表現論ブログ

自分のはなし
 25〜32 2021.11.20〜2021.11.27




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初めてアンダーヘアーが写ったヌード写真集がでたのは、1991年だったか樋口可南子モデルで篠山紀信さんが撮った写真集でした。それまでとえば、アンダーヘアーつまり陰毛が見えるというのはご法度でした。性の開放は世界の潮流で、日本では世界に遅れること、どれくらいの年月があるのか。いやはや、いまもって、国内から出版、発信されるヌードには陰毛と性器にはモザイクまたはぼかしがはいって、見えないようにされているのが実情です。表現者として、この実情をどうとらえるか、ということは大きなテーマです。もちろん、避けて通ることができないとぼくは思っています。商品として出回っているから、業界があるんだと思っていますが、そのなかみについては、ぼくの知らないところです。そういうことでいえば、ぼくは、消費者にすぎない。生産する側ではありません。

2009年の日付があるので、その頃から、小説を、フィクションを書いてやろうと思いだして、ブログに文章を載せだしました。形式は新聞小説のウエブ版を想定し、内容はセックスの本番を描写することをメインにしました。写真や映像は撮らないから、文章は自分の文体で、様々な形式で書いてきました。どこから読んでも興奮を誘う、短編から中編小説だけど、全体として大河小説のような規模にしたいと思っていました。もちろん使う言葉が、猥雑な単語で、滑らかに読めるように工夫して、と思って何度も何度も同じような内容を繰り返すのでした。かなりの分量になったと思います。現在は中断していて、たぶんもう再開はしないだろうと思っていますが、これは、まだ、わかりません。自分の体力と精力が回復すれば、また、はじめるかもしれません。

それまでに、かなり大量の小説を読みました。置いている本屋さんと置いてない本屋さんがあるけれど、フランス文庫、幻冬舎アウトロー文庫、河出書房新社のシリーズ、それから雑誌のバックナンバーから探して、読み漁り、大体の感覚をつかんで、それよりもエロスな表現を模索してみようと思って、かなりリアルに、ロマンティックに、自称リアルロマン小説と呼んで表現しています。ライブドアのブログがアダルトに対応してくれているので、中期以降はライブドアのブログで連載しています。いま「えろす」という表題のブログに、これまでの文章をまとめている最中です。何度か忠告をうけ、ブログを閉鎖されたことも多々あります。写真が引っかかったのだと思いますが、最近では自主規制しているところです。写真は、ネットからダウンロードさせてもらって、使わせてもらっていて、ぼく自身が撮った写真は一枚もありません。

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金沢にハントンライスというのがあって、という話しを見たことがあって、お昼にそのハントンライスなるものを食べました。チキンライスのうえにフライがのっている、といえばいいのか、これが金沢名物だというのです。食べ物のことでいえば、ぼくは俗にいうグルメ族ではありません。なるべく安くて美味しいもん、というのが頭にあって、でも、安物買いの銭失い、みたいなことにならないように、と思いながらも、そういうこともありました。でも、安くて美味しい、というのでなけてば商売が成り立たない、というのもあるみたいで、全国展開のチェーン店で食べると、それなりに美味しく食べられます。ぼくは、高級な、料理は、あまり、なじみがないので、いつも安い方へとなびきます。洋食ならファミレスでいいし、寿司なら100円回転すしでいいと思っています。若いころにはお金をもたなくて、食事にお金をかけることができなくて、それがそのまま今に続いている、と思っています。

結婚前にはラブホテルを使ったことがありました。二時間いくらのラブホテル、それから宿泊でセックスしたラブホテル。その後、彼女の三畳一間の下宿で、セックス三昧を繰り返したことを思い出します。男と女というのは、そういうセックスをするという関係になって、そこに言い知れぬ愛が芽生えるのだと思います。ぼくの体験は、彼女だけです、他にはありません。たまたま、うまいぐあいに、二十歳をすぎたころに彼女が応じてくれて、深い関係になっていきます。初めてキスしてからラブホテルへ行くようになるまで、3年ほどの時間がありました。若いから体力がある、といってもそんなに強い方ではないと思うけど、それなりに男を果たすことができたかなぁ、と思っています。抱きあって、結合させて、重なりあって、弄りあって、快感を得ていく過程には、なんともいえない快感の快感です。でも、それだけでは物足らなくて、もうその頃にはビデオの時代でしたから、レンタルビデオして、見ながら興奮するということもありました。性欲旺盛だったのかも知れません。

