表現論ブログ

にっき
 2021.7.1〜2021.7.29

 

2107011
今日から7月、もう2021年も半分が過ぎたなぁ、いろいろと思うこと多しです。
画面構成を変えてみようかと思って、まあ、本質が変わるわけではないけれど。
先にちょっと硬めの文章を書いてしまって、そのうえにこの文をかぶせます。
最初は「学びの場」というタイトルでしたが「にっき」にしました。
そう、あらためて、イメージのたちのぼりを重視したいと思っています。

何を求めているのか、何処へ行こうとしているのか、わからないことがいっぱいあって、年を取れば取るほどに訳が分からなくなってくる感じです。ひと頃に書いた文章を読み返してみるけれど、言葉が硬い、薄っぺらで奥行きがない、それでどうなのかというところが欠けている。さまざまに思うわけです。そういうことをふまえて、やはり思索するというのは言葉を使ってやらなければならないと思うのです。必要なのは、そういう思索する場を作り出すことで、コミュニケーション、ディスコミュニケーション、対話することです。自分との対話が自己完結的に起こっていて、それが言葉にされるわけです。でもそれだけで終わっては対話にならなくて、相手がこちらを向いてきて、相互に言葉を交換することが必要だと思えます。言葉ではなくて、その奥に立ち昇るイメージが、ひとを生理的に安心、安定させるのだと思います。

210702
第二回目のコロナワクチン接種してもらってきました。
二回終えたということで、ホッとした気持ちで、待機しています。
翌日には倦怠感や熱が出るとの話もあり、推移を見守っているところです。
接種後12時間ほど経ちましたが、いまのところ異変は感じておりません。
撫子の花が、一輪、咲いています。

雨が断続的に降ってきています。
梅雨も末期になっているのか、これから水の被害が出るのかな。
毎年、土砂災害、水害が、どこかで起こっているけれど、今年はまだです。
このままいけば、いいのだけど、まだまだ油断は禁物ですね。
コロナも心配だけど、雨も心配です。

210703
花の名前がよくわからないのだけれど、これは葵ということでいいのでしょうか。
まっすぐに伸びて下の方から花が咲いていく、というのが葵だと聞いています。
でもそんなんじゃなくて、横に蔓みたいに伸びて花が咲いていました。
ちょっと怖い気もしましたが、中心めがけてピントを合わせ、撮りました。
新しいスマートフォンで撮った写真で、よくピントが合ってます。

インスタグラムの写真は、そのままフェースブックにも載せることができる。
ツイッターには連動しないんですね、SNSの競争相手なので、仲が悪いのかな。
まあ、ネットの世界はわからんことが多すぎて、深入りしないようにします。
もっとリアルな場所で、からだを使って、ものを作る、やっぱりこれですね。
とはいっても体力がなくて、そんな現場をつくれないし、ちょっと残念です。

210707
雨、七夕、7月7日、京都市内も雨が降っています。
きょうはもう水曜日、なんだか毎日が早く過ぎていく感じです。
もう20年も前になる自分がつくった文章を読み返したりしています。
ほんとういえば、それらは記憶の中に残しておいて、新しいのを書く。
ところで、新しいのを書くといっても、うろうろしてるだけな感じです。

社会の仕組み、様々な側面から切り開いた断面図を、見てみようと思います。
いっしょに見ていただける人が現れた、と思うのは早計ですが、その可能性あり。
その場で図解して、新しい世界の断面図を描いていきたいと思っています。
いや、そんなの、ムリムリ、無理なんちゃう、なんてことも思うけど、です。
あんまりむつかしく考えたらわけわからなくなるから、イージーでいいかも。

ふと、1989年ベルリンの壁崩壊、なんて字句が浮かんできて、光景がよみがえります。
新聞で見た、テレビで見た、その光景が、どうしたわけか、脳裏にあらわれてきます。
写真、動画、それですね、報道の枠で観た写真、映像、単身赴任先で見ていました。
それから、世の中、どんどん変わってきて、いま、どないなってるのか。
また、あたらしい世界の構築が、これから始まっていくのでしょうかね。

