表現論ブログ

自分のはなし
 1〜12 2021.4.26〜2021.10.25



自分のはなし、というカテゴリーをつくって、自分のことを書こうと思っています。自伝でもないし、思想でもないし、ごっちゃまでで文章を綴っていこうと思っているのです。意識して、話をずらすわけではないけれど、大体が口から出まかせで言葉を発し、文章にしていくタイプですね。良いのか悪いのか、書き出しからどんどん流れが変わっていって、別の話しになってしまうというのです。それでもいいからと思って、書いていこうと思っているところです。

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中学二年生になったころ、日記をつけようと思って、日記帳を買ってきて、書き始めたのがはじまりで、高校を卒業するころまで、何冊にもなるノートをつくりました。手元に残っているけど、読み返していないけど、たぶん、好きだったひとへの想いを書き連ねたのではないかと思っています。それから文通をすることになって、手紙をいっぱい書いた、恋文だったと思います、まだ手元に残っています。大学にはいったのは高校を卒業して三年が経っていて、文芸部だったか文学同好会だったか、クラブに入って雑誌に小説を発表していました。日記は書いていなくて、書くことは忘れてしまったかのような日々、カメラを買って、写真を撮るようになって、27歳ごろ、写真クラブにはいって、展覧会に写真を出すことになって、少しづつ有名になってきて、ひとり釜ヶ崎へ取材にはいったのです。1978年ごろです。釜ヶ崎取材を始めた時から大阪日記というタイトルで、日記文を書き出しています。この日記は映像情報という自分誌にタイプ打ちで載せていて、それからデジタルデータで、ホームページにも載せています。

まだ未公開の日記の類は、1995年ごろから2000年ごろに書いた、ノートがあります。毎日1ページ、喫茶店で書くという感じで、朝のひと時、喫茶店でコーヒーを飲みながら、殴り書きしたノート。それとは別に「革命ノート」と表題したノートは、ホームページにデジタルで載せてあります。ええ、自分にこだわっている自分がいるんです。自分が中心の自分のことです。そういえば中学生のころからの日記でも、自分のこと、自分からみる相手のこと、好きだとか愛してるとか、そんな言葉を書き連ねていたように思っています。小学生のころは江戸川乱歩とか、中学生になると青春小説とか、高校に入ると外国文学とか名著ですね、そういうのを読むようになりますが、衝撃的だったのは柴田翔さんの「されどわれらが日々」でした。文学、小説に目覚めたのは、このときです。それまでにも個人詩集を出したりしたけど、小説に魅力を感じたのです。高校三年生の夏休みのことでした。

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ずっと表現するということにこだわっていて、この表現する内容は、作り物であっても自分のことだと思っています。この自分のことだと思うようになったのは、最近のことです。意識して自分のことを書くというのです。主人公は自分でなくても、第三者として書くとしても、結局は自分の分身に他ならないと思うのです。表に出すのが恥ずかしい、と思う気持ちが多々あって、そこには触れないまま、曖昧にしている部分があります。ぼくは男子だから、女子のことに興味があります。興味の対象は、女子のことです。これがぼくの性癖です。男子が男子に興味を持つ、女子が女子に興味を持つ、同性のこと、このことは、ぼくにはありません。恋の対象としての相手です。最近はノーマルとかアブノーマルとかの言い方は禁句ではないかと思えますが、あえてこの区分でいえばノーマルそのものです。

森鴎外にイタセクスアリスという小説があるのですが、これ、自分の性癖を語っているのではないかと思います。小説を書くという行為が、自分のなかで言葉を紡ぎ出すのですが、それは自分の観念というか、理性であったり、感情であったり、それを組み合わせて形にしていくわけです。やっぱり自分、主観、客観とかいっても結局は主観に基づく解釈にしかすぎなくて、やばい、私小説になってしまう、でも、私小説、私って言葉を使うから私小説ではなくて、自分という頭脳のなかで組み立てられる構造だとしても、私、小説、なるものになるという解釈をします。夏目漱石に自分を扱うこと、私小説とはいわれない小説の枠で、やっぱり自分を扱っているように思う。自分と他者との関係というか、在り方、信義とか友情とか恋愛とか、他者との関係について、ああ、小説とは、そういう関係を構図化して描くものかもしれない。

