ものがたりブログ

ものがたり-3-
 15〜22 2021.12.23〜2021.1.11

 

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中学生になって、吹奏楽部に入部して、物理科学部にも入部して、クラスの図書委員になりました。吹奏楽部ではクラリネットを奏するようになり、最初は音が出なかったのが、次第に音が出るようになりました。音楽に魅了されていましたから、吹奏楽部での活動は、とっても楽しいことでした。その当時、木管楽器を奏するのは、女子と相場が決まっていて、そのなかで学年にひとり男子が混じる、ということだったのかも知れません。ピッコロ、フルート、クラリネット、サキソフォーン、いずれも女子で、クラリネットは二人のうちひとり、ぼくだけが男子でした。一年上の先輩に梅田さん、二年先輩に郡山さん、いずれも男子でしたが、梅田さんが手に取るように教えてくださって、吹けるようになりました。ブラスコンサートが何処かの会館で開催されると、寺本先生に引率されて、聴きにいきます。大阪は朝日新聞社のフェスティバルホールへも行きました。この流れでいうと、三年生になったころから、市中パレードの先頭がブラスバンド、ということになってきて、その先頭の指揮者を、ぼくが指名されたのです。学生服にズック靴すがた、学生帽をかぶっていて、手には指揮棒、それにホイッスル、笛です。

物理科学部は、小学生のときから物理系に興味を持っていて、ラジオの制作とかアマチュア無線とか、そういうことができるクラブがここでした。吹奏楽に傾斜していったから、あまり熱心に活動する方ではありませんでしたが、文化祭の時には、電波を飛ばして、無線です、校舎から運動場の端まで、ワイヤレス、一年上の男子たちが主体になってやっていたので、ぼくはそのまわりでうろちょろしていただけでしたが、興奮しました。図書委員はクラスから選出されて委員となります。土曜日の放課後が、図書の貸し出しができる曜日と決まっていて、土曜日にはその受付をすることになります。先輩に佐伯さんという女子がおられて、いろいろと教わります。お姉さんという感じで、なにやら慕う感じで、一緒にいることが嬉しい気持ちでした。でも図書委員は一年生の時だけでした。吹奏楽部にまつわる話でいうと、市中パレードでは花形ですし、学校内においても運動会の時には、パレードするわけで、本番前から運動場で練習します。その練習風景を見ている生徒もたくさんいて、そのなかのひとりに、タエ子という名の女生徒がいたのです。

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タエ子がぼくの家へ訪ねてきました。季節がいつだったか、覚えていませんが、まだ春の頃だったようにも推定できます。家へ遊びにきてください、という話しをしてきたので、女子の言うことだからと、たぶん、ぼくは、タエ子に連れられて家へ行ったのだと思います。女子の家へ行くのはもちろん初めてのことだし、家へいくとお母さんがいらして、歓待していただけたように思います。中学三年生の夏休み、ぼくは近くの市場の八百屋へアルバイトに行くことになりました。日給300円、朝8時ごろから夕方6時ごろまで、朝には子芋の皮むき、それから店番の補助、午後には配達、けっこうめいっぱい働いたと思います。アルバイトが終わって、それからタエ子の家へ遊びにいきます。お母さんと姉妹が三人。たえ子は真ん中、中学三年生です。お姉さんはもう働きに出ていて、妹さんは中学一年生でした。たわいない会話の中に入れてもらって、女たちの習性というか、目の前に肌がいっぱい見える家の中の女たちを、見せてもらっていたのです。

お姉さんは白いシュミーズにズロース姿で、お母さんがぼくがいるんだから、ちゃんとしなさい、というのに、暑いんやから、かまへん、と言って、白いシュミーズとズロースの肢体で、ぼくの前に座っています。タエ子は、ムームーにズロース、妹は、ショートパンツにシャツ姿です。家の中だからか、ブラジャーはつけていませんでした。お母さんは、ぼくをいい目でみてくれていて、賢い子、だと思ってもらったのかと思います。後にぼくが高校三年生の時には、家庭教師の口を二回にわたって紹介してもらいました。タエ子は、気が強い子だったのかも知れません。二十歳になる前に水難事故で亡くなってしまうのですが、ぼくが好きで、いろいろとちょっかいを出してきていたのです。まだ生理がこないのだといっていました。ムームーの首筋から覗くと、ふくらみはじめた乳房が見えます。白いズロースにムームーだけの女体を、ぼくは意識していました。それだけのことですが、なにかの拍子に手を握ってしまうことがありました。タエ子の表情が一瞬変化したのを覚えています。タエ子は、ぼくを男だと思って見ていたのです、恋する男、そこでぼくも恋していたように思います。