210709
梅雨の末期、雨雲が次々と流れてきて、断続的に大雨が降っています。
各地で、被害が出ていて、テレビのニュースは救出活動の模様を放映です。
オリンピックは、一都三県、無観客で開催するとの決定がされました。
なんてったってコロナウイルスの蔓延で、世界が翻弄されているんですから。
疫病退治の諸行事が、疫病にやられている、負けているというのです。

ぼくは、ここまで来て、もういいよな、って感じの気持ちになっています。
名誉とか、名声とか、そんなのいまさら、どうでもいいなぁ、との思いです。
でも、拠って立つ場所っていうのが、ぼくの場合、何処なのかと探している感があります。
大きな仕事をする中心にいることが、拠って立つ場所、とは今は思わないのです。
拠って立つ場所は、ふり向いて存在を認めあえる人との間に、その場所がある。

これから先、看取り、看取られる場面に直面していくわけですけど、この場所です。
自分という存在の確認が、自分のなかで出来たら、その場所を共有してもらえますか。
神さまや仏さまではなくて、生身のひとが、その場所を共有してもらえれば、最高です。
勝ち負けでいえば負けた方だし、上品下品でいえば下品の方だし、市井の一人です。
手元にまだ過去の痕跡が残っているので、この痕跡を残してもらえたら本望なのです。

210711
うちを出て南へいくと天満宮の北東角になるのですが、その手前でカメラを取りだした。
カメラを取りだすタイミングがあって、このタイミングがつかめないまま終わる日もある。
御前通り今出川上がる二丁目、というのがこのポイントだったか、今出川よりだいぶ北です。
家屋の風景は、近年増改築されているので、かなり新しい京都の町風景といえばいい。
道路幅は昔からこの広さでしたが、アスファルトになるのは60年も前になる。

自宅の周辺を、最近はときたまですが、写真に撮って、時代の記録にしています。
といっても家屋の中へ入れてもらって、生活者のレベルで生活を撮るのではなくて。
通りすがり、町の家屋と道路の風景、四季折々、というところです。
これでいいんだと、自分では思っています。
カメラを使って、いろいろな撮り方、撮る相手がありますが、これでいい。

静止画で、文字ではなくてイメージで、それにどういう説明をつけるか。
その是非について、ぼくは説明とかタイトルとか、どこまで必要なのかを考えます。
どっちかいうと、要らないんじゃないか、というのがぼくの結論になります。
イメージはイメージで存在して、見た目にイメージとして訴え、感情を揺する。
作品はこのことに特化していけばいいわけで、説明のためのイメージは、求めていません。
 

210712
1960年頃には中学生、生まれ育っている地域から外へ出たいという欲求が出ていました。
具体的には東京という場所がイメージされて、そこへ行きたいと思ってきました。
具体的に、東京住まいをするのは、1969年ですから、思春期から10年ほど経ってからです。
一年近く住んでいて、こりゃあかんわ、と思って古巣へ帰ってきて、いまに至っています。
結婚51年目を迎えていて、典型的な日本人生活を培ってきて、いまここにいます。

ヒトが移動することがあたりまえになっている現代社会に、稀なヒトだと捉えています。
遠い国から日本にやってきて、各地を移動してきて、京都にいるヒトがいます。
ぼくとは全くちがう身のあり方を、日々、生活しているヒトを見て、とっても複雑な気持ちです。
拠って立つ場所、なんてよく言いますが、思想としてだけではなくて、生活するという場所です。
1980年頃に地場を取材していましたが、この身体で2021年にも地場を取材しています。

拠って立つ場所探しだと思っていますが、もうこの年齢なら死に場所探しですね。
生まれて、ノマドして、死にゆく、ひとつの人生を、ひとつだけ許されているんです。
その先なんてわからないまま、とにかく日々喰っていかなきゃいけないから、進んできました。
プチブルだといっても、日々喰うために稼がなきゃいけなかったから、そういう人生でした。
でもぼくはノマドではなかったし、生まれて育って死ぬ場所が、同じ場所なのです。