自分のはなし、という表題にしているので、告白の文を書こうかと思案しているんですが、なかなかそうは出来ない自分がいて、それならばフィクション、つまり小説にしたらいいじゃない、と思うのですが、それだけ遠回りして自分の内面を描くには、もう体力と気力が衰退しはじめている、と自覚してきています。今年の3月ごろから、だから先月頃からですが、小説を書いていません。文章としては、わけわからないまま、いま、ここに書いているような、口から出まかせ的な文章を連ねているところです。本音、もう精子製造工場が閉鎖状態になりつつあって、そういうことからして性欲がイライラするほどなくなっていて、視ることでなんとか興奮するだけになってきています。年齢と共に減退していくのがわかります。サプリメントの広告が目につきますが買うことはしません。自然態で衰退していって死に至る、これが望ましいと、いまは率直に思っています。

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現在の表現の方向は、自分のことに向かっている、と思っているんです。私小説という方法が、そうかもう100年以上も前に花袋さんが蒲団という小説を書いたのが最初だったか、そういう方法がありましたが、そのままストレートにそうだとは言えないと思うけれど、そういう方向だろうと思えます。逆行してるのか、といえばそうではなくて、表現することの底流に、自分を暴露するという意識があるのだと思えます。自分の欲求として、自分の内面を暴露したいという欲求があることに気づいています。でもそれをストレートに出せないという意識が強くて、まわりくどく、結局、そこへは至れないまま、欲求不満になるというわけです。

自分とは何か、自分とは何者か、なんてことを命題にしてきたけれど、いま、この問いが無効になっているとは思えないけど、表からなだらかに沈んでしまっているなぁ、と思えます。こんなストイックなイメージではなくて、もっとセクシュアルに自分の感覚を表に出しているようにも思えます。自意識があって、その自意識をどのように表現するのか、ということ。最近ではスマートフォンで、そのアプリで、自分を着飾って表に出すことが、あたりまえになっていると思えます。こころの中の表現も、SNSのなかでは、ストレートに出せるようになっていると思えます。好き、好き、好き、この感覚をストレートに表現する。

ぼく自身でいえば、そんなストレートには表せられないなぁ、いろいろ理屈をかぶせて、自身のこころの内を表そうとしている。けっこう子供の時から、そういう屈折があったように思えます。精神は時代の産物とかいうけれど、そういう時代、1950年代の少年は、そういう社会風景からの感覚を受けていたのかも知れなくて、いま2020年代に至っているのかも知れない。自分で自分のことはわかりません。わかったつもりでもわかってないんだと思えます。人のふり見て我がふり直せ、自分が同年輩の男性を見て、自分も外見は同じなんだな、と思うようにしています。

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好き勝手に文章を書いて、憂さ晴らし、気持ち落ち込むのをストップさせる役割があると思うんです。それと、だれかに読んでもらえるかもしれないと思って、読む人のことを想定して、書いていきます。どうでもいいんです、年寄の戯言ですから。写真を一枚載せて、とりとめなく文章を書いて、前後の脈絡を無視して、文章がつながらない、むしろ繋がらないことを意識して、文筆家の文章ではないように、自由気儘に書いていくんです。そう中学生のころから、文章を書いていて、最初は日記、すきな子のことばかりを書いていたように思います。それから詩をかくようになったのが高校生でしょうか、次第に散文、小説を書きたいと思うようになりました。

ここ15年ほどアダルト系で小説を書いて、書いて、書きまくって、この春には書かなくなりました。うん、プルーストなんか意識して、西鶴なんか意識して、短編中編の組み合わせで、全体としてひとつの大河ドラマになるような、そういう構成で、何処から読んでも興奮させる、ええ、性的興奮をさせる文章を心がけてきたんです。性的倒錯というレベルを試みたり、それなりに下品文学を作ってきたと思っています。文学、小説とは何か、いろいろな言い方があるとは思いますが、どれにも当てはまらない、どれにでも当てはまる、脱文学的文学を日本語にて試みようと思っていました。