小学生の高学年、5年生の頃でしょうか、その頃、ひとり密かに奇譚クラブに載った縛り絵や小説を読んでいました。中学生になると、吹奏楽に熱中して、その方へはいかなかったけれど、もっぱら自慰していたとは思います。だれにも言われないのに、自慰することを覚えたとは、何なんでしょうね。性教育は受けたことありませんが、性のことを特集した雑誌の付録を読みました。男の性器は、男だから見ていますが、女の性器は見たことがありません。見たい欲望というか願望がありました。温泉場で売られているモノクロ写真を見たことがありました。性器結合している図で、女の顔は写っていますが男の顔は隠されている、ナマの結合しているところが見れました。でも巷の雑誌の裸写真を見ても、そこのところはぼかしてあるから、絵解きされた図で知るしかありません。ぼくはマニアックに女性器の絵解きを細部まで見ておりました。二十歳ごろになって彼女の性器を見ることができるようになって、初めて、観察するように、クンニするのでまじかに見ることができました。その彼女とは結婚するようになるので、結局、ぼくのナマを見る体験は、彼女だけです。

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もう二十歳を越えたころ、同伴喫茶へ行くようになりました。冬になると寒いから、デートするときは喫茶店、音楽喫茶というのがあって、ここへ入るとクラシック音楽を聴くのだけれど、おしゃべりができません。木屋町三条下がったところにあった同伴喫茶はボックス型で120p×90pほどのスペースで、二人掛けの背凭れ椅子があり、前に幅30pほどのテーブルが備え付けてありました。ボックスの右側が半分開かれていて、通路からは覗き込まないとなかは見えないようになっていました。そこへ行くのは何が目的か、といえば彼女と愛を交わすのが目的ですが、狭いから、見えるから、性器を接合させるところまではいけなくて、まさぐりあうところまでです。まさぐりあうというのは、性器をまさぐりあうということで、ぼくは彼女の性器を弄ります。彼女はぼくの性器を弄ります。弄りあって、放心してきて、彼女はヌレヌレにしてしまって、ぼくは射精してしまうのでした。彼女はフレアスカートを穿いていて、ストッキングを穿いていて、ショーツを穿いていました。ぼくはズボンでパンツ、ズボンを降ろさなくてもジッパーを下ろし、パンツの前をひらいてしまうと、性器を露出させることができます。彼女はストッキングを脱ぎ、ショーツを脱いでしまって、腰からしたはすっぽんになります。フレアスカートで膝下まで隠せるから、覗き見られてもすっぽんであることはわかりません。

窮屈な姿勢ですが、彼女が左、ぼくが右、少し腰を横に向けあい、開かれたところを背中にして、彼女を隠すようにして、彼女にはぼくの腰へ顔を下ろさせ、剥きださせた性器を咥えてもらうのです。ぼくは、そんな彼女の股へ、右手を入れ、スカートで隠したまま、股間を弄るのです。彼女の股間が濡れてきて、指にヌルヌルがまつわりついてきます。ぼくの性器はビンビンにいきりたってきます。彼女は顔を上げたり下ろしたり、微妙に唇でおとこの性器をはさんで、こすって、いっそういきりたたせてくるんです。彼女は彼女で、股をひらいて、ぼくの指でまさぐられるのを、心良しとしているようで、声をださずにこらえています。ここでは交合するほどの広さがないので、ぼくの射精を咥内で受けとめ、ティッシュで拭いてくれるところで、終わりです。そのあとは、左腕を彼女の肩にまわし、右腕をさしだし、右手で彼女の右太腿から右膝を愛撫しながら、奥へ手を伸ばして真ん中をいじってやるのです。膝下までのフレアスカートだから、大半は隠すことができて、入口に背中を向けたぼくの前には、抱かれた彼女が性器を弄られ、キッスされ、喘いでくるのでした。ぼくは男で射精すれば醒めるんですが、彼女はイキきることはなく、いつまでの生煮えで中途半端で置かれるのでした。

