ものがたりブログ

ものがたり-1-
 1〜6 2021.12.3〜2021.12.11

 

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じぶんの顔を公開するのには、こころの中で抵抗があります。それはなにがそうさせているのかといえば、こんな男なのか、いい歳して、醜態を晒すな、みたいなことを思われたら癪やなぁ、との思いからです。若い時の写真は、むしろ公開してもいいかなぁ、とも思っていますが、それも裸の写真とか、それはそれでいいかなぁ、と思うんですが、日本の現状では、それがストレートにアップロードできないと思っているんです。ここのタイトル、「ものがたり」としました。ものがたり、物語、物語り、そういうことなのですが、自分の行為として「物語り」というのです。フィクションです。全くの作り話ではありませんが、ぼくのなかの古いイメージが、空想的に動いているので、この世のフィクションだと思えるのです。最近の傾向、文字で書かれたいわゆる文章というのは、ネットの中ではあまり読まれないのだと思っています。写真とか動画にしても、沢山ありすぎて、興味を引くのはどういうモノだろうか、いろいろ思うわけです。それで、興味を持たれる順番でゆうと、動画、写真、漫画、文章、ということでしょうか。そのなかでもジャンルでいえば性をめぐる内容のモノだと思っています。そこで「ものがたり」では性にまつわる話をも含め、自叙伝的に、ものがたろうと思っているのです。

2008年頃から、ぼくはネットのなかで、フィクションを手がけるようになりました。かって1970年頃に、同人誌で小説を発表したりしましたし、1980年頃には、写真と文章を組みわせたドキュメントを志向して、雑誌を編集したことがありました。写真家なんていうのはおこがましいんですが、ほんとうは文章で勝負したかった、いまでも勝負したいと思っています。個人で編集して発行した「映像情報」は、まだネットがなかった年代で、和文タイプライターで原稿を打ち、印刷してもらい、帳合してもらい、100部限定発行の情報誌で、ここにぼくの文章を載せていきました。1985年頃からフォトハウスの名称でワークショップを開催し、そのまま写真学校を作るところにきて、2001年ころから、写真論などを手がけ、実際にフェクションを作ろうと思ったのは、インターネットで自分のページをつくるようになってからで、それが2008年頃でした。アダルトというジャンルで、一般からは隔離されたところで展開されているアダルトサイトです。微妙に表現する内容が男と女の交情を描くことをめざし、フィクション、小説として、文章を書き始めました。日本語による文章で、エロス系の最深部をめざして、思考錯誤を重ねてきたところです。

どのへんから書き出そうかなぁ、と思案にくれます。そうだ、シアンクレールという名のジャズ喫茶がありました。河原町荒神口の角にあった其処は、モダンジャズ、ぼくはクラシック派だったから入り浸りではありませんでしたが、どでかいボリュームで奏でられる音に、奇妙にこころが落ち着くのでした。そこへ彼女といったときのこと、薄暗いボックス状の店内の真ん中にテーブルがあり、天井からテーブルの上50pくらいに吊られた電球だけ。座って、手を握りあうことなんてへっちゃらで、彼女の太腿に触れたりすることも可能で、少しエッチな気分になってくる音量たっぷりの空間でした。こころの中では、隣に座った彼女と密着して、もう身体の一部は硬直し始めているんです。でも、握ってもらうのはヤバイ、なんてったって、隣とは区切りがない空間ですから、もちろんキッスだってできるわけではなく、ただ手を握りあい、指を絡めて力を入れ合い、存在を確認するにとどまるのでした。オバーコートを着ていたから、冬のことだと思います。河原で肩を寄せ合い、御苑で抱きあうには、寒すぎるので、喫茶店で時間を過ごすことになるわけです。河原町から木屋町へ、少し入ったところにあった喫茶店では、もう延々6時間以上もねばったこともありました。純喫茶ですから、エッチなふるまいなんか、できる処ではありません。