文章を書くには、時間が必要だけど、金が掛からないから、ちまちまと文章を書きます。ここ10年ほどはノートに鉛筆で書くということが無くて、パソコンの前で、ブログに文字を打ち込んで、かたまりにしています。ジャンル別に、テーマを決めて、ブログを作って連載して、それに見合うホームページを作って、載せて、全体を作ってきています。でも、なんというか、今の時代の最前線ではなくなって、SNSも試みましたけど、いまはSNSに直接写真と文を載せるのは、ツイッターだけです。ツイッターは、ひところ数千人のフォローを有していましたが、現在は四人だけ、実質三人、それだけの友、大切な友です。

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おもえば、いつも二番手が多かったなぁ、と思うんです。小学校のときの勉強の出来具合はクラスで二番目、中学では吹奏楽部で副部長でした。中学の吹奏楽で市中パレードのときは京都市内の中学が二組に分かれるんですが、ぼくは一組の指揮者で、学生服に指揮棒もって先頭ですが、もう一組の指揮者は軍隊張りの制服を着て、指揮棒を振るのを見て、かなんなぁ、おれってみすぼらしいわなぁ、と内心思っていたのでした。中二になって、女子を意識しだして、でも友達になった奴が先頭を走って、女子と仲良くなるのです。ぼくもそのグループにいたから、男子として二番手で、女子とつき合うのでした。そのうち、好きな女子が出来てきて、相手の女子もその気になっていたように思っていたけど、好きとは打ち明けなかったんです。

小学生の高学年あたりから、女子を意識するようになるじゃないですか。お気に入りの女子とたわいにたわむれながら、からだに触れたりするじゃないですか。性的な興奮ではなくて、でも何かしらの興奮を得ます。もうエッチな本を内緒で見たりするのが小学生の高学年。射精が始まるのもその頃でした。わけわからんままに射精するんですが、女子と性的に交わるということがわからなかったのです。おぼこいなぁ、といえばおぼこい時代です。でも、女子は小学校の高学年で性のことを教えられる。そのことを男子は知りません。女子がニヤニヤ、内緒内緒な感じで接してきて、ぼくには性欲はまだ意識しませんでした。中学生の二年でもまだ性交のことはイメージできても、具体的な行動はおこりませんでした。性欲が増してくるのは高校生になってからだったように思えます。

好きな女子は、小学生の頃は雑誌のアイドルが好きになるわけです。中学生になると具体的な目の前の女子を好きになります。好きになったからといって、手をつなぐわけでもないし、抱きあうわけではもちろんありません。中学三年の秋にフォークダンスをすることになって、これって男の輪と女の輪が、女子は内側、男子は外側、逆方向にまわって、相手が変わる。この時、初めて女子の手を握ったのです。思いだしますよ、生徒会でフォークダンス大会をする、といってもぼくにはピンときていませんでした。思春期ですね、やっぱり、好きな女子と巡りあう前にはドキドキしてくるのがわかります。ぼくは男子だから、女子が好きなわけで、だんだんと特定の女子が好きになっていくのでした。好きと言われた女子を好きになる。中学生の時は、そういう流れでした。

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いまもって自尊心が強いといえば、そうかもしれません。自分には、やればできるという自負心、それが自尊心につながるのかも知れません。18歳のとき、マルクスの資本論を少しだけ読みました。ほんの少しだけでしたが、著名な書籍で、日本語に訳した人がいるんだ、向坂逸郎というお方が訳された、岩波書店から出ていた資本論四冊のうちの最初に一冊でした。自尊心と自負心でいえば、マルクスという人間が書いたのだから、自分も書こうと思えば書けるんだ、とも思ったのです。別には、ベートーベンが音楽を作るけど、これには太刀打ちできないなぁ、と思いました。ぼく、ベートーベン、とあだ名で呼ばれていたんです。高校の時、ブラスバンドを立ち上げて、指揮していましたからだと思います。世間のことがわかってないなぁ、18歳ってそんな空想を、妄想を抱ける年齢でもあるんです。