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タエ子のことを思い出すと、中学校の校庭で、吹奏楽部のパレード練習をしているときに、運動場の隅に立って眺めていた女子として思い出します。これが記憶の最初で、その時には、まだその女子の名前も知りませんでした。家へ訪ねてきました。すべてに積極的だったのかどうかはわかりませんが、自分アピールのために、好きになった男子の家を訪ねてくるというのは、初めてでその後においても最初の最後です。メモみたいなラブレターを持ってきたのです。家へ遊びに来てほしい、ということで、遊びに行くことになります。タエ子の家族のことは前段で書いているので重複になるところもありますが、あらためて書いておきます。お父さんは千本今出川にあった寿司寅の寿司を握る板前です。寿司寅の大将の奥さんが、タエ子のお母さんと姉妹で、お母さんがお姉さんです。ぼくが寿司寅へアルバイトに行くのは高校一年生の秋ですから、タエ子の家へ遊びに行ってから一年以上が経っていました。タエ子から、寿司寅のことを聞いていたので、店先にアルバイト募集の張り紙を見て応募したのでした。タエ子は中学卒業後、高校へは行かず、近所の電機製作所の従業員として働くことになりました。中学を卒業で、タエ子との関係は終わっていました。

タエ子の家へよく行きましたけど、タエ子がぼくの家へ来ることもままありました。ぼくの家へ来て、中二階の四畳半の部屋で、なにをしていたのか、女子を意識していたけれど、抱きあうという気持ちは、あったと思うけれど、抱きあうことはありませんでした。なにかの拍子に、手を握ってしまったことがあって、タエ子の表情が一瞬引き攣ったのです。ドキッとしたのを思い出します。男と女のすることを、想定できないこともなかったと思えますが、そういうことはありませんでした。タエ子は女子で、まだ生理がこないといいながら、おませな女子でしたから、ぼくと二人だけになるときには、抱いてもらうことを意識していたのかも知れません。中二階の四畳半は、箪笥が置かれていたから、かなり狭くて、木枠の窓辺では直立できません。織屋の手機(てばた)を入れる家作りなので、中二階となるのです。タエ子は普段着で、夏場だし、薄いムームーというワンピース姿の生足、木綿の白い下穿きだけです。腕の脇から、首筋の下から、裸のからだが見るのです。乳房がぷっくら盛りあがっているのが見えます。それほど明るくはない裸電球がぶら下がっていて、まわりはベニヤ板張りです。性的な何事もないまま、タエ子は帰っていきました。

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四畳半の中二階は秘密の部屋でした。奇譚クラブのページをめくりながら、自慰するようになりました。タエ子の裸を想像しながら、自慰するようになりました。その気持ちよさを思い出しては、自慰に耽るのでした。そのことは誰にも言いません。ひとり、四畳半の中二階にこもって、エロにふれ、奇異な体験をしながら、日々を過ごしているのでした。たけむら君は、気さくに女子と交流する術にたけていました。たけむら君のほうからぼくに近寄ってきてくれて、たけむら君のまわりを囲む女子たちと、ぼくも戯れるのでした。いいえ、桃色遊戯ではありません。そのころ桃色遊戯という言葉を、担任の先生から教わりました。どこかの中学の男女が桃色遊戯で補導されたというのです。君たちはそういうことにならないように気をつけなさい。それに君は知能指数が高いから、京都大学をめざしなさい、とも言ってくれました。桃色遊戯、男女が戯れることだと解釈しますが、ぼくたちのグループでは、そういうことはありませんでした。

どうしたわけか、中二階の四畳半に、男女が集まっていました。なにをしていたのか、なにをして戯れていたのか、女子はスカートを穿いていたから、よくそのスカートがめくれて、下穿きがみえました。トランプでポーカーとか、そういうゲームをやっていたようにも思います。狭い部屋で、人数としては男が二人、女が三人とか四人、男はぼくとたけむら君、女は、たけむら君に集められた女子たちで、そこにタエ子はいませんでした。ブラスバンドの女子もいませんでした。好きさの順番をつける遊び、いちばん好きな女子、二番目に好きな女子、というようにたけむら君は自分好みに順番をつけ、ぼくは順番をつけることはしませんでしたが、しだいに惹かれていく女子が現れてきて、でも二人だけになるということはありませんでした。数学の方程式の解き方とか、三角形の面積とか、教えてほしいという女子がいて、教えてあげていたこともありました。どういうわけか、ぼくはけっこう勉強ができるほうでした。ただ勉強しないから、暗記する科目はあまりできなくて、好きな数学とか理科とかは、学年でもトップグループにいたようです。音楽は完璧に学年トップの成績でした。

