表現論ブログ

日記
1〜12 2018.8.15〜2021.6.29

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終戦の日
もう73年も前になるんですね、戦争、第二次世界大戦、日本敗戦、降伏から。
ぼくの生きた年月が72年だから、遠いようで近いような、不思議な感覚です。
最近は活字を読まなくなって、テレビで記録映像を見せてくれます。
悲劇のなかに賛意があって、なんとなくノスタルジーに誘います。
悲劇なのに、こころに訴えてくるのは、悲劇らしくなくて、でも哀しみ。

戦争を良しとする勢力が、この日本にはたくさんあるようで、どうしてなのか。
ぼくは、戦争反対であり、非武装でもいい、と思っている非現実主義者でしょうね。
武器を持つ、人間の世界、ぼくは悲しくなります。
武器を持たなくても、権力を盾として振る舞う奴らに、憤りを感じます。
平和であってほしい、そう願う一市民、です。
亡くなられた戦没者の人々には、哀悼の意を表します。

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研究会に登壇しました

日本写真芸術学会 関西支部第 6 回写真研究会
先日9月7日土曜日、ビジュアルアーツ専門学校内で発表させていただきました。
1980年代、京都の写真状況と写真活動について、中川の資料を軸に話をしました。
現在無所属の中川ですが、学会に入会したいと申し出て、先ほど入会申込をファクスしました。
かって二科会関西支部に所属したことがありましたが、その後、大きな団体には入っていません。
現会長の高橋さんは、京都でのWSに講師として来られ、金澤さんとは共に仕事をしました。
お名前を存じていて、今回初めてお会いした方、久方にお会いした方、縁が戻ってきた感じです。
掲載の写真は、現在成安造形大学副学長の金澤徹さんとのツーショットです。
ビジュアルアーツ村中校長ほか、みなさま、暖かく接していただいて、ありがとうございました。


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謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
2020年元旦


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あけましておめでとうございます。

今年は丑年、ゆっくりと歩んでいきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
2021年令和三年元旦


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2021.6.3
なんだか重苦しくなってきたので、もっとあっけからんとしなくちゃ、と思った。

それで、表現論というブログの表題は、いまどき重苦しいんじゃないかと思うのです。
でもいま、いいタイトル、表題が見つからないので、そのまま表現論ブログです。
昨日、レストランのガストへはいって、迷った末、日替わりのランチを注文しました。
トッピングに目玉焼きをつけてもらって700円ほど、スープは飲み放題でした。


食べ物のことについては、自然の方へと主義主張しているのに、実はファミレス食です。
効率よく、食品が作られていると思っていて、おいしくいただいております。
でも、食品をめぐる話題には、地球環境とかに配慮して、食を見直す方向です。
もやしパックが値下げで10円になっていて、買いますが、コスト的にどうなってるん?
卵が10個120円ほどで出ますが、すごい安値だと思うけど、生産者、採算あわせるんですね。


でも、食料品は、値上げ、値上げ、微妙に値段があがっています。
生鮮食料品は、気象条件などで価格変動があるので、なんともいえませんが。
イワシやサンマ、魚の缶詰なんて、ひところの倍の値段になっているし、ねぇ。
生活に直接影響してくる食料品なので、年金生活者、安いのを買い求めます。
生活ドキュメンタリーを思考して、表現していこうかなぁ、と改めて思います。


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2021.6.4

雨、朝から雨、仁和診療所の歯科へ、予約をいれているので、出かけます。
だんだんと雨の音が大きくなってきていて、かなりきつく降るみたいです。
金曜日なので、ごみを出す曜日です。
日常の生活、町内の、行政の、枠の中で日々の生活があります。
家族との生活があります。


浮かれているばかりではありません。
生活を守るということは、日常生活を、淡々と過ごしていくことです。
心が浮いても沈んでも、淡々と時間が流れていきます。
もう75年も生きてきて、お金儲けにあくせくしなくてもよいだけ、マシです。
贅沢はできないけれど、全くの貧困というわけでもない、けっこうな立場です。


ブログの表題、表現のブログという名前にしました。
ホームページでもなく、SNSでもなく、ブログです。
人気のブログではなくて、ごくごくありふれたブログです。
そういえば、ここはノーマルな内容を書いて、写真を張り付けています。
論を書こうと思っていたけれど、もう書けないから、ざれごと、雑文です。




京都駅の緑の窓口へ行って、金沢行きの往復切符を買い求めました。
コロナ禍の影響で、駅員さん応対の窓口は一つだけ、あとは自動券売機。
自動券売機でも買えると書いてありますが、モタモタ、もう機械操作できない。
窓口で乗車券と特急券を発行してもらいますが、支払いはクレジットカードです。
金沢に家があるので、メンテナンスかねて、月に一回程度、泊りにいきます。