でも、結局、そこそこには出来るけれど、それ以上にはできない能力だと、内心、自分では思っているんです。劣等感、激しくて、負けてたまるか、というのが原動力で、そういうエネルギーをもった自分だと思っています。知能指数は130だと中学のとき教えてもらいました。京大にいけるから頑張りなさい、と若山先生に言われて、このかたがんばっておれば京大卒で通せたんだと、思ってきています。もとから、がんばりやではなくて、さぼってばかり、好きなこと、興味を持ったことは、いけるとこまでいく性質ですが、勉強はしませんでした。受験勉強って奴をしたことが無くて、でも実質浪人一年間したけど、日本史に興味が出て、古代のところとか読み物風に歴史を勉強していました。歴史の点は予備校での実力テストでは、トップだったと自認しています。

こうして文章を書いていると、いろいろと思いだしてくるもんですね。好きな女子のことを書こうと思っていて、あっちこっち、とりとめなく、なすがままに、文章にしているんですが、これもひとに読んでもらえるような、つまり魅力ある文になってないんやろな、と思っています。自分でわかているんです、それほどキラキラ光る文体でもないし、読者を引き込むほどの魅力ある内容でもないし、そりゃ、ほんとうはもっと赤裸々な性行為の話しとか、書きたいと思うけれど、日本語でなお日本国で表記して発信することはできないのだから、そこそこ、いや、ここではあまり書きません。その方は、好きだから、昔の文章を読んでみたり、映像は無料の動画で、無修正を探して、見ます。いい時代です、つい以前まで、ぼかしが入れられて、ぼかされた映像しか見られなかったんですから。

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食べ物のイメージが多いのは、それだけ食べているからだと思っているのと、食べ物のイメージを載せるのは、本能に根ざした出来事の記録および記憶につながっているからです。食の領域も奥が深いです。人間の欲望と密接につながっています。素材があって、加工して、出来上がったものを写真に撮ります。自分で育てた野菜とかを素材にして料理したのを撮ればいいのですが、最近は栽培してないし、出来合いのものを撮ります。レストランや食堂や喫茶店で食べたモノを記録します。日付とかの情報は撮った時に記録されるので、デジタルは楽です。フィルムのときには、撮影日とか撮影データを別に記録していました。そういうことでいえば、デジタルが圧倒的にいい、とぼくは思っています。

もう15年も前になるのか、待望の農業に携わりだしました。農業者になるつもりはありませんでしたが、食の領域のことを知りたかったのです。文と写真を使って、作品に仕上げたい、これは本音のところでしたが、現場は京都農塾で3年間、いろいろと学び交流させていただきました。農の世界、自然の領域を肌に触れて体験できたことは、自分のための勉強になったと思います。陶芸と農業を還暦を迎えるころに始めたのです。頭を使うこととは別に、身体を使うことで、生命のバランスをとろうと思ったのです。陶芸は10年やりましたけど、初心者のところで、最後まで初心者でした。農業も理屈ばかりで農作業は初心者のままです。

少年だった頃のことをいっぱい思いだします。自分のはなしもその頃の自分の見聞したモノを振り返ってみて、記録にしておこうと思っています。興味は、内面のことで、性に向きあう自分というか、セックスのことについて記録しておきたいと思っているのです。これまでにも何度かチャレンジしてみようと思って、フィクションにしたりしましたが、本音のところではありませんね、作り話です。フィクションだからそれでいいのかもしれないし、書くということの内容が、表現されればそれはフィクションになってしまう。事実はあっても真実なんてないし、事実といってもほんの断片でしかないわけだから、やっぱりそれは物語なのです。

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どちらかというと女っぽいほいかなぁ、子供のころからそう思うことがありました。女々しいという言い方でいえば、男っぽいよりも女々しいほうに振り子は振れていたように思えます。そうやね、男の子の遊びもやりましたけど、女の子の遊びのほうが好きでしたね、たとえば、おじゃみとかですね、竹馬はやりましたけど、野球とか、いややったなぁ、それに女の子を好きになるのが異常なほどかなぁ、自分でどうしようもできなくて、ひとり悩むしかありませんでした。室生犀星に性に目覚める頃という小説があるんですが、ぼくが性に目覚めるのは、小学4年生あたりだったと思えます。中二階の四畳半の和室がぼくの部屋となっていて、叔母さんといっしょでしたけど、昼間はひとりでした。秘密の時間だったと言えます。

