紆余曲折、書きなおされ、この全集に収録された形になっているのか。
現代表現研究の枠で-1-

写真をめぐる話をしてみようと思うのですが、久しぶりに、その気になってきています。というのも昨夜から今朝にかけて、インターメディウムインスティチュート(IMI)を修了したメンバーから、メッセンジャーで案内が届いたのです。秋丸さんが執筆された本が、アマゾンに出ているというのか、その著書の案内をいただいたのです。ぼくは、アマゾンの会員になっていなくて、最近にはアマゾンのアカウント云々とのメッセージが来ていて、たぶん迷惑メールだろうと思って、無視していたから、アマゾンへは行けないな、と思って購読を残念しました。
それとは別に勝又さんが、タカザワケンジさんディレクターのIGフォトギャラリーで展覧会をする、という案内がありました。勝又さんのいもうとさんがお亡くなりになった、というところからの奥深い話を、朝一番に読んでしまって、ぼく自身かなりショックを受けたのです。ショックとしか言いようがなくて、それ以上の言葉が紡げないところです。現代表現の先端を行ってる、とかねがねから思っている勝又さんの作品で、非常にプライベートな部分での作品展開になる感じで、そういうことでいうと、まさに現代表現、そのものだと思うのです。
写真作品の内容や構成や枠組み全体のことを考察していかないといけないところですが、いまは、外観だけを見ています。載せた写真は、このまえ豊中のギャラリー176で、金村修さんの写真展があったときのトークで、ここに勝又さん、金村さん、小松さんがいらっしゃったのです。このギャラリー176の運営オーナーは友長さんでIMIを修了されたメンバーです。枠組みとしては、IMIがかなり底流になっている気がしてきます。あれらから20年近くの年月が過ぎていて、それぞれのメンバーがアートシーンの潮流を創りつつあるあると思うのです。その流れ+でタカザワさんとか金村さんとか小松さんなどが、現代のアートシーン、フォトシーンを創ってきている感触なのです。
荘厳ミサ曲

先ほどFBで、誰かが第九の演奏会は沢山あるのに、荘厳ミサ曲の演奏会は余りないと書いていた。
ぼくはコンサートホールでの演奏会に行くことは少ないけれど、聴くのはもっぱらパソコンです。
ステレオ装置で、レコードで聴いた、後年にはCDで聴いた、最近ではパソコンで聴きます。
ええ、荘厳ミサ曲は、厳かな気分になれる気がして、祈る気持ちで聴きます。
いいえ、聴いていると祈りたくなる、心が泣けてくる、生きてることが浄化される感じです。
宗教の領域といえばいいのか、芸術表現の場所として、そういう荘厳な場所にふさわしい。
万葉の時代、防人が詠む句には、恋人を想う気持ちを込めた句が多いといわれています。
人を恋する気持ちというのが、表現の原点になるのかも知れない、原風景かもしれない。
荘厳ミサ曲の詩句の意味は、ぼくにはわからないけれど、旋律が胸を打ってきます。
第九の合唱にも通じるのだと思うけれど、宗教儀礼に視覚聴覚が包まれると、感動です。
いやはや、感動する枠組みが宗教儀礼なのかも知れない、とすると究極表現は此処かなぁ。
なんかわけわからなくなってきていて、感じること、これに言葉をつけることが無理なのか。
なにもそんなに難しく考えなくてもいいのかも知れませんね。
言葉で連ねる時代は終わって、いまや感覚で感じる、空気の振動を身体で感じる。
けっこう直接的なところで感じていくのが、現代なのかも知れない。
ということは現代の表現は、感覚が前面で、言葉なんかで紡げない、こういう方法もある。
静謐に感じさせられるか、色艶に感じさせられるか、対極の二つが、表現の根底ですかね。
静謐な神と色艶なエロスを、両方は無理で、どちらかを表に現わす、それで対極を感じさせる。
表現の彷徨-5-

美しいモノは美しい、この桜の花は美しい、とぼくは思うのです。
美しいというイメージについて、何を持って美しいとするのか、ですね。
心がふるえる感じを受ける、そんなモノについて、美しい、と表現しようと思う。
ナマな感覚で、生きている感触、いいなぁと憧れる対象物(相手)が美しい。
現代の表現、その中心となる領域は、この「美しい」が主流ではないかと思うのです。
理や知ではなくて、たしかに「我思う故に我あり」論もいいけれど、この時代は終わりました。
いや、文学や美術や映像の表現としてのことで、理や知を否定するものでは全くなしです。
表現されるモノと作者である自分との関係、距離感というか、位置関係のことです。
ぼくの内容がまったく正しいなんて思っていませんが、ぼくはぼくの正解なのです。
プライベートな、肉体と精神、この関係からくる文章であったり画像であったり、です。
-6-
プリクラが20年ぶりにバージョンアップするとのニュース報道がありました。
ボックスにはいって、写真を撮る、自撮りではなくて、自分を撮る、そのボックスです。
一世を風靡したプリクラです。
女子中学生や女子高生、女子の大学生までが友だちとポーズをつけて撮っていました。
それのバージョンアップということで、動画が撮れる、静止画をまとめて動画にしてくれる。
それを自分のスマホに転送してくれるサービスです。
スマホを使って、自分たちを撮る自撮り、が流行っています。
写真に登場する人物は、自分です。
素のままの自分の顔ではなくて、いろいろにアレンジできて美女に変身です。
時代の流れのなかで、撮られる写真の被写体が、プライベートになっています。
それから通信機能が向上して、画像は静止画から動画になってきています。
チャットがテレビ会話になってきて、ますます簡便に使えるようになるはずです。
これまであった方法で、写真を撮り、紙にコピーして展示する、という写真展です。
絵画のサロンをまねて、写真のサロンを開催したフィルム時代の産物、写真展です。
デジタルになっても同じ方法で写真展が開催される一方、ネット上に展示される。
ネットで展示して鑑賞するという方法は、ある意味、展示写真展より下位にあります。
しかし、一方で、プリクラがあり、インスタ映えがあり、いよいよ動画の時代なのです。
ニーズは、新しい方にむけて、発車して、そのうち全盛を迎えることになる、ですね。
-7-