エディオンへ行って、カメラを見て、パソコンを見て、小さな三脚を買いました。
ANさんが複写するのに三脚を使う、先日、ヨドバシで買ったけど、もう一つ。
ぼくはビデオを撮るためにと、手持ちで操作できる小型の三脚を買いました。
リモコンがついているので自撮りができる、ひところスイートルームを撮っていました。
いまは自撮りといっても、自分に向けて撮るなんて、しないなぁ、同席した人を撮る。

久々にショパンのピアノ曲をランダムに聴いています。
パソコンのソフトはglooveミュージックというやつで、メディアプレイの替わりです。
そういえばInternetexplorerが使えなくなってGooglechromeを主に使っています。
ネット環境がどんどん変わってきて、使えるソフトが変わってきて、アタフタしています。
動画制作ソフトも、いまはフォトの簡便なソフトで、制作しています、ああ大変、変態です。



久しぶりにここへやってきて、日記をつけるところです。
外出自粛で、ギャラリーへも行かなくて、人目を避けています。
いなかへ、サンダーバードに乗って行き来するんですが、乗客少ないです。
今日はこのあとワクチン接種に行ってきます。
コロナ禍、悶々としますが、無理しないようにと思っています。


あっけなくワクチン接種をおえてきました。
並んで待つこともなく、痛みもなく、心配していたけど、大丈夫でした。
帰りに箱寿司とちらし寿司、いつものお寿司を買って帰りました。
明日はANさんの写真レッスンの日になります。
ライティングの実習をしようと思っています。




フォーレのレクイエム、日曜日の朝、心静かに聴いています。
仮面の小さな物入を見て、ベネチアのあれね、と即答してくれたから、嬉しかった。
メジャーは竹で作られたクラシックな代物、これを置いたところを写真に。
撮るつもりなくシャッターが押された一枚だけど、なんとなく趣きがある。
明るい部屋では、こういう写真は、どのように解釈するんだろう、と思います。


レクイエムを、こういう時間に、よく聴きます。
モーツアルト、ブラームス、フォーレ、この三人のレクイエムがお気に入りです。
フォーレという作曲家のことを、あまり知らないなぁ、というより名前だけ知ってるなぁ。
ぼくなんか、音楽知ってるといっても、知ってない部類で、深いことはわかりません。
そういうことでいうと、なんでも表面ばっかりで、その奥のことは知らないなぁ。


いまさら、研究していくほどに、時間の余裕もなく、気力も無いに等しいです。
アバウトな生き方で、これまでやってきて、これからはもっとアバウトになります。
これでいいと思っているんですが、気持ちは真摯にして、感じていきたいと思う。
愛と希望なんていう、美しい言葉を、奏でていけたら、いいですよね。
そういう方にむかって、失われた時を求めていきたいなぁ、と思います。



なにをするにも億劫で、ひと呼吸してから、からだを動かしていますね。
考えごとしてるというより、いまどないしてる、と巡らすことに頭脳を使ってる。
昔からよくあることで、妄想癖といえばよいか、想像力豊かで、物語ってしまうのです。
ここ2か月ほどフィクション書いていないなぁ、どうもその気になってきませんでした。
また、事実に基づいたようなフィクションを、書いてみようか、ぼちぼちと。

今日は眼科へ行きまして、明日は歯科へいく予定です。
あっちこっち、点検してもらっていて、修理するところは修理する。
コナミスポーツジムへ行って、体力が落ちないように、つとめています。
共に学んでいけるひとがいて、どこまで共に学んでいけるのか、模索します。
20年も前になるフリースクール構想のころ、そんな日々を思い出したりします。



6月30日が夏越の祓、一年の半分が終わって折り返し点になる日です。
茅の輪をつくって、その輪をくぐるという神事を行う、そういう習わしです。
北野天満宮には、今年、もう茅の輪がこしらえられていました。
月末近くになると、平野神社とか今宮神社とか、この茅の輪がお目見えします。
ここ十年来、写真で京都を表現しようとしていて、この神事を知るようになりました。

京都思想逍遥というちくま新書を、長澤さんにすすめられて、読んでいます。
もう数か月になるのに、いっこうに読み進められなくて、でも、ぼちぼち読んでいます。
京都の何を表現するのか、という命題に、裏京都だよ、との回答をもらった気がします。
京都に生まれて京都育ちなのに、知らないことばかりですが、イメージとしての裏がわかる。
でも、まあ、写真だけで表現するには、写真は表面しか写さないから、裏は文学の世界だね。