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大学生になったころ、各大学では学園紛争が起こっていて、ぼくが通う大学でも、その気配がしてきて、過激な学生が会館をバリケード封鎖してしまいます。そのころ、ノンポリ、ノンセクト、セクト、高橋和巳の小説「憂鬱なる党派」を読み終えていたぼくは、学生になって、学生運動に興味津々、どちらかといえばアナキズムの方へ傾いていました。映画館では、パートカラー映画三本立て、入場料100円だったと思いますが、夏の夜、クーラーが利いた映画館へ行って、夜な夜な、朝方まで映画館で過ごすのでした。パートカラーというのは、エロ映画で、その処になるとカラーになる、その部分が終わると、白黒映画になるという映画です。まだ彼女がいなかったぼくは、すでに性の知識はありましたから、男と女が、何をするのか、ということは知っていました。でも、オクテなぼくは、初体験することなく大人になってしまうのでした。筆下ろしは彼女ができて、何年かつき合っていて、ようやくいきついたというところです。騒然としていたといえば、騒然としていて、主に東京の大学でバリケード封鎖がおこなわれ、それが地方に波及するという感で、京都にもやってきたと思っています。党派の細かな話しはしませんが、そういうなかで青春時代を過ごしたというのが、いまもって思想に影響を与えていると感じています。

ここでは、エロス体験をベースに、書き連ねていかないといけないと思っています。子供の頃に戻るのですが、それは小学生の四年か五年ごろ、十歳か十一歳のころ、偶然、箪笥の中に仕舞われていた、月刊雑誌を見つけたのです。十冊ほどあったかと思いますが、なかを開いてみると、女の人が裸で、縛られている絵、写真、それに伴う文章、小説、雑誌の名前は、奇譚クラブ、それに風俗草紙でした。とっても興味深々、女の人が、縛られて、弄ばれて、よろこんでいる、そういう世界に、わけわからないまま、引きずり込まれていくのでした。本を読むのが好きでしたから、怪人二十面相や名作といわれている外国文学なんかも読んでいました。でも、それらの雑誌の挿絵、写真、小説、むさぼり読みしていました。でも、それらは、中学生になるころには、記憶のむこうに追いやられ、もう、見て読むことはほとんどありませんでした。エロ映画を観るようになるのは高校を卒業するころからです。高校生になったころから、映画館で映画をみるようになります。そういうことでいえば、小学生の頃から、東映映画を親と一緒に見に行きました。

西陣京極は、そのころ大盛況で、夜ともなると人であふれていました。一番奥に東映の映画館がありました。中村錦之助ですね、東千代之介、大家では片岡千恵蔵とか、主に東映映画でしたが、大映映画、松竹映画、子供だったので大人に連れられて行きました。高校生になると一人で観に行くようになります。観に行くのは千本ではなくて、新京極と祇園、封切館ではなくて二番館ですか、洋画です。よく観たのは、終着駅、鉄道員、イタリア映画です。アメリカのスペクタクル映画も、よく見ました。名作が映画になる。シネマスコープ、大きな画面に大音響、映画館が劇場になっていた時代です。でも、やっぱり、パートカラーのエロ映画が、好きでよく観にいきました。ひとりで、ひそかに、観にいっていました。寺町の御所のまえ、新島会館あたりに、文化会館という映画館があったと思うんです。日活ロマンポルノは、ぼくは全く観ていません。その頃には、もう、映画を観ることも無くなって、何をしてたのか、彼女ができて、デートを重ねていた頃かもしれません。

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ぼくが高校を卒業したのが1965年、大学に入学したのが1968年です。そのころぼくは高校卒業と同時に十字屋楽器店の技術部に就職しました。ここで二年間勤めて、大学へ行くために、一年、浪人することになりました。東京のほうの大学で、学園紛争が起こっているのが、新聞で読んでいました。ぼくには遠いところの出来事で、仕事は、当時ヤマハから発売されていたエレクトーンの調整と修理。まだ技術屋がいなくて、ヤマハ公認の技術屋三番をいただきました。大阪の心斎橋にあったヤマハの大阪支店に三か月お世話になりました。中学の時から吹奏楽部で、クラリネットをやっていて、高校になって二年目に吹奏楽部を創設し、指揮をしていました。そんな流れで、大学進学を断念し、就職することにして、十字屋楽器店を紹介してもらったのです。そのころには、音楽よりも文学に興味を持ち出し、高校の時に、部員ではなかったけれど、文芸部にも関係していて、詩集を出したり、散文を書いたりしておりました。二十歳頃には、小説家を目指すようになっていました。