和箪笥の引き違い戸をひらくと、本が何冊かありました。10冊ほどあったかと思いますが、それは、奇譚クラブ、風俗草紙と書かれた月刊誌でした。挿絵と写真と文章で、読み物としての小説とか、絵物語とか、ええ?、なに?、これ?、貸本屋さんで単行本を借りてきたり、少年雑誌を購読して、学習雑誌を購読して、読書三昧の小学生でした。それに絵解きの性器図、性交図、医学書、これなんかも見て読みました。縛り絵には、とっても魅了されていました。これを性癖というのなら、後期高齢者のいまに至るまで、継続している性癖だと思います。それほど早熟ではありません、むしろオクテのほう、性に目覚めるのは遅かったのかも知れません。だって、性交するなんて、想像の埒外で、女子を好きになっても性交したいなんて、高校三年生になるころまで、思えませんでした。

性交体験は、二十歳以降、結婚する相手以外、だれともありません。疑似体験は、本読んだり、映画見たりして、射精してしまうというのは、人並みにあったと思いますが、性交体験は、妻になる人以外ありません。なにか、この話をするとなると、経験の数で競うとぼくなんか、どうしようもなく正常で、真面で、あったと思います。妻以外、手を握り合ったことも無い、なんと甲斐性がないと言われる時代の模範生だと思います。でも、内面は、人間、本性をあかせば、多寡はあると思うけど、だれでも性欲はあると思っていいのではないかと思います。ぼくは、旺盛なほうだったのではないか、いたって健康体だと思います。その後、その種の本やビデオは、一時期、買い求めてコレクションするほどでした。なにかしら、今日の自分のはなしは、性にまつわる話で、初めて、明るみに出しておこうと思ったのでした。

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その後、その家族がどうなされたのか、わからないのだけれど、タエ子は18歳で亡くなりました。死を知ったのは新聞記事で、琵琶湖で水難事故に遭ったという女子の名前をみて、タエ子だとわかったのです。ぼくは、お通夜にも、お葬式にもいきませんでした。死んだという知らせは、誰からもありませんでした。だれも、ぼくとタエ子の関係なんて知っているヒトはいない筈だからです。中学を卒業して、タエ子は近くの電機工場へ就職していきました。ぼくは高校生になっていました。中学三年生のいつだったか、タエ子から恋文ではなかたとおもうけれど、そうだ、家へ直接訪ねてきたのでした。小学校は違ったけれど、家から家へ歩いて五分ほどのところです。ぼくはどうしたことか、タエ子の家へ遊びに行くことになりました。どういう経緯で遊びに行くようになったのかは、ちょっと思いだせないけれど、夏休み、ぼくは衣笠市場の八百屋へアルバイトに行った、そのなか、夜に遊びに行ったのを覚えています。

女の姉妹三人で、タエ子はその真ん中の子で、お姉さんがいて妹がいました。まあ、真夏の夜、まだクーラーなんてない時代だし、衣類は薄着です。お姉さんは、白いシュミーズに白いズロース、タエ子は流行りのムームーに白いズロース、妹はシャツにショートパンツ姿でした。お母さんは、専業主婦ではなくて、たぶん、どこかへ手伝いの仕事にでかけていました。男子が三姉妹のなかにいるので、お母さんからけこうな歓待をうけました。ぼくは賢い子、お母さんはそのように思っていて、ぼくが高校三年の時には、家庭教師の口を二つ持ってきてくれて、教えにいきました。一人は小学三年生だったかの女子、島原商店街のなかの衣料品店の子、一人は中学三年生で高校受験を控えた男子、近所の家の子でした。そのときには、まだ、タエ子は生きていて、でも、顔を会わすことはなかったと思います。