2004年の4月に設立した総合文化研究所のホームページを見ておりました。
そのころ模索していた新しい生き方、農的生き方といえばいいのか。
そのころのことをあらためて見直そうと思っているところなんです。
共に学んでくれるひとになるかも知れないと思っての復習です。
そのころまだ点だった領域が面になってきている感があります。

胡桃の食べる寸前の写真を探していて、見つけてきて、載せます。
木の実採集のところで、一番気に入っていた木の実が胡桃でした。
そのころザルいっぱいに採れた胡桃ですが、最近は採れていません。
食料の原点として、自生の胡桃、日本の土壌での胡桃は殻が硬くて割れなかった。
二つに割るために丸ごと焼いて、隙間ができて、そこに刃物を入れて割る。

それからパンをつくる、自然酵母をつくる、麦を植える、自給自足を考える。
その後に、塩をつくるプロジェクトで、海へ塩をつくりにいきます。
手づくりの器に海水をいれて、煮沸して、塩を採る、その実験をしています。
そんなころの記憶をたどりながら、あらためて生きていくことを、考えています。
なにかしら、そういうプロジェクトになっていけば、いいなぁ、との思いです。


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今日は6月21日で夏至の日です。
地球のお辞儀がいちばん深くなる日、昼がいちばん長い日です。
この基準は、日本にいる位置からいうとそうなるのです。
南半球の位置からいえば、この反対ですね。
なにやら地球のはなしになりましたけど。


子供の頃、いまでもそうですが、宇宙にとっても興味津々でした。
宇宙の大きさのこと思うと、自分の小ささに気づきます。
ウイルスなんてもっと小さい存在、いや存在してる。
存在してないものに興味あります。
心、心のこと、情とか、心情とか、情動とか、見えないものに、です。


ラジオで、交尾のはなしをしています。
子孫繁栄のために交尾する、というはなしです。
そうやねぇ、人間もおんなじやねぇ、動物として生があり死がある。
そのあいだに子孫繁栄のために行為する、興味津々です。
もっと追求したいなぁ、枯れたからだが枯れ果てるまで、そんな思いです。

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2021.6.4
いつもはうな丼をたべるところ天丼にしました。
これに茶わん蒸しをつけてのランチ、550円、くら寿司です。
エビの天ぷらが三匹、それに魚と野菜の天ぷらでした。
これに寿司の皿をひとつ、昼ごはんで、これくらいで満腹です。
ひと頃ほど食べられなくなった、量が少なくなったとはいえ、です。

ドストエフスキーの「貧しき人びと」新潮文庫で買いました。
読んだのは比較的最近で20年ほど前かと思います。
この本が手元になくて、どうしても手に入れておきたいと思った。
すでにドストエフスキーはアンナの手元に行っているので、いずれ追加です。
それからジッドの「狭き門」これも手元になかったので買いました。

ちまちま、新書とか単行本で、活字を読んでいます。
でも、もうろくしたというのでしょうね、頭に残っていきません。
立花隆さんが亡くなっていたとのニュース、80歳だといいます。
臨死体験とか、そのほかいろいろ、読ませていただきました。
いつも最前線のテーマを取り上げられる、素敵な頭脳だったと思っています。

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昨日の現代写真の研究会では、小型のドローンを飛ばしてもらっての実習でした。
いまや現代技術の粋、操縦はスマホでもできる、優れた技術が詰め込まれています。
原子力発電の技術も、コンピューターの技術も、もう人間離れした道具だと思う。
未来を思うと、息が詰まりそうな感じで、なにもかも人工のもの、人間とは何?、です。
食料品だって、ほぼ自然のままというより、養殖、加工、遺伝子組み換えもある。

ぼくの思考は、自然の方へ、ですが、気持ちだけが自然の方へ行くだけです。
まあ、文明というか、人間社会のあるさまは、なんとかクローン人間は製造しない。
ナチスの頃、人間の油脂でつくった石鹸とか、思うだけでゾッとするものが作られた。
人間社会、いつなんどき、とんでもないことを起こす輩がいるから、要注意です。
21世紀も早21年を迎えていて、コロナウイルス、製造された奴かも知れないね。

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2021.6.29
火曜日だというせいもあるのか、ここは嵐電嵐山駅前です。
まあ、コロナの影響で、観光客が激減している京都ですが、現状、これです。
スマホを新しくして、そのカメラで撮ってみたものです。
以前のスマホと写真の出来上がり具合がちがうので、ちょっと面食らいます。
今日からは、新しいスタイルで写真を撮っていきます、過去は過去です。




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最新更新日 2021.6.30

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