島とも子が好きになって、いろいろと妄想を脳裏に描くのですが、松島とも子さんのお顔でした。四年生になると、クラスの女子を好きになっていたのがよみがえります。

男が集まるとスポーツするのですが、ぼくはスポーツをするのが嫌でした。ソフトボールが特に嫌でした。反面、本を読むのが好きで、ひとり中二階の四畳半で、買ってもらった子供向けの雑誌とか、怪人二十面相とか、夢中になって読んでいました。だれが読んでいたのか、たぶん父が買ったのだと思います。でも中二階の四畳半に叔母さが寝起きしていたから、叔母さんが買ってきて密かに読んでいたのかも知れません。和ダンスの上段は引き違い戸になっていて、その奥に雑誌が重ねられ、置かれてありました。雑誌の名前は、奇譚クラブと風俗草紙でした。あわせて十冊ほどがあるのを、いつのことか見つけていました。ぼくは、それらの雑誌をタンスの中に発見し、中二階でひとりの時に、ページをめくり、絵を主に見て、文章も読むようになります。写真は白黒でしたし、挿画があります。それに本文ページは、小説とかルポとか、文章が主な読み部分があります。その中でも挿画というか絵にふれて、それは女の人が裸にされ、縛られている絵ですが、ぼくはそれらの絵に魅せられてしまいます。まだ思春期をも迎えていない年齢で、お風呂は女風呂に入っていた年齢でした。お風呂で女体を見て、雑誌の絵を思い出し、お風呂の女体にその光景を重ねていたようにも思えます。

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母はいつも働いていて、働くのが好き、というだけではなく、戦後に生きていくために、必死になっていたのではないかと思います。どういうわけか、立命館の散髪屋で働くのをやめて、テキヤの屋台を縁日などで出店していました。お正月には天神さんの参拝道の鳥居のところで、食べ物ではない子供の玩具みたいな屋台を出していました。桜の頃には祇園さんの参拝道で、花見で食べるお菓子を売っていました。節分にはお多福飴の店を出していました。好きでそういうことをやっていたというより、やっぱり生活のためだったと思います。父は建具屋で工務店で受注した家具を、その工務店の作業場で、作っていました。ぼくは、小学生で、もう高学年になっていました。四年生の頃でしょうか、気の合う友だちたちと、自転車に乗って、国鉄の線路が見える高架橋へ行って、電車が通るのを見にいきました。時刻表を見て、通る時間を確認して、高架橋へ行った記憶があります。その頃になると、好きな女の子ができて、好きとは言えなくて、思い悩んでいました。

いまこの手記みたいな文章を書いていますけれど、それらは65年も以前のことです。昭和30年頃、1955年頃です。伝書鳩を飼っていたことがあります。父に頼んで畳半分ほどの鳩舎を、屋根のうえに作ってもらって、学校から帰ると屋根にのぼって、鳩の世話、水を入れたり、餌を入れたり、いつの間にか10羽ほどいたように思います。じっと見ていて、鳩の行動を観察していました。ひとり、鳩舎のまえに座って、自慰していたような記憶がよみがえります。屋根裏部屋になる中二階の四畳半にいるときは、読書しますが、興味は奇譚クラブ、風俗草紙、それらのなかの写真とか挿絵とか、とっても興味をわかせて、妄想して、イメージを膨らませていたように思います。いま、ネットの中にそれらの雑誌ページが見れるようになっていて、見てみると、その記憶の中の挿絵が、CTRのなかに見いだせるのです。ぼく自身のフェチなところは、その見たという体験が、いまもってそのまま引きずっていると思えるんです。