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さえきさんという名の年上の女生徒がおられました。さえきさんは噂の女生徒。近所の年上の男子たちの間で、中学に入学する前に、図書館にいるさえきという女子の話しを聞いていたのです。ぼくが入学して一年生で、さえきさんが三年生。ぼくはクラスの図書委員に立候補して、選ばれて、土曜日の午後、図書館で受付とか返却された本の整理とか、そういう作業に就くのでした。さえきさんは図書委員長だったのかもしれません。ちょっと小太りでニキビがお顔にある中学三年生です。中学一年生のぼくにしては、お姉さん、図書館のことを、いろいろと教えてもらっていました。白い半袖開襟のシャツを着ていらしたから、夏の前だったのかもしれません。性に目覚める頃、ぼくは噂で聞いていたさえきさんのからだに興味深々でもありました。年上男子の会話には、胸のふくらみや毛のことが話題になっていて、それは猥談というか、胸や毛のことから女子のはなしに花咲くのでした。その噂の女の人がさえきさんで、一緒にいることで、かすかに恋してるみたいな感情を抱くのでした。

さえきさんは小柄な女子でした。ぼくの背丈は160pでしたが、彼女は150pくらいだったかも知れません。半袖開襟のシャツ、首元は開襟、俯かれるとナマの胸が見え、腕があげられると、脇の下が見えるのです。胸は隠れていたけれど、腋の下には腋毛が生えているのが見えました。年上の男子たちの話しでは、腋の下に毛があるということは、下の方にも毛が生えている、というのです。さえきさんが裸になったら、陰毛が生えているのが見える、実際には妄想でしかなく、裸のさえきさんを見ることはできません。カウンターになっている受付席で、さえきさんは手取り足取りで、教えてくださるので、超接近です。さえきさんより少し背が高かったぼくの目の下に、顔を入れてきて、超接近です。女の人とそんなに近くに接することなんて、さえきさんしかいません。年上の男子たちが憧れ、猥談に明け暮れている本人のさえきさんを、こんなに近くで見ているのだと思うと、とても嬉しい気持ちになっていました。図書館の美術書で、裸体画を見ることができました。それよりも裸体の写真が収められている本がありました。男たちが集まって、その本のそのページを開いて、裸体の女の人を眺めて、ニヤニヤする友達がいて、図書委員のぼくにも見ろといわんばかりに、ページを開くのでした。

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中学二年生の春のことです、恵美子さんとは同じクラスでした。その恵美子さんが、ぼくに興味を示してくれて、ぼくも恵美子さんに興味を示すようになります。恵美子さんはぼくの好きなタイプの女子、といえばいいかと思います。なにかのことで、ぼくの生徒手帳を預けたのがきっかけでした。ぼくの生徒手帳には、試験の点数とか、秘密情報が書き込まれていたのです。ぼく自身は、それが秘密情報だとの認識がなかったから、べつになんとも思わなかったわけです。でも、恵美子さんは女子で、ぼくに興味があったから、その秘密情報を知れて、とっても嬉しかったようなのです。恵美子さんの家へ連れていってもらいました。どうしたはずみで、行くようになったのかはわからないのですが、恵美子さんは、お昼ご飯を食べようとしていて、ぼくはお膳に向かい合って、恵美子さんがご飯を食べるところを、興味深く見ておりました。女子の部屋で二人だけになるなんて思いもかけないことでした。恵美子さんは、ぼくのことを素敵な人だというのです。ぼくも恵美子さんのことを素敵な女の子だと思っていたから、お互いに恋心だったと思うんです。でも、その気持ちは、なにかしらそれ以上には成熟しませんでした。恵美子さんと疎遠になったのは、まえにも書いたたけむら君らとの男女グループで、そのなかには恵美子さんはいなくて、ぼくは別の女子を好きになって、その女子に夢中になってしまったことがあげられます。

吹奏楽部では、男子は金管楽器、女子は木管楽器、という区分けがありました。ぼくはクラリネットだったから、木管楽器で、パート練習は女子ばかりです。一年先輩に梅田さんがいて、教えてもらうのはこの梅田さんでした。女子の顔ぶれは、同じ学年で四人、クラリネット、フルート、ピッコロ、アルトサックスです。クラリネットはぼくともう一人、一年上に菅さんがおられ、このお姉さまはお人形様のようなお方です。パートはクラリネットでしたけど、ぼくは恐れ多くてみたいな感じで、会話することはほとんどありませんでした。まだ岡崎の京都会館がなかったころで、演奏会はどこかの会館で行われていて、一年生のぼくはステージには出ないで、観客としていることでした。大阪へは吹奏楽コンクールでの演奏を聴きに、朝日新聞社のフェスティバルホールへ、先生引率で連れていってもらいました。阪急電車で、帰りは夜で、わくわくの気持ちだったことを思い出します。女子のなかに、ピアノを弾く子がいて、ピアノに憧れていたぼくには魅力な女子でした。この女子は、ぼくよりも成績がよくて賢かったから、敬服して、仲良くしてもらっていました。三年生になったころ、吹奏楽部が市中パレードに参加という場ができてきました。中学校合同で編成されたのですが、ぼくが市中パレードの指揮をするようになりました。もう三年生でした。交通安全週間とかのアピールするデモ隊の先頭にブラスバンドが行進する。市役所前に集合して、河原町通りを南下、四条通りを東にとって祇園までのパレードコースでした。

