表現論ブログ

自分のはなし
 13〜24 2021.10.26〜2021.11.19



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府立植物園に芝生の広場があります。だだっぴろい芝生で車座というかたち、円になって座り込むんです。高校1年生になって、JRC、青少年赤十字のクラブに誘われて、はいりました。圧倒的に女子生徒が多かったと思います。それにほかの高校の生徒との交流会というのか、ままあったようにも思えます。ほかの高校は、女子高校で、女子ばっかりという具合です。普段は制服で来ている女子が、植物園のときは私服できていました。直径10mほどの車座になって、なにかゲームしているんですが、女子が立ち上がるんです。そのころの女子って、スカートの下はパンティ一枚でした。いや、立ち上がるときに、スカートがめくれて、パンティが見える、16歳の女子は、見られることも意識していたのか、フリルのついた白か薄い桃色のパンティ、それが見えるんです。とっても新鮮でした、その記憶が思いだされます。

青少年赤十字の京都本部へたびたび行くことがありました。ほかの高校の男子でアマチュア無線の免許をもっている男子がいて、無線室から電波を飛ばす、交信するという現場をみせてくれました。ぼくは、小学校の6年だったかにアマ無線免許を取りたいと思って本を読んで勉強していました。受験を申し込み、受験票をもらったけれど、受験はしませんでした。で、その夢にまで描いていたアマ無線交信の現場、本格的な無線機器の前にすわって、電源をいれて、コールしてもらいました。交信あいてはでてきませんでしたが、とんでもない体験をさせてもらいました。夏がおわって、秋になったころに、ぼくはJRCのメンバーを辞めます。理由はわかりません、いや、特定の女子を好きになったからかもしれません。鳴滝の駅での逢引きは、その年の秋か冬か、そのあたりですから。

まあ、ぼくは男子だから、興味の対象は女子です。でも男子として、男っぽさとかのレベルでいえば、決して男っぽい方ではなくて、むしろ女子的な感覚のほうが強かったかもしれません。男この子らしく振る舞う、当然のこととして、当たりまえのこととして、これ、意識して男らしく振る舞おうとするわけです。男なんだから、と意識しながら男を振る舞う、無意識から意識へ、内面は誰にもわからない自分にしかわからない、でも自分にも、それがいったいなんなのか、ということもわからないまま、大人になってきたんです。家族は四人で、女が三人、男はぼくだけ、それから半世紀が過ぎますが、これでよかったと思っています。

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中学の入学式でブラスバンドの演奏がありました。入学する中学校のブラスバンド、生演奏で聴くなんて。たぶん、生まれて初めてではなかったかと思います。ものすごい感動、からだが奮い立つ感じで、驚異の目で見たのだと思います。学校が始まって、音楽の最初の時間に、吹奏楽部に入りたい人はいるかとの話があり、ぼくは、もう無我夢中で、手をあげたと思います。吹奏楽部の先生は寺本先生、ぼくの音楽の先生は河村先生。その後の経緯は思いだせませんが、クラリネットを吹くことになって、先輩を紹介してもらいます。先輩の名前は梅田さん男子です。学年ですごく勉強ができるひとで、でも小学校は同じなのに、知りませんでした。クラリネット、ぴ〜っという音しかでない。クラリネットの音が出るまで、どれくらいかかったのか、でも、虜になった、クラリネットを吹くことの虜になりました。

小学生のころから、音感はよかったのだと思います。学芸会とか学習発表会とか年に何度か舞台に立つことがありましたけど、たいがい音楽の合奏で、主役だったことを思い出します。まあ、劇はあんまり好きではなかったから、音楽でよかったと思いますが、才能とはいえないまでも音感はそれなりにあったのだと思います。ハーモニカがありました、ソロのところをやりました。木琴がありますが、舞台では鉄琴をすることになって、特別に練習をしていました。自分でも好きだったし、ハモニカとか小学生の割には上手に吹けたのだと思います。そんなことがかさなった小学生でしたが、中学校の入学式のブラスバンド演奏には、自分もやりたいと思うのは後ですが、とっても魅力に思い、音楽の授業で募集されたとき、手をあげたわけです。それから、中学生の音楽生活が始まったのです。