音楽の仕事を辞めて、ストレートに大学に入れるかと思ったのですが、そんなに甘くはなくて、どこの大学にも合格しませんでした。一年浪人して、早稲田と同志社それに立命館、いずれも文学部でした。でも、受かったのは立命館の二部でした。東京への憧れもあったし、気持ちとしては東京の大学へ入学したかったんですが、生活費だけではなくて学費まで自分で賄うとなると、やっていけないこと明白だったので、仕事をしながら大学に通うということで、学費が払える、と安堵しました。文学部人文学科、これが入学した学部学科です。小説家を目指していたとはいっても、その足掛かりさえありませんでしたが、どこかの同人誌を出しているグループに入ったらいい、と誰かから教えてもらい、大阪文学の会でしたか、会員にはなれなくで、でも例会には出席できることができました。でも、例会に出席するほどには文章が書けていなかったので、出席はしませんでした。

大学生になった年には、もう学園紛争があちこちで勃発していて、京都の大学も多分に洩れず学校内は騒然とした雰囲気でした。立命館の主流は民青でしたし、ぼくもそれに近いところにいて、入学しましたが、そこの同盟員にはならなくて、ノンセクトでした。三派全学連がマスコミによく取り上げられていたし、月刊雑誌でもそれを煽るようなのがありました。ぼくの気持ちは運動に傾斜していきます。同じクラスの学友は、三年遅れで大学生になったぼくは、年上になり、兄貴のような関係になりました。煽ったわけではありませんが、若いクラスメートは、クラス闘争会議を立ち上げたとの話を聞きました。クラスの闘争会議が連合して全学共闘会議になるのですが、民青系ではなくて、のほうになります。学校では、学友会のメンバーに嫌がらせを受けました。地域のほうからも説得に来られて、なにやら議論した記憶があります。まあ、硬派の方のはなしですが、そのあと、1969年の春先に、東京勤務になって、1年に満ちませんでしたが国際反戦ディの10.21まで東京住まいをしておりました。

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1969年という年は、ぼくにとっての貴重な体験があった年です。その前の年から大学のなかは騒然としてきていましたが、年が明けて1969年早々から、学生集団と大学当局とが、?み合わない事態に至ってきていて、学生集団のほうは、70年安保粉砕を叫んでいたから、解決のしようがなかった。東京大学では、安田講堂がバリケード封鎖されていました。神田やお茶の水界隈ではバリケード封鎖という事態に、機動隊が排除に乗り出していました。京都では、百万遍から京大農学部までの今出川通りが、バリケード封鎖される事態が起きました。ぼくの勤めだした出版社が、京大北門前、知恩寺の横にあったので、バリケード封鎖騒ぎは、目の前で目撃しています。バリケード封鎖して、火炎瓶が投げられ、炎と黒煙があがります。報道カメラマンがバリケードの外から一斉に撮影し、それが終わると、機動隊が出てきて、机や椅子を積んだバリケードを退けにかかります。騒然としたバリケードの内と外、ぼくは内側にいましたけれど、勤め人でしたから背広を着ていました。ええ、機動隊が、大学の承認なしに、大学構内へ突入してきたのです。ぼくは大学の構内に入っていて、機動隊が学生を追いかけていくのを見ておりました。機動隊員に頬をなぐられましたが、連行され逮捕されてはいません。京都もさることながら東京では、東大安田講堂の攻防戦が起こっていて、京都にいて、その模様はテレビのニュース、実況していたのかも知れません。その顛末を見ておりました。そうして1月19日、安田講堂は陥落しました。