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思春期というのは、中学生になるころ、その前後の時期でしょうか。男子であるぼくが、無意識に女子のからだに興味を持つのは、その頃からでしょうか。意識しだすのです。男子ではない、女子だけの特徴に、興味を抱くようになるのは、小学校の上級になった頃でしょう。奇譚クラブ、風俗草紙という雑誌の内容に興味を示すのが、そのころです。わけわからないまま、だれかにおしえてもらうのでもなく、自慰するようになるのが、そのころでした。現実、目の前に起こることと、雑誌の中に起こっていることとは、同じ地平のことだとは、思ったことはありません。性欲が、男女の関係を予想するというのは、高校生になってからです。千本中立売を真ん中軸として、その界隈が繁華街です。映画館は中立売より北、千本日活があり、長久座がありました。西陣京極は狭い路地の北側に映画館がふたつあり、西陣キネマは洋画とその隣が大映、つきあたりが東映、その北隣に千中ミュージック、映画館の向いは飲み屋がならんでいました。中学生になると、一人でその界隈を歩いていたり、友だちと歩いていたり、楽器店があって、クラリネットのリードを買うのに、その楽器店で買いました。西陣京極の入口にマリヤ喫茶店がありました。家族で入って、父はぜんざい、母はあんみつ、ぼくと弟はホットケーキをたべていました。

歓楽街、よく、よく、五番町という名前を聞くことがありました。ぼくが知るその頃には、売春防止法が施行されていて遊郭、赤線地域ということではありませんが、歓楽街、飲み屋とか料理屋とか旅館とか、男が遊び、女が世話する、そういう場所ではあったようです。北野天満宮の正門は、東向いた鳥居があるところ、その前には上七軒の花街があります。そういう地理的なことでいうと千歩中立売は、北野天満宮へ参拝の入口に、出口になるところだと思います。中立売、西にむかって、左に五番町、右に西陣京極、中立売通りを道なりに進むと、下之森商店街、一条通りになって右に鳥居があって北野天満宮への参道です。その当時には、チンチン電車が通っていて、今出川が終点でした。天満宮の敷地で、縁日には、参道には屋台が、広場ではテントが張られた見世物小屋がいくつかありました。天満宮には梅林はありましたが草叢はありません。草叢があるのは桜で有名な平野神社です。町内の年上の男子たちが、その草叢にはちり紙が捨てられているというのです。男と女がいちゃついたあとに拭いたちり紙が、捨てられている。ほんとかうそか、探しにいきます。結局、見つけられなかったのですが、そんな場面が雑誌に載っているのを思ったりしていました。

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高校入試を控えていたころ、ちょっと疎遠になっていたタエ子が、会いにきました。就職先が決まったというのです。その頃は、中学を卒業して就職するという女子が多かったように思います。男子は、もう高校を出ておかないと、という風潮ですが、でも、大半の女子は高校へ進学していたと思っています。タエ子の就職先は、近所の電機製品の部品を作っている会社で、女子工員になるのだというのです。
「そうなの、がんばろう、ぼくもがんばる」
天満宮の北門前で、なにかしらお別れの挨拶みたいなふうに思えていたのですが、タエ子は、ここで、これからもつきあってほしいというのです。
「そうやね、そうやね、また、連絡するわ」
ぼくはそう言って、つきあうとはいわなくて、結局、卒業してしまって、連絡をすることはしませんでした。高校への入学試験は、公立高校へは一括で合格発表があり、入学する高校は、合格が決まったあとに決定されるのでした。入試の点数は、かなり良かったと思っていて、あとで知ったところでは、上位一割のなかにいたといわれました。高校へ入ったら、吹奏楽部に入って、先輩からは弓道部に入るようにいわれていてて、そのままに進学していたら、たぶん、そういう道をとったと思います。でも、新聞に名前が載って、入学する高校が示されて、ビックリしたのは予定していた高校ではなくて、別の公立高校でした。中学を卒業して、高校へ入学するまでの春休み、ぼくはアルバイトで、製パン工場へいきました。働く現場、労働者、パンを作る工場、ぼくは、そこにいることに違和感を覚えます。どういうわけか、とってもキツイ違和感で、その場所にはいられなくて、一週間で辞めてしまいました。










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最新更新日 2021.8.24




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