小学生の上級になると射精を経験していきます。オナニー、マスターベーション、呼び方いくつかありますが、これに没頭していきます。それから父が買って隠しておいたと思うんですが、和ダンスの引き出しの奥に、奇譚クラブ、風俗草紙をみつけて、熱心に読みささります。怪人二十面相とか、子供向きの書籍は、貸本屋さんで一冊10円で借りて来て、読んだと思います。そのあいまに、ひそかに、縛り絵、縛り小説を読んだとうのです。それに、自慰がくっつくわけですから、小学生としては、やっぱり特異な体験であったのかも知れません。エロ雑誌、エロ本は、ほとんど読んだ記憶はありません。学校から帰ってきて、ひとり二階の部屋にこもって、奇譚クラブを読み、江戸川乱歩を読み、オナニーに耽っていた少年でした。

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今年は西暦で2021年、和暦では令和3年、なんとなく書いてしまいますが2021年、ええっ、もう21世紀になって21年も過ぎてしまったんだ、と驚いてしまいます。だって、生まれたのが西暦1946年、昭和21年です。75年が過ぎてしまっている、ということは表向き75才ということです。まぎれもなく75才ですが、ついこの前まで、そんなに意識はしませんでしたが、体力、気力が、減退していること。締りがないというのは肉体だけではなくて精神も締まらない。気持ちとしては、情けない気持ちに満たされてきます。あまりはつらつとしないから余計に情けない気持ちになってくるんですね。ひと頃なら、ここからまたやり直しだ!とも言い聞かせて、前向いていろいろ画策してきたんです。それがそうはならないのが、現状なわけです。

現状の健康状態を記録してみます。自分で自分を測っているだけだから、医学的な根拠とか、そんなのはわかりませんが、後期高齢者という区分をされた自分ですが、ついこのまえまで年の割には健康体だと思っていました。まわり、ともだちを見てみると、たいがい身体にダメージをうけています。最近なら、死んだ人がいます。それでぼくは、同年輩で死んだ人のことばかり思い起こします。夜、尿意を覚えて起きてしまいます。1時間ごと、1時間半ごと、この10月はこのレベルで起きてしまうから、目覚めがわるい。ふっと目が覚めて、起きて、パソコンにスイッチ入れて、いろいろ作業を進めていた日々、文章を書いて書きまくった日々、撮った写真を整理しながらアルバムにしたりしていた日々。そんな日々のことを思い出すんですが、それが出来なくなったのがここ1か月のことです。

それなりに身体がボロボロになってきていて、ここで屈折点というか、大きく折れ曲がったのかと思います。脳梗塞とか心筋梗塞とか、直接のことはいまのところ起こっていませんが、内部的には、コレステロールが高かったり、肥満だったり、やばいんじゃないかと思っています。半身不随になるとか、車椅子生活になるとか、そういう事態になることもあるかもなぁ、と思いだしています。そこで、この機会に、健康管理に気をつけよう、食べ物に気を配ろう、塩分控えめ、コレステロールを少なくする、つまり食事改善に努めようと思ったところです。家族に頼る、これしかないわけで、他人さんに頼るわけにはいかない、現金財産があるわけではないから、施設に入居ということもできないではないか。