別の同伴喫茶では、ボックス型ではなくて、頭が隠れるほどの高さの二人掛け背凭れ椅子が、列車の座席のごとく並んでいました。薄暗い店内でジャスの音楽がかなりのボリュームで流されていて、座敷に案内されて座ると、横は全開放なのに、ほぼ個室のような感じになります。横に座ったまま、抱きあって、キッスして、まさぐりあうのですが、裸になることはありません。でも、無理したら向きあって抱きあうことができる前後の幅です。ロングのフレアスカートを穿いた彼女は、ストッキングを脱ぎ、パンティを脱いでしまって、ぼくはズボンを膝まで下ろして、彼女がぼくの腰にまたがり、すっぽりフレアスカートで隠してくれて、勃起するぼくの性器を、またいで彼女の性器へ、挿入するのです。はげしい動きはできませんが、はめこんだまま、ぎゅっと力をいれて、感じさせ、ぎゅっと力をこめてきて、締めてくれます。もう、ぬるぬる、べちゃべちゃ、たぶん、薄暗くて、ジャズが流れて、ぼくたちの行為は、ほかでもやっているんじゃないかと、思えるのでした。これは冬物語で、春になると円山公園の奥へいって、ベンチに座って、いや、ぼくはベンチに仰向きに寝て、彼女が腰をまたいできて、接合、交合、交わって、感じ合うのでした。

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ぼくはノンセクト、ラジカルではなかったから、なんてゆうんだろう、ノンポリ、まあ、学生運動に興味があったけれど、やっぱり傍観者でしかなかったかなぁ、と思います。大学の会館がバリケード封鎖されたのは、1968年のことだったと思います。封鎖された会館へ入るのに、網のフェンスの一部が切られていて、そこからしゃがんで入ることができました。噂では、機動隊が封鎖解除するぞ、というのです。会館の中は、静謐なほどシーンとしていて、立て籠もっている学生の姿は、見なかった。夜の九時を過ぎていたと思います。ぼくは退出して自宅へもどりました。その夜の未明に機動隊が封鎖解除したというニュースを朝いちばんに聞きました。立て籠もっていた何人かが連行され逮捕されたというのです。ぼくは、連行されるのを免れたのでした。

そんなに乱れた生活を送っていたわけではありません。でも、映画を観たり、ジャズ喫茶に入り浸っていたり、そうじゃない、むしろ彼女と喫茶店で何時間も時間を過ごしておりました。大きな純喫茶で、何時間でもねばれる喫茶店で、そこでは抱きあったりはしません。ということはつきあいだしてまだそれほど時間が経っていなかったころだったかもしれません。そのうち、同伴喫茶に誘ったら、ついてきました。同伴喫茶にも種類があって、どちらかというと開放的な同伴喫茶、ボックスになっている閉鎖的な同伴喫茶、週に一回ほどの頻度で会って、同伴喫茶へ行くのでした。目的は、もちろん、男と女だから、抱きあうことです。抱きあって、すこしばかり、身体の部分をじかに触ることでした。触るところは、セックスの中心になるところ、男は竿、女は貝、触りだすころはもうしっとりどころかじゅくっと濡れているのでした。二十歳と二十一歳、成人になるまで控えておりました。