渋谷の道玄坂にはラブホテルがある、と教えてもらって、彼女ができたので、その界隈へいきまして、ラブホテルへしけこみました。宿泊のつもりでしたので、たっぷり、愛しあえるなぁ、と思います。久しぶりのセックスです。もう、ぼくは、彼女の洋服を脱がせるのに、待ちきれないくらいに、せっかちになっていました。洋館のホテルで、ルームも洋風です。大きなベッドがあり、その壁面は横引のカーテンで閉められています。カーテンを開くと、鏡です。ぼくは、少し開いて、鏡だとわかって、閉めました。ベッドの横、床はカーペット敷で、丸いテーブルに背凭れの椅子が二客あります。そこに座って、向きあって、いじくりあうのも、ありなのです。
「どうするの、わたし、はやく、脱がしてよ」
彼女は、ぼくに洋服を脱がして欲しいとでも言うように、ふるまってきます。ぼくは、もう、声がうわずっている感じで、彼女が身に着けているモノを、抱きながら、キッスしながら、脱がしていきます。
「ぼくも、脱ぐから」
そうです、彼女が下着だけにしたときには、ぼくはシャツとブリーフだけの姿です。壁際に大きな鏡があって、ルームのなかが映っています。ぼくと彼女の姿も、映りこんでいます。
「あん、いやん、いやよ、ああん」
シュミーズを脱がして、乳房を隠しているブラジャーを外そうとすると、彼女が、こころもち抵抗してきます。でも、それは身からはずして、手をあて、乳房を隠すのです。パンティだけになった彼女は、ぷっくら、ふくよか、白い肌、ぼくは、抱きしめます。ぼくも、ブリーフだけの裸なので、肌と肌が密着です。

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ぼくのなかには、硬派と軟派が混在しているんだと思っています。世の中のこと、騒然となっていて、機動隊とぶつかりながら、デモの隊列のなかの一人としている自分と、あるときは、彼女とラブホテルで心と体を癒します。彼女は温かい身体です。男のモノを女の其処に挿し込んで、セックスします。道玄坂のラブホテル、彼女とふたり、泊まり込みで真夜中まで、セックスに励みます。翌日の、お昼の前に、チェックアウトしました。ラブホテルでの出来事をもう少し詳しく書いておきます。
「わたし、いいのよ、とってもい気持ちになりたいのよ」
彼女は、まだ二十歳の大学生でした。道玄坂のラブホテルの名前は、ゲンジホテルといいました。三階建ての洋風の館で、いかにもラブラブで、王子様、お姫様、という感じで、明るく振る舞えるルームです。着ているもんをひとつひとつ脱ぎあいながら、全裸になってベッドの上です。
「ねぇ、いいから、わたしを、抱いてほしいのに、ああん」
ぼくは仰向いて寝た彼女の足の方に座っていて、彼女の股を鑑賞します。太腿をひろげさせ、膝を立てさせ、ただ、何もしないで鑑賞というわけにもいかないので、ぷっくら膨らんだ乳房を弄ってあげながら、股の縦になった唇を弄ってあげながら、いつも感じさせてその気にさせて、夢のなかへ誘ってあげるのです。
「あん、ああん、だめ、そこ、ああん」
全裸で仰向き寝そべっているいる彼女が、甘ったるい、うわずった声を洩らします。ぼくは、乳房をもみもみ、乳首をつまんでひねってあげて、もう一方の手ではお臍のしたからアンダーヘアーをまさぐります。股間の柔らかい処を、かるく揉みほぐし、うちがわへ指をいれ、ぬるぬるに濡れている処を、こすってあげるのです。ぼくは、そこを観ています。じっくり、たっぷり、観てあげます。彼女は、くねくねと、よがります。

ぼくが仰向いて、足をひろげて、寝そべります。彼女は、ぼくの腰の横におんな座りして、ぼくの腰に顔を下ろします。ぼくはもう勃起状態で、ビンビンになっています。彼女が、ぼくのモノを右手でかるく握ってきます。左手で、ぼくの股のふくらんだタマタマを、手中にします。ぎゅっと右手を下ろして、先っちょに唇をつけてくれます。彼女の唇は、濡れていて、それに先っちょを挟んで顔を下ろすのです。彼女の咥内に、ぼくの勃起したモノが挿し込まれます。ぼくは、その感触で、余計にいきりたたせてしまいます。握ってくれている右手を、上下にうごかし、しごいてくれます。先っちょを唇からぬいて、彼女は、うっとり、ぼくのモノをながめています。
「うん、ああ、おっきい、かたい、うううん、やわらかいのね」
彼女が声を洩らしてきます。
「ああ、いい、いいきもち、いいよ、ああっ」
ぼくが、しごいてくれているのを見て、彼女の乳房へ左手をおきます。ぷっくらのおっぱいを、まさぐってやります。
「ああん、いれたい、いれてもいい?、ねっ、いれてほしい」
彼女は、大胆にも、ぼくの腰にまたがってきます。彼女の処に、ぼくのモノを挿し込むのです。またぐときに、ぼくのモノを真ん中にあてがい、ぼくの先っちょで、いれるところを探して、ぶすっ、と挿し込み、そのまま、お尻をおろしてしまうのです。ぼくは、そこがヌルヌル、ヌメる感触に、気持ちいい。彼女は、ぼくのモノを根元まで、挿し込み、上半身をぼくにかぶせてきて、ぼくの顔を撫ぜ、ぼくの唇に唇をかぶせてして、そのまま、お尻を左右に、小刻みに、揺するのです。ぼくは、感動です。彼女に抱かれている感覚、抱いているというより、抱かれている感覚です。それにもまして、ぼくのモノが、きっちり、彼女の股の真ん中に、挿し込まれているので、もう、ヌルヌルです。