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回顧録というのか、自分の過去を振り返って、その過去のことを記述する。なんのために、そんなことをするのか。ぼくもそのことをやっている、ここのこれなんか、まさにそういうことをしているわけで、自分のためにやっている、ということです。自分がかかわったことで、人に知ってほしいと思う事柄を、自分にも知ってあげて、整理して、自分という存在を、後世に知ってもらいたい。まあ、そういったって、有名人じゃないんだから、こういうことしていても、死んだらそれまで、はい、さようなら、です。自分が、あんなことした、こんなことした、過去の実績を並べていって、自分の社会的存在を、定着させようなんて、そりゃ思うけど、それほどの人間じゃないから、やっぱり死んだらそこで終わり、ということでしょう。

だから死ぬまでに、自分のことをというか、自分の行為を、記憶のままに記述していくことを、そうやねぇ、セクシュアルにまつわる自分の行為を恥ずかしながら、記述していこうと思っているんです。先に、奇譚クラブという雑誌のことを書いたんですが、この雑誌、知る人ぞ知る雑誌でしょうね、ここ10年ほど前に、奇譚クラブの創刊から終わりまで、ページがデジタル化されていて、ネットで見れるんですね。データーベースです。これ発見してから、ぼくは、そこの挿画をダウンロードして、手元に保存しています。数量的には全体のそれほど多くはないですが、それを編集してブログにアップしたりしていました。ぼく自身ができることは、文章を書くことで、絵とか写真とか、作ることできません。なので、ダウンロードした挿画&写真を、ぼくの文章に組み込んで、作品としてきています。

でも、たぶん、もうフィクションを書かないと思っています。体力、気力、これがだんだんと年齢とともに減退してきて、想像力も減退です。自分の裏面史といえば、セクシュアルな領域で、人知れずアダルトフィクションをネット上で展開してきて、現在に至っています。メイプルソープって奴は、ぼくと同年齢で、アメリカで、ハードコアな場面を写真にしています。映画ならパートカラーの時代から日活ロマンポルノという表歴史とは別に、ブルーフィルムとか、アダルトビデオとか、いまならネットで見れる無修正映像とか、それにあう文章を書いてきたけれど、本音的には、映像には負ける、どうしても太刀打ちできない、文章で読ませる時代ではない、と思っているところです。

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平野神社の拝殿が出来上がっていました。三年前の台風で倒壊した拝殿でしたが、ようやく新築でしょうね、出来上がっていました。平野神社とぼくとは、直接にはなにも関係ありません。近くに住んでいるといっても、ここは平野〇〇町だし、ぼくの住むところは紫野だから、それほど近い地縁でもありません。でも、近年、桜を取材していて、平野神社の桜は、絵になるので毎年撮っておりました。子供の頃にしても、平野神社は遠い存在でした。むしろ北野天満宮が近い存在でした。北野天満宮、天神さんは遊び場でもあったけれど、毎月25の縁日が楽しみで、そのころにはテント張りの見世物小屋が出ていたり、香具師っていうのか、うまく人を集めて、まがいものを売りつける、その口上がおもしろくてじっと、じっとして見ていると、子供はあっちいけ、と言われたりするのでした。それもそのはず、桜になるおっさんと口上するおっさんが交代して、わけわからんものを売りつけるのでした。

透明ガラスの間に鳥の羽根が挟んであり、その代物を女の人にかざすと、その女の人が裸になる、つまり透視ガラスとなると言うのです。そこで円陣に集まった男たちの中の一人が、それを買うというのです。買った男は桜で、香具師仲間で、次にはその男が口上するわけです。インチキ、その透明羽根ガラスは20円だったかで売られていて、何人か、買っていたと思います。インチキといえば、たたき売りがありましたね、大学ノートを束ねて売っているんですが、たたき売りの口上で、おまけだ、おまけだ、と言いながら、大学ノートを重ねていくんですが、下の方の大学ノートがはずされてしまうんです。上乗せされた大学ノートは藁半紙みたいな粗悪なノートで、はずされたノートは普通の文房具屋さんで売ってる上質の紙なのでした。まあ、雑誌の紙もよく似たもんで粗悪とはいわないけれど、そんな紙に印刷されておりました。写真のページ、グラビアページは、白い艶紙で、裸の女子が縛られて、写っておりました。