阿弥陀堂のなかにはいって、正面に座ると、目の前に救いのイメージが出現します。
救いのイメージとは、救済、慈悲、宗教の領域、それは仏教で、浄土の光景なのかも知れない。
阿弥陀堂には、救いの手、救われる手、救われる空間があって、人は救われに行くのです。
この世に、宗教の領域があって、経済の領域があって、芸術の領域がある。
様々な潮流があって、人間を捉えるとらえ方が、時代とともに変化していると思えます。
ぼくは、この救済する、救済される、という関係イメージに、表現の内容を置いてみたいのです。
何のために表現するのか、と問えば、欲求を満たすため、という答えが返ってきます。
確定的に答えを返して、その欲求とは何か、と問うところです。
欲求とは「満たされる」ことを求めることだとすると、生存の基本条件を満たすことが底辺です。
健康でありたい、美味しいものを食べたい、愛を交感して結ばれたい、安眠、安定、これですね。
この基本条件を満たすために、世の中、けっこう複雑に絡まって、目の前に見えてくる。
表現、この波間に漂いながら、満たされる方へと求めていくことだと、思えます。
-8-

<食べ物>
なんとなんと食べ物の写真を撮ってはブログに載せて雑文を書いています。食べ物ってある種魔物ですが、現在のネットにおいては話題として健全の域にあります。エログロナンセンス、そういう範疇ではなくて、食は生きることの基本にかかわることだから、関心事です。食欲、テレビの番組でも食にまつわる話題は豊富だし、これで犯罪になるわけではなく、健全なわけです。これなんか、天丼ですが、まあ、天丼を食べる店というのは和風の店で、パン粉をつけて揚げるとカツになり洋風の店です。食べ物の話は、うんざりするくらい、いっぱい巷にあふれています。でも、本当は、そういうのを求めているのではなく、もっと隠れたところへの興味だと思うんです。
再録ですが、
何のために表現するのか、と問えば、欲求を満たすため、という答えが返ってきます。
確定的に答えを返して、その欲求とは何か、と問うところです。
欲求とは「満たされる」ことを求めることだとすると、生存の基本条件を満たすことが底辺です。
健康でありたい、美味しいものを食べたい、愛を交感して結ばれたい、安眠、安定、これですね。
この基本条件を満たすために、世の中、けっこう複雑に絡まって、目の前に見えてくる。
表現、この波間に漂いながら、満たされる方へと求めていくことだと、思えます。
-9-
なにが正しいのかわかりませんが、ニコンのアルバムを解消しました。
もう十年ほど前から作っていた写真アルバムの写真そのものが、古くなったから。
キャノンのアルバム、ニコンのアルバム、フォト蔵アルバム、いったん反故にします。
だいぶん迷ったんですが、新たに、組み直した方がいいなぁ、との思いです。
膨大に時間を注いできたアルバム作成でしたが、それはそれでいいかと思うところです。
手元から、書籍類が無くなってきて、残すは少しだけ、アンナさんの手元へいくところ。
断捨離というけれど、いつまで生きれるかわからないから、困惑するんですね。
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彷徨という漢字の意味を引いてみたら「さまよう」とありました。
「表現の彷徨」というシリーズで、さまよえるにっぽん人、を演じています。
音楽の楽曲で「さまよえるオランダ人」というのがありますが、それの自分編。
年取るとともに、考えが確定してくるというより、揺らいできます。
おぼろげ、さまよい、若いころにはなかったそんなふわふわ感です。
表現物としては写真をメインにしていて、表現の基底が確定してきません。
そんなもんかも知れませんが、なにか確固とした思想が、あるのではないか。
そんな確固とした思想なんてあるわけなくて、いつも流動的なものだ。
表現することとは、一筋縄では括れない、いっぱいあるんだと考える。
でも自分ができることは、自分の方法でしかなくて、いたって単純です。
その単純さが、じつはそうではなくて、もっと複雑なのだと言えそうです。
もうハチャメチャ、迷宮入りしてしまいそう、わけわからん、です。
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さまようと書いて、変換したら、彷徨う、と変換されました。
彷徨う、音読みで言えば、ほうこう、なんだけど、最近はこんな言葉使わないかなぁ。
太宰を読んでいたころだから、もう半世紀も前ですが、虚構の彷徨、なって小説があった。
虚構ってのは作り話で、ぼくは小説といっているけど、ぼくのはリアルロマンノベルです。
リアルにロマンを加味したノベル、まあ、日本の区分では、官能小説と呼んでいるかな。
もっと地下文学みたいなイメージで、ロマンポルノをこえるポルノにしたいと思う。
谷崎潤一郎とか永井荷風とかほど艶やかな文体ではないけれど、まあ、現代小説かなぁ。
デジタルの時代だから、パソコンのブログに書きあげて、ホームページにて出版です。