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女子も男子と遊ぶことをおもしろがり、男子も女子と遊ぶことに魅力を感じて、誰かさんの誕生日に男女で10名ほどが集まったのです。それは一階が織屋さんの工場で、二階には広い部屋がありました。その二階でかくれんぼすると女子の一人が提案します。じゃんけんで、ぼくが負けて鬼になる。逃げた奴を探して、見つけたら抱いてあげて、鬼の勝となる、というのです。押し入れに隠れた女子を、見つけて。ぼくは、その女子を抱いてしまいます。それだけのことですが、奇妙に、抱くことに興奮してしまいます。スカートを穿き、セーターを着た女子ですが、見つけて抱くまでに、抱かれないようにと抵抗するわけです。この抵抗されることが、お気に入りになるわけです。スカートが捲れて、下穿きしたお尻が見えます。セーターのうえからですが、抱くと柔らかい肉体を感じます。キャッキャと声を発しながら、女子が逃げ、それを追いかけ抱きしめる。そんな遊びをした光景を思い出します。性に目覚める頃、といえばいいのかも知れません。男も女も、十歳になると、無意識にでも男は女を求め、女は男を求めるようになる、と感じています。

夏休み、水泳スクールに通うことになりました。最初は水に顔をつけることから始まり、足をばたばたさせることを実地で教わります。泳ぐ最初は犬掻きでした。川を仕切ってプールになった水泳教室で、男子が圧倒的に多かったけれど、女子が何人かいました。男は褌姿でしたが、女子は水着です。女子の水着姿を見れて、妄想がわきます。胸が少し膨らんでいて、股のところは、なにかしら、縦に割れ目ができているのです。見たこともない女の人の股ですがら、割れ目があるとは聞き及んでいたので、へんに想像逞しくして、その女体を想像していたのをおぼえています。水からあがると寒くてガタガタと震えるときがありました。お腹が空いて、プールサイドにおうどんの屋台があって、一杯五円だったことを覚えています。だいたい、おこずかいといえば、五円が相場で、駄菓子は、五円でだいたいのものが買えたように思います。家では、祖母の店番で、駄菓子屋を始めました。ぼくは、たまに留守番することがあって、駄菓子の仕入れには、荷物持ちとして、親に同伴していました。千本三条の商店街入口に、駄菓子の卸店が数件ありました。

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小学校の三年だったか四年だったか、学芸会とか学習発表会だとかの名前で、劇とかリズム合奏とか、ステージに上がることがありました。ぼくは、音楽のステージで、鉄琴を使う役割になりました。木琴が十数人いて、鉄琴はその真ん中でひとりです。またハーモニカの合奏があって、一人だけのソロパートを担いました。音楽が得意だと先生が認めていたのかも知れません。家では、ポータブルのレコードプレーヤーを真空管ラジオにつないで、レコードを聴きます。父が音楽愛好家みたいな、そう、SPレコード、78回転のレコードがあって、ドナウ川の漣をよく聴きましたが、軍歌のレコードがあり、これも聴いていました。中二階の四畳半、夜には叔母さんと一緒に寝ていたんですが、ぼくにとっては突然、結婚されて、いなくなったのです。その時から、ぼくは中二階の四畳半で、ひとり寝起きするようになりました。学校での成績は、クラスで二番、Y君が一番で、ぼくが二番、通知簿は、ほぼ5で、図工が4だったか、Y君はいいところのおぼっちゃま、という感じで、家業が西陣織の仕事でした。叔母さんがいなくなって、ひとりになったぼくは、貸本屋さんで本を借りてきては読むようになります。一冊10円というのが相場でしたが、なんとかお金を工面して、借りにいったものです。

内緒の雑誌は、やっぱり愛読書、奇譚クラブとか風俗草紙とか、少年探偵団と明智小五郎、怪人二十面相とか、でした。中二階への階段の前に本棚がありました。その本棚に医学の本がありました。壬生では漢方薬の店をしていたから、そこの経営者だったからか、指導書、と書かれた本でした。図解があり、からだの構造が図解されていました。からだの構造といっても部分的な構造のこと、性器の構造図です。男の性器、これは自分が男だから、外見わかります。興味を抱いたのは、女の性器、図があって、名称が示されていました。それから、男の性器と女の性器が結ばれる図解のページがありました。挿し込んだ男のモノが女の中で射精する図解、それから避妊具の種類とか、使い方とかの図解入り説明がありました。ぼくはかなり丹念に見て読んだと思います。雑誌を見て読んだことも、図解を見たことも、それは内緒の話しで、だれにも言えません。ぼくの妄想はどんどん拡張していくばかりでした。