神さまのお告げじゃ、なんて向上で、女子が縛られ、祭壇に飾られ、拝まれる、という絵物語には、子供ながらに興奮して、そこから妄想が始まるというわけです。それから、ぼくの家が和漢薬の店をやっていて、医学の指導書がありました。子供にはわからない内容なんだけど、つまり男女交合、セックスするときの絵解きです。女性器があり男性器があり、それの名称と、挿入されている図です。指導書とは避妊のやりかたで、避妊の方法が書かれていて、コンドーム、ペッサリー、それのどちらかを使う、装着の図でした。とくに女子の股の奥は見えないので、ていねいに図解してあって、子供といえども男子のぼくは、とても興奮した記憶があります。小学校5年生くらいだったかと思います。平野神社には広い草叢があって、よなよな、わかい男と女がそこで、セックスするんだと年上の男子が噂して、その草叢に残されたちり紙を探しにいく、探偵団をしたりしましたね。

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まだ20世紀のころ、ウインドウズ95が発売されたころ、大阪の北新地でしょうか、扇町公園の方へいく商店街に、アダルトな本屋が数件ありました。書店の名前は忘れたけれど、その書店の二階は、大人の本がいっぱい並んでおりました。そのころは心が病んでいたんだと思います。人知られずに、その書店の二階へあがり、単行本といっても女の裸の写真集を買い込んで、自宅に持ち帰り、書棚に並べておりました。主にはSM写真集でした。まだインターネットが始まったばかりの頃で、全くネットの中にアダルトサイトがあったのか、まだなかったのか、わからないけれど、パソコンをインターネットにつなぐことは、していませんでした。もっぱら書籍で、買い求めていました。その世界にはまっていくと、大人の玩具を扱う店があるのがわかって、ちらっとそんな店へはいって、電動の玩具を買ったりしました。フェチというのか、ちょっと変な癖、自分にもそんな癖があるのに気づいて、正々堂々と、人には言わなかったけれど、自分がそこに心の安定を求めているのだと悟りました。

そういえば1960年代の後半ごろ、パートカラー映画がありました。18歳未満お断りの映画で、モノクロ映画ですが、その女の裸のところがカラーになるという映画です。封切りではなくて二番三番の上映で、三本立てで料金100円だったと記憶しています。もう半世紀以上以前の話しなので、いまから思えば、たわいない、かったるい、映画だったと思います。御所の寺町通りに文化会館という映画館があり、そこへよく入った記憶があります。まだホームビデオがなかった時代だったと思います。8oフィルム、3分間の映画ですが、観にいったことがあります。どこかのアパートの一室で、数人が集められて、拝観料500円で、警察にばれたら、逮捕されるとかの噂の映画、モノクロの無声映画で、女の局部が無修正で見える代物です。いやはや、そのころって、密室の出来事ばかりです。映画そのものが暗いところでしか上映できないんだし、見るとすれば暗い部屋、密室になってしまいます。制作者の側に立ってみたいとの願望みたいなのもありました。

ビデオの時代になって、プライベートビデオを残しています。ビデオカメラが廉価になって、ソニーの八ミリビデオ、まだデジタルになるまえのビデオですが、1995年ころから数年間、プライベートビデオを密かに制作しておりました。性の道具を作っていました。あのシュールリアリストのハンス・ベルメールを真似たかの感じで、模造男根を密かに作っておりました。そのころ自分存在への抑圧を感じていて、抑圧される人格の、世間への抵抗として、自分の底辺を支えていたと思えます。性的に高揚をもよおすように、最高に性的興奮を疑似体験させるには、どんなものか、との思考でした。生に男と女が交合することが、最高の快感だとして、そのことをフィクションによってどこまで疑似体験できるか、究極のエロティシズム、これを自分ながらに追及してきたのです。