彼女がいるということは、誰にも言いませんでした。セックスする関係になっているなんて、誰にも言いませんでした。同伴喫茶へいって抱きあっていたときからすると、ラブホテルは密室だから、思う存分愛しあうことがでします。愛しあうとは、抱擁し、性器を交合させ、快感を共有することです。衣服を剥いで、剥がれて、裸になって、抱きあって、畳のうえに敷かれた布団の上、あるときはベッドの上で抱きあい、舐めあい、キッスして、愛液をすすって、そのときには何の不安もなく、最高の幸福感を得ていたと思います。まだコンドームを使うなんて考えなかったし、それを手に入れる、つまり薬局で買う、ということも思いつかなくて、射精寸前になると抜き去って、外だしするのでした。彼女が、下宿から三畳一間ですがアパートへ移転してからというもの、ラブホテルへ行って行為するというより、三畳の狭い部屋で、彼女が寝起きしている布団の上で、たっぷり、思う存分に、絡み合い、愛欲のまま、ときをすごすのでした。

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御土居が潰されて宅地になったのは、いつごろだったか、昭和の30年代だったかも知れません。洛中と洛外に分ける土塁があって、ぼくの家は洛中の側にあります。御土居は子供の遊び場で、土塁の上を走り回ったり、洞穴を掘って、そこに潜んでいたりして、奴隷ごっことかされたものです。近所には女子も沢山いて、ぼくはどちらかというとそれら年上の女の子と遊んでもらうのが、楽しかったのを覚えています。子供がしゃがんで入れるくらいの洞穴へ、奴隷がつながれます。年上の男の子が、パンツを脱がした奴隷を、弄ったりして苛めるのでした。小学生一年か二年生のころで、まだ慎重100pにも満たなかったころです。パンツを脱がされると、やっぱり恥ずかしい気持ちがわいてきたのを覚えています。まだちっちゃなおちんちんを見せるのですが、奴隷はほんとに泣き出しそうでした。

そのころ、身の回りの生活道具といえば、記憶の中で思い起こせば、ごはんを炊くのにおくどさんに羽釜をのせて、薪を燃やしていた光景がよみがえります。洗濯はたらいに入れた衣服を洗濯板にのせ、固形石鹸をつけて、ごしごし洗っていました。女はしゃがんで、膝をひろげて洗っていました。水道は長屋でひとつ、共同水道で、トイレは汲み取り式で、トラックがきて作業員さんが天秤に桶に汲み取り、集めていきました。家の中、部屋を明るくする電気は電球でした。そのうち、便利な生活が始まってきて、瞬間湯沸かし器、電気釜、蛍光灯、テレビが家に来たのはオリンピックの頃、ぼくはもう高校生でした。いまやむかし、そんな光景が脳裏にちらつきながら、現在、パソコンに向かってこの手記を書いています。

祖母がいて、叔母がいて、ぼくは長男だったから、祖母叔母にかわいがられたと思っています。祖母はカタカナしか書けませんでした。家に手機が置かれていて、西陣織、手機でばったんばったん、やっておりました。叔母は、自転車に乗って織物工場へ織子で働いていました。お給料の日には、ぼくだけに板チョコレートを買ってきてくれました。繁華街の千本へ連れていってくれて、東映の映画を一緒に見ました。スター食堂へ連れて入ってくれて、Bランチを食べさせてもらいました。西陣の北西の果ての四軒長屋のひとつに、ぼくらの家族四人と祖母叔母、六人が生活していました。織子をやめた祖母は、父が面倒をみながら駄菓子屋をはじめます。駄菓子、当てもん、当てもんの当たり券は別になっていて、そこそこ残り少なくなってくると、当たり券を混ぜるのでした。

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性欲が盛んな年齢といえば、ぼくの場合、二十歳のころだと思います。もちろん17歳、高校生の頃というのも、性欲が盛り上がってきて、我慢できなくて、自慰します。発射する時瞬間の、痛いような締めつけられるような感覚が、たまらなく快感なのです。一日に一回とはかぎりません、二回、三回と自慰したこともありました。ナルシズム、ナルシスト、そんな感覚で、自分の身体をいたわってあげるのです。その当時は、まだ彼女とナマな行為はなくて、もっぱら一人で処理するだけです。山へハイキングに行って、途中で休憩をしていて、ぼくの隣に彼女が座って、なにを話していたのか、わすれていますが、ぼくは、勃起した自分のモノを、ズボンのなかから取り出し、見せたのでした。彼女は、驚いたと思います。ぼくはまだ彼女のモノを見ていませんでした。その日、山から下りてきたぼくたちは、公園の屋根付き休憩所のベンチに座りました。そっと抱きあい、そうしてぼくは、彼女が身に着けていたブラウスのボタンをひとつ外して、手をさし入れ、ブラジャーの上部から、乳房を手の平で包みました。彼女はなされるがままに、キッスに応じ、乳房を触られ、それからぼくは大胆に、スカートの奥へ手をいれるのでした。

