なかなか先のことは読みにくいことですが、人の心が開放される方にいってほしいです。
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西暦2021年、ぼくの生まれは西暦1946年だから、まもなく75歳になります。
この75という数字が、自分では信じられない数字に見えるけれど、事実です。
けっこう最近、区切りの年かなぁ、と思うことがあります。
もう、新しいことを提案しても、実践する体力がない、と思えてしまうのです。
デジタルの時代だから、デジタルで交信する方法を模索すればいいのだ。
そう思っても、理屈はわかっても、デジタル運用が、具体的にわからない。
ネットの中で交流を深めれば、あるいは作家活動やれば、とかいろいろ思います。
でも、対面で会話しながらの交流の場を、気持ちとして必要としています。
ネットで生活費を稼ぐ、ということもできる時代です。
小説も、映像も、写真はどうかな、ネットで収入を得ることができる時代です。
でも、それは、もう、面倒くさくて、いまさらスキルを得る気持ちになれません。
だから、ちまちま、好きなところ、出来るところで、自己満足するしかないです。
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ぼくが生まれてから小学校に行くときまで、住んでいた場所です。
すっかり建物とか変わっていて、その面影は、この歩道かなぁ、です。
でも、電柱の場所が、少し向こうへ移動している気がします。
住所は壬生馬場町、今日、ここを起点に、六角獄舎を探して歩きました。
カメラ、要所要所でシャッターを切りながら、結局、神泉苑まで歩きました。
まだ幼児だったころの記憶をよみがえらせながら、羊水のなかに戻る感覚です。
結局、最近の写真を撮る根拠といえば、記憶を遡っていて、記憶の場所を撮る。
このことが多くなって、そのポイントに立ってみると、記憶がよみがえります。
自分の内側へ思いをはせると、生きた証としての記憶のポイントが見えます。
その見えた場所を、訪れていくのだけれど、写真の光景は他者には意味をなさない。
その整合性を、どこに求めていくか、これが今後の写真を撮る、思考の拠点かな。
記録性、ということに、あらためて注目してもいいかなぁ、と思うところです。
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暗いイメージばっかりなので、ここでパ〜っと明るいイメージをつくります。
チューリップが咲いていたので撮って、明るく改ざんしたらイメージが変わりました。
化粧にしてもファッションにしても、外見を改ざんすることで、見た目が良くなります。
これでいのだ、これからは、これでいいのだ、と思うようにして、中味は問いません。
明るい未来に向けて、なんて気恥ずかしくて、堂々とはいえないんですけど。
好きなこと、取り組んでいること、表向きと裏向きがあるんですね。
好きなこととは裏向きのほうで、表向きはあまり興味がわきません。
でも裏向きといっても悪徳じゃなくて、人間の生存本質の善意のところです。
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いまはコロナ禍で何もかも自粛していますけど、このあとどうする。
自分に対してです、他人様のことではありません、自分はどうするか。
新しい枠組みを考えて、なんてこと言っても、現状認識をしないといけない。
ここ五年ほど、あの手この手で広報して、がんばってきたけど、成果なし。
でも、何人かの賛同者を得たから、これでいいのかも知れません。
写真を教えてほしいという方がいらして、ぼくも勉強しているところです。
これまでの枠では、いまからこれからに対応していないと思っています。
だから、デジタルのカメラでできること、それにSNS時代の表現について。
たぶん、新しい人たちは、デジタル&SNS、これがキーワードだと思います。
だから、この線に沿って、学びの枠をつくっていかないといけない、です。