210717
ベートーベンのピアノソナタ、いま26番、arrauさんが弾いている、よく聴いた、飽きるほど。
沁みてきます、タイトルみたら告別、今朝は、とっても心に滲みてきます。
どうしたらいいのか、久々の迷い、心が躍っているんだけど、どうしたらいいのか。
突き当りの家は、いまは空き家になっているけど、懐かしい家、間取りがよみがえります。
玄関の前までいってみることもあるけど、遠くから眺めるだけにしておきます。

arrau ピアニストさんだけど、詳しいことわかりませんが、名前は知っています。
高校の時に買ったLPレコードにアロウと読めばいいのか、この人が演奏の曲が入っていた。
シューベルトのピアノソナタだと、近年になってわかりましたけど、当時はわからなかった。
その家は女ばかり四人が生活していた家で、お父さんは寿司職人でした。
お母さんは縫物の内職をしていたように思います。

女三人姉妹、姉は17、真ん中は15、妹は13、ぼくが15才だったからそういう年齢だ。
真夏でした、白いスリップ姿の姉、真ん中はムウムウ、妹はシャツ姿でした。
いま思うと多分に艶めかしい姉妹だったと思うけど、まだ性的に目覚めていなかった。
別になんとも思わなかった、いまの子なら、意識するんでしょうね、たぶん。
そんなことない、いま思い出すと、白い下着には、ドキドキして、見ていたようにも思う。

210720
このまえ豊中のギャラリー176へ行かせてもらいました。
ZOOMを使ってのトークと映画の上映でした。
ノイズの連続のような音と映像で、言葉にはできなくて、音声と映像でした。
ぼくは、いま、むしろ、文字表現を試みていて、フィクションしようと思っています。
事実に基づいてフィクション、事実に基づかないフィクション、そららのフィクション。

生きることって、食べて、寝て、性交渉して、なまリアルな世界、これは身体の世界。
そうではなくて、バーチャルで、仮想空間で、身体と妄想の世界があります。
この身体と妄想の世界を、文字で書き連ねてイメージをつくりあげる虚構の世界。
でも、ちょっと、休止しています。
やっぱり体力、それに気力、減退しているのだと思えます。

妄想いろいろ沸き起こってくるけど、文章にしてイメージ化していけない。
根気というか、連続した思考ができなくなってきているようにも思えます。
緻密に、細部に、深部に立ち入りながら、彫刻していく気力と体力が減退です。
いずれ枯れていくのかと思いますが、それまでのつなぎとして、こんな文章。
表現の現場にいることで、維持している気力ですが、どこまでいけるのか、です。

 

210721
大船鉾が飾られ建てられていたので、スマホで数枚撮りました。
新しいスマホのカメラで撮る写真、あまり加工しなくても、撮ったままで綺麗です。
スマホはインスタグラム、ツイッターと連動させて使うことが多いのか、美しい。
インスタグラムはフェーズブックに連動して載せられるので、便利です。
といいながら、SNSではあまり記事アップをしないようにと思っています。

オリンピックのソフトボールが開会を待たずに始まって、日本が勝ったとの報。
いよいよ競技が始まるんですね、なにかと気になるオリンピックです。
暑い最中で、ほぼ無観客試合だと報じていて、テレビで観戦というところです。
観客が入ろうと無観客であろうと、ぼくにはどうでもいいわけです。
もとから観戦チケットなんて購入する気は、さらさらなかったわけだから。

ハンガリー舞曲を一番から順次聴いています。
ハンガリーの首都はブタペスト、その真ん中にドナウ川が流れています。
アンナはこのブタペストで育ったと言っていました。
ドナウ川の漣、音楽で、子供のころから聴いた曲、そのドナウ川です。
京都は鴨川が真ん中に流れていて、ブタペストと同じです、と言いました。

210725
暑い盛りです。
オリンピックが開幕して、一気に盛り上がっているように感じます。
こちらは京都なので、テレビやネットで情報を得るところです。
ぼく個人としては、地上波とBSのテレビ番組で観ているだけです。
スマホに、ハイライトが送られてくるので、最新情報はこれで得ます。

現代表現研究所を非法人で、ネットを中心に運営しています。
リアルな現場は、京都市北区のアマノコーヒーロースターズさんです。
事務局を置かせてもらい、研究会開催にもテーブルを提供してもらっています。
昨日、例会を開催しましたが、参加者は四名でした。
欲を言えばきりがない、あまり無理しないでやっていければいいと思っています。