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1946年生まれだから、2021年の今年、満75歳になりました。満75歳以上は、後期高齢者という括りになって、これまでの健康保険とは別の枠組みになるのだそうです。詳しいことはわからない、要するに、もう世の中での不要の人物、厄介者、という扱いでしょうか。姨捨山ではないけれど、老人を大切に、とか老人に生きがいを、とかもう用済みの人間群に対して、敬意をもって生存させてくれるのかとおもいしや、そういうことではなくて、世の中の厄介者、ということだと思います。ぼくは生きています。どんな扱いされても、別に怒り散らす人ではなくて、労使関係の修羅場をくぐってきた経験とか、人を馬鹿にすることで蹴落とすという悪党に、さんざんやられてきたから、馬耳東風、知らん顔して、悠々自適で過ごしています。最近、腹の底から怒るということも、なくなっています。

ええ、75年も生きてきたんです。なんか真面目に生きてこなかった気がしています。なにもかも中途半端なまま、現代進行形です。金になる商売には向いていなくて、金から遠ざかることばかりしてきたと思います。お金をもらった仕事先というと十字屋楽器店で2年間、出版社で1年間、国家公務員で24年、専門学校で2年、インターメディウム研究所で5年、55歳でフリーになって、それから金儲けが出来ないまま、20年が過ぎていて、現在です。年金生活者ですが、年収200万円、妻と一緒なので日常の生活には困っていません。いやいや贅沢はしていません。食料品も値引きのモノを探して節約しています。金持ちじゃないです。現金はゼロではないですが、それほどありません。自由気ままに生きられてることに、感謝しています。

家族以外、なにもかも無くなったと思っていますが、唯一、現在、現代表演研究所と名付けた幽霊組織を運営しています。何人かのメンバーが、月二回のミーティングに参加していて、ネット時代の広報にしています。やっぱり、これは失うわけにはいかないと、現在、思っています。これこそぼくが批判する張りぼてそのモノだと思っていて、自己矛盾ですが、その矛盾も生きている証拠だと、悪びれることもなく受け入れています。ほんとうは、タブーになる領域を研究追及していきたいところですが、いいえ政治的な領域ではなくて、エロス的な領域の研究追及です。これも、もう、現在、感じるほどの身体ではなくなって、遠ざかっているところです。これまでにコレクションした写真、ペンネームを使って書き連ねたフィクション、これをネット上に残しておこうと、ブログにまとめているところです。

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いまなら、ネットのなかで性器を無修正でみることができますが、半世紀前のころは、それは見ることができませんでした。エロ雑誌がありましたが、性器のところは修正してありました。映像、当時は映画館で観る映画ですが、もちろん見ることなんてできません。おとこのぼくには興味津々、平凡社の百科事典があって、そのなかに図解された女性器があって、そのページを熱心に見て読んで、想像力をふくらませたものでした。高校生の年代になると、オナニーするのに妄想するわけです。まだ見たことのない女性器を想像しながら、しこしこして感じて射精して終わるわけです。彼女ができて、成年になって、初めて抱きあって、性交するわけですが、覚えていますよ、むし暑い日の夜、ラブホテルへ行きました。たぶんぎこちない振る舞いたったと想像しますが、正直言います、結婚する前でした。

もう少し遡って、記憶をたどると、中学生になって図書委員になりました。図書館にかわいい女子がいる、と年上の男子が噂しているのを聞いていて、そんなこともあって図書委員に立候補したのです。Sさん、二年先輩で、彼女は三年生でした。好きになったわけではなくて、半袖のブラウスを着たSさんの匂いに、女性の匂いを感じたし、教えてもらうのに頭がぐっと接近して、身体が近くになって、初めての女性に眩しさを感じました。脇の毛が見えました。脇の毛が生えているということは、恥丘にもそれと同じ毛が生えている、陰毛というんだ、と男同士の会話を聞いていて、Sさんにも生えているのかなぁ、と思ってしまいました。友達の家には、その友達の部屋があって、そこに通してもらえて、その友達がエロ本を勉強机の引き出しから出してきて、見せてくれました。中学生というと、男子であるぼくには、女性のことは最大の関心事だったと思います。

