非デジタル写真への回帰が最近の傾向として顕著になってきています。
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<写真のはなし>というカテゴリーを作って、そこにこの記事を保存します。
はなしの内容で<花の写真>について思うところ書いてみます。
花は、いうまでもなく植物が生殖に使う処のモノです。
この花をテーマにして、写真を撮っていた時期がありました。
最近でも身近な所で咲く花を見かけたら撮っています。
写真は、目に見えるように、風情あるようにとか、ダイレクトにとか。
感情を交えて見てもらえるようにと、あれこれ細工します。
花そのものは細工しませんが、画面の中の在り方については、細工します。
そもそも、写真のテーマとして、なぜ花なのか、ということを問いかけます。
言葉で語る物語を背景にした象徴としての<花>なんてフレーズが思い浮かびます。
日本の文化の中の<花を愛でる>という言葉と感覚、感情、これを共有したい。
撮り方いろいろ、いっぱいありますね、それにテーマとしてポピュラーです。
植物園へ写真を撮りに行くことがままあります。
造られた庭園、ということがあって、あまり撮る気はしなかったのですが。
文化を背景にして、というより感情に、そのもの、情に訴えて、感じてもらう。
写真を撮るということは、他人様に見てもらうことが前提ですから。
その原点には、ぼくが感動する、ということがあります。
感動してもそれ以上何も起こりませんが、感動する相手が人ならば、恋するでしょうね。
花に恋しても空しい限りなので、花は見てあげて、撮ってあげて、人に見せてあげる。
目の前にある花を、理屈つけてとやかくいうより、綺麗だろ、可愛いだろ、と感覚で。
感覚の共有で、いいのではないか、これが、共有する入り口です。
でも作家としての立場をいうなら、ぼくなら社会的背景の中に花が咲いてる、という。
この社会的背景、人間の感情や考えを作られる立場から、作る立場になる、ということ。
ぼくは、やっぱり、そういう論理的背景を持って写真を提示せなあかん、と思うわけ。
そういっても、それは、なかなか、でけてへんけど、したいな、と思うところです。
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先日、ギャラリー176で、金村修さんの個展を見、勝又さんとの対談を聞きました。
写真とはなにか、みたいな設問で考えてきた自分として、けっこう挑発を受けました。
もう三年近くまえになりますが、挑発する写真史、という本を買いました。
ほとんど読まずに書架に入れていたのですが、今日、ぱらぱらと読んでみました。
ぼくらの世代とそれ以前の作家たちが、この対話の話題の中心のように思えました。
写真史を知る、知識として知り、自分の作品作りに、参照する、という態度が求められる。
批評家などは作家以上に広い観点から、総論を知る必要を求められる。
そうなんですよね、世代によって、これは認識の構造が違うと思いますが、今をとらえる。
歴史を紐解きながら、今の作家活動に、どう生かしていくのか、これが問われるところです。
京都で研究所を主宰しているけど、なかなか、ここにまで共有できる資質がない感じです。
写真で表現する、という表現方法が、幾多にもあったし、現実にいまもあります。
どういう写真の方法が正しいのか、という議論はナンセンスで、幾多にあっても可です。
自分が、自分の拠って起つ立場を、明確にしていく必要があるだろうと、思うのです。
時流に乗るとか、名声を求めて画策するとか、うわべからではなくて、自分のための本質。
これを求めていくのですが、自分の感覚が、時代をつくる潮流と共存しているか、でしょうか。