でも定例会を開催しているから、個別の生徒さんも二名継続し、交流が出来ています。
個別の生徒さんは、現在のところぼくがインストラクターで、個別に対応しています。
複数名、教室形式で、学校として成立したらいいけれど、只今は個別レッスンです。
これまでいろいろやってきて、奢りが出ないようにしないといけないなぁ。
ぼくの行動力が減退していて、実践が伴わないので、苦慮しているところです。

210727
一昨日のことになりますが、近江神社を訪問していきました。
まえから行こうと思っていたけれど、機会がなかったので、行ってみました。
もう数年前になりますが、山科にある天智天皇陵を訪れたことがありました。
数日前には、蹴上の日向大神宮をゆえあって参拝してから、近江神宮を思ったのです。
関連は、ぼくのイメージの中にあるだけですが、京都から近江に向いたところです。

いにしえのこと、平安京以前、奈良の明日香、箸墓古墳とか、卑弥呼の時代をイメージ。
でもそれ以前のこと、縄文時代とか、弥生時代とか、近畿の先住民のことです。
その人々の集落をつくって共同生活する心の営み、心のありようについて想像したい。
人間の原点には、なにがあるのか、その心、精神、気持ち、それらのことが知りたい。
知れるわけではなくて、想像できないかと、思えて、それを表現したいと思って。

ヒトの内面というか心のことですが、近年になっていっそう興味がわいています。
肉体が滅びれば精神も滅びる、という論は正しいと思っています。
あの世なんて、生きていて、この世にいるから思えることで、存在しないと思っています。
ただ、この世での終わりに際して、どういう納得の仕方があるのか、と問うのです。
あの世があるとは思わないけど、ほんとうはどうなのか、ということです。

210728
ようやく出口が見えてきた、そんな気持ちになっているところです。
出口というのは、自分のなかの閉塞感を抜け出ていける出口のイメージです。
いずれにしても、いまの時代を生き抜いていくには、どうしたらいいのか。
経済面でもそうですが、気持面で、メンタルどうする、これの道を探る。
どうなることか、どこまでできるのか、一歩一歩、進めていこうと思う。

前例のないことしようと思っているから、どうなるかわからない。
何をしたいのかとよく問われるけれど、新しい時代をつくるための対話がしたい。
内容は、相手さんがいて、問題が浮上してきて、そこからの対話になるんです。
結論ありきなんてもんではなくて、結論みたいのが導けたらいいなぁ、との希望です。
けっこう、そんなことばかりしてきて、不安が先立ちますが、孤立無援からの脱却です。

言語にとって美とはなにか、共同幻想論、これは吉本隆明さんの著作です。
わかいころに感化された内容のところで、再度、紐解きたいと思っています。
紐解けるかなぁ、そういう不安がつきまといますが、出来る処からやりたいです。
もっと広い観点から、言語論みたいな枠で、感覚的考古学のようなのを思っています。
感覚が冴えてきてる、そんな気もしてますが、自分のなかでのことだから、嘘みたい。


210729
暑い日々が続いています2021年の夏です。
オリンピックが開催され、コロナウイルスが蔓延する日本国です。
読書しようと思って、共同幻想論と日本の原像の二冊を、手元に置いています。
数日前からは、日本の縄文文化と弥生文化の交差の仕方について思います。
4000年前後前のことになろうかと思いますが、そのころの信仰のかたちは如何に。

磐座信仰とか樹木信仰とか、自然崇拝の信仰が、縄文のころの信仰だといいます。
それから個人幻想、対幻想、共同幻想と幻想領域が拡大するころのヒトの感覚について。
検証考古学に対となって感覚考古学というのがあってもいいじゃないですか。
対になるヒトの感覚なんて、想像するしかできないけれど、今と昔と、どうなのか。
世界規模で、ヒトの内面、その変遷史みたいなのがわかったらいいなぁ、と思う。

すでに手元には資料がなくなっているけど、ヒトの内面の歴史です。
この先、どう変遷していくのだろうかと思いを馳せますが、問題は今です。
今という時代、西暦2000年代前半の今、どう捉えたらいいのか、それが知りたい。
共同して言葉を交わして、相互に理解していく、そういうプロセスを体感したい。
共同幻想論では、対幻想のことをエロス的関係とも言っていますが、このことです。




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最新更新日 2021.8.20

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