吹奏楽部に入っていて、パレードの指揮にぼくが指名され、先頭でバトンをふる役目になりました。たぶん、女子たちには、それがぼくだと知られるようになり、密かに有名人になっていたと思います。近づいてきたのは、タエ子、家へ訪ねてきて、好きだと言いにきたわけです。これは中学三年生の春だと思えます。家に遊びに来てほしい、みたいな話で、タエ子の家へ行くようになりました。まだ生理がないの、とタエ子は告白してきます。家にはお母さんがいて、お姉さんと妹さんがいて、お父さんは寿司屋で寿司を握る仕事をしている、ということがわかりました。夏の盛り、学校は夏休み、ぼくは市場の八百屋でアルバイトしました。朝8時から夕方6時ごろまで、日当は一日300円でした。そのバイトを終えてから、タエ子の家へ行きます。女ばかり、お母さんを含め4人の女が、狭い家屋のなかにいて、男のぼくがそこへ参入するという図でした。

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1968年の春、大学に入学したのはこの年の春です。高校出て楽器店に二年間勤め、一年浪人して、大学生になりました。学費が払えるのかとかもあったけど、受験勉強の方ができてなくて、立命館の二部文学部に入学しました。学費は安いとはいっても、学生生活といっても、やっぱり働かなくちゃ、生活がやっていけないので、就職先を探していました。就職したいところは出版社、そう思っていたところに出版社の社員募集が新聞に載っていて、面接を受けにいきました。決まりました。1968年の秋から働きだしました。勤務の場所は、京大北門前、百万遍知恩寺の西となりでした。翌年1969年になると、学生運動がいっそう激しくなってきて、会社の前が封鎖されるという事態に直面しました。もう半世紀以上も前のことで、いま書き出すとノスタルジックなことになるので、ここでは深入りはやめておきます。

なにはともあれ、出版社に就職して、東京勤務を希望して、1969年の春には、東京は本郷、東大正門と赤門のあいだのまえにあった社屋に努めるようになりました。大学には休学届をだしておきました。あこがれの東京生活、小説家になりたい思いは、まず自分の環境整備からというのが本音で、いかにもそういう環境、東京、出版社勤務、そこから小説書いてデビュー、なんて夢見ていたけれど、そんなのもろくも崩れさってしまって、どうしたものかと立ち往生でした。1969.10.21というのは国際反戦デーということで、東京は大きな渦に巻かれていました。ぼくはノンポリではなくて、ノンセクトラジカルを名乗るほどでもなくて、もちろんセクトの活動家でもなかったので、単なる群衆のひとりでした。この日のデモに参加して、会社を辞職し、京都に戻って、出直しをはかったのでした。

まあ、挫折といえばいいか、大学に復学届をだして、復学を認められ、一年遅れで大学生の身分にもどりました。新聞広告で仕事をさがし、今で云う家電の量販店の販売員に応募して、採用、場所は三条商店街の西友の家電売り場でした。自分のプライドとして、そこで働くことは自分に許せなくて、郵便局のアルバイトに応募して、採用されました。集配の業務で、スクーターに乗って、速達配達、ポスト開箱、年末年始、大晦日も元旦もアルバイトで仕事をしました。それから、郵便内務勤務になったけど集配業務を続け、4月の新年度になって、貯金の内務職になりました。アルバイト、臨時補充員、事務員、事務官、そうです、アルバイトから事務官にまで、肩書が変わっていきました。大阪万博の年で、結婚して新生活にはいります。ごくごく平均所帯の生活者として家庭を築いていきます。