ムームーを着たタエ子は、からだが丸見えになって、覗き込むまでもなく膨らんだ未完塾の乳房が見えました。白いズロースも見えました。情欲?、そこまでのことはなかったとおもうけれど、すでに中学三年生、性に目覚めていた頃だから、女子のからだには興味津々でしたけど。少しはじゃれあった気がします。からだを触れさせるということは、していなかったと思うけれど、手に手が振れたことは、記憶に残っています。たえ子のほうがもう半大人だったと、いま思いだすとそのように思えます。たえ子のほうが、ぼくに惚れていて、上目遣いに、ぼくの顔を見ていたのを思いだします。その後、タエ子が務めた電機工場はいまもあって、そのまえにいくとタエ子のことを思い出します。ムームーを着た、乳房が見えた、その中学三年の女子、タエ子の姿をです。

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過ぎ去ったことを思い出して、ああでもなかった、こうでもなかった、というのは、生きている証としての記憶を思い起こすことで、人間の人間たる証だとする、なんだかぐるぐるまわりの、トリックみたいな話です。でも、生きてきて、経験して、体験したことを、文章にしておくと言うのは、これ、文学の始まりなわけで、文学とは、私小説ってのかありますけど、結局は私を表現することで、その表面は作り話、フィクションにするのです。事実に基づいて、とか、資料を駆使して、とかあたかも事実であるというふうに装って、フィクションする、虚構、するわけです。でないと、それ、本心だと思われると恥ずかしいじゃないですか、だから、色付けして、カモフラージュするわけです。

10代の終わりごろ、いまでいうアダルト映画の現場で仕事ができたらいいやろなぁ、と思っていたことがありました。早稲田の演劇といえば、それなりに価値ある場所だと思っていて、そこめざして受験したんです。いや、すべりました、どうしようもなく、桜散ってしまいました。大学受験って、けっこうバカにしていて、受けたら受かる程度に思っていて、早稲田大学の文学部へ願書提出して、試験に臨みました。高校卒業して二年間働いて一年間浪人して、そして受験したけれど、あっけなく桜散ってしまいました。ひとつだけ受かった大学があって、そこへ入学いたしました。立命館大学文学部人文学科、夜間のコースで働きながら学ぶコースです。でも、定職で働いている奴、そんなにいなかった。

無謀なことを無謀とも思わずにやってしまう、世間知らずといえばいいのか、そういうところがありまして、常識から外れた処を徘徊することになる人生です。高校一年になって、同じクラスになった女子を好きになって、たぶん夏休み前に好きになって、夏休み中、その女子のことばかり思っていた記憶があります。寒くなってきて、たぶん、告白したんだと思います、夜の嵐電鳴滝駅で待ち合わせして、夜道を二人して歩いたのです。ちづ子という名前、うどんの出前の途中で、逢引きした、というわけで、そんなに長い時間ではなくて、ちづ子が折り返しの電車に乗るまでの時間、まあ、10分くらいの時間だったと思います。ぼくは単車で夜道を清滝駅までいきました。このことのはなしは、なんども繰り返し書いていきます。

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自分の頭の中では、いつも何かを考え思っているんですけど、あんまり覚えていなくて、目の前に映った風景も意識することも少なく、いいかげんに時を過ごしているんですね。ところが、集中して見ることもあって、それは自分の興味に拠ってるんやろなぁ、と思います。子供のときから電車に乗るのが好きで、まどから外の風景を見るのが好きで、目を閉じてしまうことがもったいない気持ちですね。最近なら京都金沢間を特急に乗るんですが、ほぼ眠らず、スマホ見る、本を見るわけでもなく、窓の外を見ています。カメラを持っているとき、電車に遭遇すると、カメラを構えて、撮影します。このまえ、奈良の西ノ京に天皇陵を見にいきました。奈良西大寺から橿原神宮方面へ向かう近鉄の窓から。いつも天皇陵が見えるから、現地へ行ったというわけです。