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祖母が店番する駄菓子屋を営んでいて、冬にはお好み焼き、夏にはかき氷をやっていて、ぼくが手伝いをする役目でした。お好み焼きの冬は、小麦粉をといたり、キャベツを刻んだり、父が仕込んでおりました。夏のかき氷には、イチゴやレモンの蜜は仕入れていて、黒砂糖を自家製していて、白蜜に黒砂糖を溶かして、作っておりました。手動の氷かき器は右手で輪をまわしながら、氷をまわし、下へ落として器に盛ります。ぼくは、その氷かき器を扱うことができて、重宝がられました。数年後には電動の氷かき器が導入されて、手で回さなくても良いようになりました。当時は、かき氷一杯五円でした。駄菓子に包まれているぼくは、近所の年上の男子から、けっこういじめられていました。駄菓子を買えない男子が、駄菓子に包まれているぼくを、ねちねちといじめるのです。そういうこともあり、子供の頃の記憶は、ここにはいたくない、という意識に変わってきたのだと、思えます。

西陣の端っこ、狭い道路の四軒長屋、後ろはお土居、築山になっている地域です。織屋が多いなかの、その一軒が駄菓子屋で、子供たちの欲望を満たす場所でした。町内に紙芝居のおじさんがやってきます。見学賃五円、五円払ってお菓子をもらって、自転車の前に集まって、絵を見ながらおじさんの話を聞くのです。お喋り上手なおじさんの名前は石井さん。自転車の荷台に引出箱がありそのうえに額があり、額のなかには紙に書かれた絵が挟まれていて、その絵を見ながら話を聞くのです。子供たちはこずかいを、一日に五円しかもらえないから、紙芝居を見るか、駄菓子を買うか、子供たちは真剣に迷うのでした。そういうことでいえば、ぼくは恵まれていたと思います。まだ叔母さんと中二階で一緒に寝ていたころ、板のチョコレートを買ってもらったり、美味しいビスケットを買ってもらったりしました。少年雑誌を買ってもらっていました。少年とかぼくらとかの表題の男の子の月刊誌で、他には小学館の学年別の雑誌、学習研究社の四年の学習とか、これは学校であっせんしていて、買ってもらっていました。いやはやこういった小学生生活でした。

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好きになった女子の話しをしようと思います。五年生のときです。転校してきた女子が、とっても可愛かったのです。いつもよそ行きの服をきていて、雑誌に出てくる少女が、目の前に現れたかのようでした。好きになったからといって、好きだとは言えなくて、それほど会話もできません。ぼくのなかで、特別な存在になっているのです。十歳を越えた頃でしょうか、恋する心を意識しだして、生活のなかで性にまつわる知識を得たりしていくわけですが、そのことと好きになった少女とが、まったく関連していない。淡い初恋は小学二年生のころには芽生えていたけれど、淡さでいえば、かなり濃い淡さで、その女子と一緒に遊びたい、一緒にごはん食べたい、かなり現実の中に含んでしまうようでした。小学校を卒業したあとには、同じ中学校の中学生になるわけですが、クラスが別になったから、恋心が消えていて、別の女子を好きになります。中学生になるのは13歳、十三参りには父と弟とぼく、この三人で嵐山、渡月橋を渡っていったのを覚えています。

そのころ幻灯機というのがあって、映画の映写機のような、ボックスにレンズがついていて、ボックスには電灯を入れて、フィルムをボックスとレンズの間にはさんで、上から下へフィルムを巻きます。白い紙とか壁をスクリーンにして、フィルムの画像を投影する、幻灯機です。買ってもらったんだと思いますが、それを友だちの家へ持ち込んで、映写会なるものを催したのです。わいわい、密室にして、暗くしないといけないから、夜だったかも知れません。男の子と女の子、別にセクシュアルなことが起こるわけではないんですが、奇妙に興奮したのを覚えています。そのお家は広いお家だったので、かくれんぼして遊びます。隠れる場所は押し入れとか、荷物の裏側とか、見つけにいって、見つけると追いかけ、抱いてしまえば、鬼の捕虜になるということだったか、抱くのです。女子を抱く、抱きたい気持ちがあったから、抱いてキャッキャ声をあげて、よろこぶのでした。






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最新更新日 2021.8.24




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