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1970年を越えたあたり、学生たちは同人誌を発表の場として、グループをつくっていました。ぼくもそういう文学系の同人誌に参加して、小説を発表させてもらいました。反鎮魂という名前の同人誌で、10人くらいメンバーがいたかと思います。大学の同じクラスのメンバーが多かったかと思うけど、そうではないメンバーもいました。甲斐君がリーダーで、南部君、高井君、それから阿部さん、すぐに名前が出てくるのはこれくらい、毎週、日曜日の午後、喫茶店のテーブルを囲んで、たわいない文学論を語りあっていたと思います。小説家では高橋和巳、評論家では吉本隆明、その時代の学生に人気のあった作家や評論家でした。ぼくは公務員だったし、結婚していて子供が出来ていたから、もう核家族の生活者でした。おもはゆい気持ちで、世の中に溶け込んでいこうと思っていました。

同人たちがそれぞれに就職していき、京都を離れていき、同人は解散状態になり同人誌は終わります。京都に残ったぼくを含めた三人が、勉強会をやろうと言いました。文学研究、夏目漱石をやろう、でも、実際に夏目漱石の話題で、会話した記憶がありません。とにかく、文学から遠のいてはいけない、それぞれの自分のなかで持続していかないといけない。こんな強迫観念みたいなものにうしろから押されていた感じです。ぼくは、文学から離れます。文章を書くことができなくなって、でも大学を卒業することができて、世の中、明るい兆しに満ち溢れていて、眩かった気がします。カメラを買いました。子供が二人になりました。二人とも女の子でした。カメラはニコマート、標準レンズをつけていて、子供を被写体にして、アルバムをつくっていきました。

1975年が大学を卒業した年で、カメラを買ったのは、もう学費を納めなくてもよいというので、学費分ほどの金額のカメラでした。少しづつカメラの世界に没頭しはじめます。職場にカメラクラブがあって、そこに入れてもらって、撮影にいったり、出入りしていた写真屋さんのお兄さんにいろいろ教えてもらいながら、撮影済みのフィルムを現像して、紙焼きしてもらっておりました。全日本写真連盟のことが朝日新聞の社告に出ていて、ぼくは個人会員になりました。写真サロンという展覧会が美術館で開催されるというので、出品することにしました。出入りの写真屋さんに祭りの写真を焼いてもらって、額に入れてもらって、搬入の日には美術館へ、持参しました。写真の世界、なになに、みんなの写真が美しすぎて、ぼくの写真がみすぼらしくて、泣きたい気持ちで、展示して、美術館を出ました。

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年老いてきても食べたいものはといえば、子供の時にはなかなか食べられなかった食べ物だと気づいています。鰻は、最近なら牛丼店で回転すし店で、それなりの値段がするといっても、食べられます。だから食べる、食べます。食べることには、子供の頃の羨望が混じった食べ方を、好きな食べ方として、年老いても継承しています。コロッケにはウスターソースたっぷりかけて食べる。これは子供の頃、ウスターソースは貴重品だったようで、たっぷりかけられることが、とっても嬉しいのです。カレーにだってウスターソースをかけて食べます。食べ物の記憶は、いっぱいあって、その頃の食べ物は、今の時代の高級品です。鶏卵、鶏肉、牛肉、その頃って今でいう高級な部類だと思います。食べ物のことは、生存にかかるものだから、興味がつきない、生涯の話題です。

自分の子供の頃の環境をというと、けっこう貧乏な生活者だったと思います。全体が貧しかったとも言われますが、その全体の貧しさのなかの一家族で、そこに生活する男子でした。父がいて、母がいて、父の母、ぼくの祖母がいて、父の妹がいて、ぼくら子供は男が二人。六人が四軒長屋のひとつに住んでいました。四畳半、二階は中二階で四畳半、奥に三畳の部屋がありました。四畳半に父母ぼくと弟が、夜になったら布団を敷いて、朝になったら布団をかたずける、というものでした、叔母さんは母と同じほどの年齢で、33の厄だから、と言っていたのを覚えています。この叔母さんと二階の四畳半で、小学生4年ころまで一緒に寝ていました。その後、叔母が結婚していったので、ぼくはその時から二階でひとり寝ていました。