嵐電の鳴滝駅は、思い出深い駅です。その後も、写真に撮ったりしますけど、その出来事は自分の胸の内に残っているだけです。16才、もう寒かったから秋か、冬か、好きな女子との逢引き、時間は暮れてしまった夜、10分だけのことです。女子の名前はちづ子といいました。おうどん屋さんの娘で、出前の途中に会うのでした。そのタイミングは、もう、定かでないけど、電話がかかってきて、ぼくは50CC原チャリで山越え鳴滝へ、ちづ子は電車に乗っておうどんを配達しているのでした。初恋、ほんとうの初恋は、このちづ子になります。おおげさにいえばぼくの生涯を決定づける因子を持っていた。仲をとりもってくれた女子がいて、本人を好きになってはいけない、という。ちづ子も手紙をくれていて、自分を好きにならないでというのでした。これは、辛かった、大晦日の夜、おうどんやさんの店内をみたら、ちづ子がいて、招きいれてもらって、おうどんを食べんさせてくれた、大晦日、自転車に乗って夜の街を徘徊していた。

高校二年生になって、クラスも別になり会うこともなくなります。学年当初には受験のための勉強で猛烈なプログラムを組みました。受験勉強に没頭しだしたころに吹奏楽部を作らへんかという誘いが、音楽部からあって、それに乗った。夏の高校野球の応援を、ブラスバンド入れてやりたい。けっきょく半年間、秋の文化祭まで、吹奏楽部に没頭するわけです。こまかいことは別途にしますが、ちづ子のことは気持ちの中で薄れてきていました。11月に南九州への修学旅行があって、ちづ子と同じになっていたのです。声を掛けそうになって、声を掛けて、おたがいに確認しあったけれど、どうしようもない関係はそのままでした、好きなお兄ちゃんがいるの、と相手がいることをいい、まあ、ぼくは、子供でしかないわけで、心に秘めたまま、吹奏楽を後輩に譲り、文芸部の男女と知りあって、行動を共にするようになりました。受験をあきらめたのは三年生の秋、音楽関係で、十字屋楽器店の技術部に入れてもらえたのでした。

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ぼくが生きてる時間のなかで、もう遠い遠い昔のはなしをするといっても70数年前の記憶を呼び起こしてきて、あんなことあった、こんなことあった、と記述していくことですが、これがいったい、誰のために何の役に立つのか、ということです。ぼく自身のことに興味を持たれた方が、本人が書いたもの、ということでぼくを知る参考になればいいと思うのです。でも無名なぼくが、誰かにぼくのことを知ってほしいと思っても、ほんとうはそう思っているんですが、そんなことはありえなくて、結局、自分のために、自分の記憶を明確にして、残しているというにしかすぎません。昭和になって私小説が深化してしていって、究極、心境を書くというところに至ったと思うのですが、でお、そこに、自分を見つめるという視点が確立してくるのではないかと思うんです。

なんだか文字を連ねる、それを読む、自分にというより、他の人に読んでもらうとゆうとき、よっぽど面白い興味ひく内容でないと読んでもらえない。というより、ネットの時代には、文章は主流ではなく、むしろ映像であり写真が主流だといいます。そのことわかっていて、文章を書くということは、他人様をばかにした行為なのかも知れないです。もう50年以上もまえのことですが、文章作法というか、小説の文体の作り方をああでもないこうでもないと、書いては消し、書いては消し、推敲に推敲をかさねて、結局、硬い文章になってしまった、という記憶があります。最近、また、文章を書くのに、いろいろ推敲する傾向があり、文章が読みにくくなっているような気がします。いずれにしても、文章を書くということ自体が、ネット展開のなかでは、もう通用しない方法なんでしょうね。

自分をどこまでフィクションしないで、あたかも事実であったかのように描けるか、というのが課題だと思っています。アダルトに区分するかしないかで、当然、描く場面の描写が違ってくるわけで、と自分で思っていて、官能をベースにした描写、なお使う単語もそれなりに官能を助長させれるような単語をちりばめる、ということにして、アダルトに区分しないで一般で書くとき、これは年齢制限を設けないフィクションなので、まあ、恋愛小説とか、あるこころを扱ってみたりしながら、書き進めていくのです。でも、結局、アダルトの方に突っ込んでいかないと面白みがなくなる、というようなわけで、アダルト領域の小説として書き連ねてきたということです。




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最新更新日 2021.11.17




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