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東京での生活は、想像していたほど優しくはなくて、生活費も厳しいものでした。小説を書こうと思っていたのに、それどころではなくて、出版社に勤めて、編集の仕事に憧れていたけれど、職種は運転手。出版した本を、取次へ納本する役目が主でした。といってもまだ素人なぼくに、免許証をもっていない先輩が、同乗してくれて、神田へ、ニコライ堂が見える取次店の納品場へ、順番を待ちながら、時間を過ごすのでした。仕事の時間は八時間、ぼくらは、労働組合をつくるべく画策しました。もちろん秘密裏に、ことをすすめるために、出版労連の事務所へ赴いたり、印刷労連の事務所を訪ねていったりして、労組結成工作を企みました。単独組合ではなくて、労連の支部、という形で、すすめていくのでした。紅(くれない)分会という名前で、会社との交渉には、労連の運動員が臨席してくれるという手配です。ぼくは、結局、労組旗揚げのまえに、退職を決断して、東京での生活をあきらめ、京都へと戻ることにしたのです。ぼくには労働して生活費を稼ぐ能力がありませんでしたから、京都へ戻って、住むところはあったので、家賃はいりませんでした。新聞の求人欄で探していると、スーパーの西友がオープンして、その店舗に入ってる電気販売店が社員を募集していたので、応募したところ、運転免許証を持っているというので、配送の運転手に採用となりました。運転免許証は高校三年のときに、母親が、大学進学のお金は出せないから免許証取得の費用は出してやる、というので夏休みに教習所へ通って取得したところです。家電の販売で洗濯機とかが売れ筋で、配達に行くのです。なにかしら未来につながらないとの気持ちがあって、給料をもらう前に辞めてしまいました。

1969年10月21日は、国際反戦デーで、学生運動の流れで、東京は新宿界隈ではデモ隊があばれ、機動隊が鎮圧するということが起こりました。ぼくは、明治公園出発でべ平連のデモがあるというので、そちらの方へ行きました。数千人の規模のデモ隊で、紙切れが手渡されてきました。警察へ連行された時の対処の仕方が書かれていて、黙秘する、そこにかかれている連絡先だけを告げる、というものでした。その日の東京は、朝から交通規制がおこなわれていて、デモに供えて、都心の辻辻に機動隊員が警戒に当たっていました。ぼくが参加したデモが出発するころ、新宿では大変なことが起こっている、という話しが伝わってきました。ぼくが参加のデモ隊にもヘルメットをかぶった一群がいました。機動隊も来ていました。明治公園から水道橋までのデモ行進、そこで流れ解散です。デモには女子も沢山参加していたように思います。手を握りあったのは四人一列の横にいらした女子でした。会話はしませんが、連帯している気持ちで心丈夫でした。水道橋まで来て、デモ隊は渦巻きデモになりました。機動隊の装甲車からマイクで、デモを止めなさい、との警告が何度も発せられていました。ぼくは疲れたのを理由にデモ隊から離脱して、歩道橋にあがりました。その直後、機動隊がデモ隊へ突入してきて、揉めます。機動隊員がデモに参加者をごぼう抜きで、連行していくのを、ぼくは眼下に、まるで傍観者、見ておりました。









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最新更新日 2022.1.25

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