千本には映画館があり、キラキラ輝く繁華街、細い路地の西陣京極がありました。入口に甘党喫茶のマリヤがありました。市電が走っていた千本通りには、食堂がいくつかありました。スター食堂は洋食で、叔母に連れられて映画をみたあと、ランチを食べさせてもらっていました。1950年代です。洋食を食べるなんてとっても高級な気分になって、ハム、エビフライ、コロッケ、サラダ、キャベツの千切りにマヨネーズがかかっていたのか、ウスターソースをたっぷりかけて、食べたのを覚えています。25日は天神さんの縁日で、夜に家族で天神さんへ、下の森から千本中立売に出て、千本を上がってくるコース、甘党喫茶のマリヤにはいり、父はぜんざい、母はパンケーキ、ぼくらはパンケーキだった、そのころはホットケーキで、バターとシロップで、これは美味しかった、年老いたいまでも懐かしい。

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中華料理は、子供の頃には、あまり食べる機会がありませんでした。でも、いつの頃からか、中華料理のお店ができて、夏に家族で食べに行った記憶がよみがえってきます。そのうち餃子の王将の店が街中に出来てきて、まま食べに行くようになりました。最近は、月に一回程度、二人で食べに行くようになりました。四条大宮にあるのが一号店なので、最初の店がそこだったと思いますが、ぼくたちもこの一号店へ食べに行きます。和食を食べるより、洋食を食べるより、中華を食べることが多いです。といって四川料理とか広東料理とかではなくて、和製の中華料理なんでしょうね。詳しいことはわかりませんが、餃子があり、ラーメンがあり、炒飯があり、一品料理で、酢豚とか天ぷらとかから揚げとか、B級グルメと言うのかと思っています。ここまで生きていると、食べ物屋の歴史なんて、変遷していますね。

ファミリーレストランがあちこちにできてきて、そのころ、子供も小さくて、ぼくたちも若くて、そのうち焼き肉の店ができてきて、回転すしの店ができてきて、もう外食産業花盛りとなっています。でも、どちらかというと、あまり外食しないほうだと思います。ぼく自身は外食に憧れみたいなイメージがあって、食べたい、食べたい、そう思うけど、家庭があり、そこでは家庭料理が重宝されるので、ほぼ昔ながらの手作りが主です。食べることとセックスすること、人間生活の二大欲望だと思っていますが、セックスすることは、もうままならないし、そのことを話題にすることも、社会の中では別枠になっているので、どうしたものかと思っています。アダルト、18禁、特別な枠をつくって欲望処理させてくれるんです。まだネットがなかったころ、アダルトな雑誌とかビデオとか、目の前にあるものでしか見られませんでした。

1980年ごろでしたか、ホームビデオが出始めて、知り合いの方がカメラと再生機セットを購入され、ビデオテープごと数日間貸してもらったことがありました。セットで100万円ほどするというホームビデオセットです。ビデオテープはアダルトもので、修正していないものでした。写真は、ポラロイドが評判で、密室で行為しているところを、カメラで撮って人の手を煩わせることなく、画像をつくることができます。ビデオもしかりで、カメラをセットし、密室で行為しているところを撮って、再生できるというので、高価なホームビデオセットを購入したお客には、無修正のアダルトビデオをサービスしていたのかもしれません。どこからかカタログが手に入るみたいで、知り合いがそのカタログを見せてくれて、ビデオテープの通信販売です。5本で1万円というのが相場で、買ったなかにはダビングされ尽くして画像が不鮮明なテープがありました。まだデジタル映像ではなかった頃の話です。


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最新更新日 2021.11.20




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