抱かれていたぼくが腰を横にずらし、彼女の頭をうつむけにさせました。ぼくの勃起したモノを露出し、彼女に咥えるようにさせます。彼女は、従順にも、ぼくの勃起するモノを、唇にはさみ、咥内へ咥えてくれたのです。「吸って」と囁くと、彼女はじゅるっと吸って、柔らかい頭のところを唇で搾ってくれて、咥内へそのまま咥えこんでくれたのです。ぼくが右、彼女が左、ぼくは左腕で彼女の肩を抱き、右手で彼女のからだを、弄ります。彼女には、左の手指で、ぼくの勃起するモノの茎をにぎらせ、そのうえにぼくの右手をのせて、上下に動かさせ、扱くように仕向けたのです。二回目からは、この動作をしてくれるようになり、射精するスペルマを咥内でうけとめ、さすがに呑み込みはしなくて、ティッシュにとるのでした。男と女の関係が、ここまで来てしまって、結合は、もうまもなく、です。ラブホテルのなかへ入ったのは、蒸し暑い日の夜でした。初めて、彼女は、ぼくの前で、股を、ひろげ、ぼくの、勃起したモノを、受け入れたのでした。初めての彼女は、男の勃起モノを始めて挿し込まれだして、痛い、痛い、というので、それでもゆっくり、奥まで挿し込んだところで、ピストンはしなくて、終わりにしました。

ラブホテルの扉を開くというのは、恥ずかしさもあり、勇気がいりました。同伴喫茶は、何度か行くと慣れてしまいましたが、ラブホテルは、いつも何かしらの抵抗がありました。でも、扉を押して、中に入って、受付で係のひとからルーム番号を告げられ、ルームに入るとドアにロックしてしまうのでした。畳のうえの布団の側面、ベッドのうえの側面、いずれも横長の鏡が張られてありました。マジックミラーだったのかも知れません。鏡に映るぼくと彼女の裸体すがたを、ぼくはちらちら見ながら、それから座って、ぼくの前に彼女を座らせ、うしろから抱いて、手を前にまわして、彼女の乳房をまさぐり、膝を立てさせ、太腿を広げさせ、鏡に近づけさせ、彼女の上半身を反り返らさせて、股間を鏡にアップで映し出し、後ろからの手指で、そこをまさぐってやるのです。そのうち、向きあって、抱きあって、男のモノを、女の処へ挿し込んだまま、ほぼ静止状態で、ぼくは、腰を微妙に動かし、モノに力をこめてやると、彼女は、それがわかるらしく、はぁああ、っと呻きます。ぼくは、腰を左右にゆすります。お尻を前後にうごかします。男のモノが、女の処を擦る、こすってやると、ヌルヌルの愛液が、彼女の処から流れ出てくるんです。そうしてぼくたちは抱き合ったまま、外だしで果ててしまうのでした。

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表向きは硬派できていますが、内向きは軟派だと思っています。誰だって表と裏があると思うけど、建前と本音、人間って罪深い生き物だと思うんですよね。SMに興味を示すというのは、異常な領域だと思っていましたけれど、近年は決してそうではないと思えるようになっています。ぼくの場合だと、子供の頃に、奇譚クラブとか風俗草紙とか、そういった類の雑誌を読んだところから、始まっていて、浮き沈みはあるというものの、この歳になっても、興味が尽きないところです。ぼくの場合は、妄想でしかなくて、SMの現場に立ち会ったわけではなく、現場を作ったというわけでもなくて、雑誌やビデオや配信動画で観て妄想に耽るだけのことなのです。愛好家というほどでもないし、異常性欲者というほどでもない、でも興味あり、というところでしょうか。

ええ、性生活はいたってノーマルなものです。新婚当初は毎日、毎日、性交しておりました。そのうち性交しない日があり、次第に遠のくようになり、俗にいう普通の夫婦なんだと思います。それからノーマルな性戯では物足らなくなる、ということだと思います。玩具というのがある、あるある、新宿には、大人の玩具を専門に扱う店がありました。男根の形をしたバイブレーターを密かに買ってきました。試してみたら、刺激がきつすぎるのか、嫌がりました。だから振動させないで、挿入してやり、抜いてやり、生身の代わりをさせるようになりました。男の持続時間では、女の絶頂へは至らせなくなり、途中で身代わりを使いまして、最後にアクメへ昇らせるときは生身の勃起モノを使ってやるのでした。いつのころからか、男根に似たモノを自作するようになります。丹念にそういう形にして、市販品ではない代物で、きっちり抜けないように固定する紐までつけるのでした。

ハンス・ベルメールとか、ピエール・モリニエとか、シュールリアリズム系の作家たちからの影響もあったのだと思います。ロバート・メイプルソープはぼくと同い年ですが、彼の深度には、もうくらくら、めまいを覚えました。アルバイトでしたが、ブライダルのビデオカメラマンをいたしておりました。そのうちビデオカメラと録画機を下取りさせてもらって、自分たちの行為を撮るようになります。自撮りというのでしょう、自分で撮って、モニターで観る。そういうことを密かにやりだしました。スイートルームと名付けたビデオシリーズを制作していきました。1980年代の初め頃のことです。それから10年が過ぎて1990年半ばには、スイートルームを再開させまして、ビデオ収録していきます。まだネット社会が到来する前のことで、いまなら、そういう映像はネットの中にいくらでもある、ええ、もう、無修正の性交の動画が、見れるのですから。

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小学生のころによく遊んだ児童公園ですが、その頃には細かった木が、今はとっても太くなって、大きくなって、秋になると紅葉して落葉します。生まれた処に育って、今もその処に居住していて、いわばふるさとと生活の根拠地が同じなわけです。ふるさとは遠くにありておもうもの、と室生犀星が書ているけれど、そのことでいえば、ぼくにはふるさとがない、ということで、むしろこれは喜ばしいことなのだ、と思います。でも、子供の頃の出来事を思うと、自分にとっては、この場所が忌み嫌う場所でもあるのです。二十歳くらいまでは、ここから離れたい、離れたい、と思っていて、行先は東京でした。当時の風潮が、東京へ出よう、みたいな観念があって、その風潮に自分ものっかっていたのだと思っています。実際に、二十歳を過ぎて、小さな出版社に職を得て、東京勤務を希望して、東京は本郷にあるその出版社の社員となって、その近くに住むことになりました。一年未満ですが、生活できる自信がなくて、生まれ育った京都へ、実家のある場所へ、戻ってきたのでした。

ここまで、とりとめなく、思いつくままに、文章を連ねてきました。まるで迷路へ導くような反理路整然、文章作法といえば起承転結、しっかりまっすぐに根をおろさせていく、ということかと思いますが、そうではない、迷路にして、気恥ずかしい自分の内側の気持ちを、表しておきたいと考えているのです。齢75歳、もう高齢者、年寄、おじいさん、バスに乗って立ってたら、若い女子さんが席を譲ってくれます。ありがとう、ぼくが年寄だとわかるのかなぁ、帽子かぶってマスクしてるのに、年寄ってわかるんだなぁ、それはそれで従順になって、席に座らせていただきます。でも、蓮如さんが年老いて若い女に子供を産ませて、なんて話がありますが、すごいな、嫁脅しの面、それかぶって脅したのかなぁ、なんて吉崎御坊を訪ねた時には、ある種の感動を覚えました。

ここまで、また、あらためて、自伝のようなフィクションを書いていこうと思っています。ここ最近、体調がいい感じなので、けっこう文章が書けるんです。では、また、お会いしましょう、さようなら。



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最新更新日 2021.11.22

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