表現論ブログ

そこから-1-
 1〜12 2021.2.24〜2021.4.28

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どこから始めてもいいのだけれど<そこから>というカテゴリーを作りました。
指示代名詞で<これから><ここから>につぐ<そこから>です。
この<ここ>とはどういう場所なのか、<そこ>とはどういう場所なのか。
自分のうちがわを区分するための区切り線みたいな、そんな感じです。
そこ、とは芸の領域のことで、ぼくのばあいは、小説と写真、その現場です。

十代の後半から、文章を書き出し、虚構というか小説を書こうと思いました。
作り話しに魅力を感じていたんだと思います。
小説は、硬派な内容のものを、と思っていたけど、軟派な内容にも興味でした。
書くことを再開しだした2004年ころから、世にいう官能小説を書こうと思いました。
密かに15年が過ぎていて、ペンネームを使って、ブログで発表しているところです。

そこからのそこは、官能の処からといえばわかりやすいと思います。
でも、いろいろな意味合いで言の葉を紡いでいるから、官能小説とは思っていません。
読む人に、その気にさせる内容のものを、リアルでロマンに描き出せたら、と思うのです。
写真表現では、日本発のものは性器を隠す、では文章表現では、どこまで描けるか、です。
文章表現は、リアルではないから、言葉では何でも使える、禁句はないと思っていますが。

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うっわぁああ、こってり、官能の世界だわ、腹を満たす食べ物です。
満足するけど、これだけじゃ完全な満足とは言えないなぁ。
セックスにまつわる満足がないと、ばんざ〜いとは言えないよな。
といいながら、もう年老いた肉体を、こののちどう終焉させていくのか。

食欲と情欲の世界があって、後者の方はなかなか表向きにはなりません。
でも、この表向きにならないところが、人の興味の的なのではないですか。
人がする芸術表現のなかに、情欲表現を忍ばせることも必要なのでは。
気持を傾斜させる相手は、感じる相手、今の時代は異性だけではないけれど。

恋愛、恋しあう愛しあう関係、これ、心を豊かにしますよね。
この豊かさのなかには、悲哀の感情が共存するようにも感じます。
好きな食べ物、好きな人、どちらも得たい、満足したいと欲望しますけど。
突然、汚れっちまった悲しみ、なんて詩句が浮かんできてしまいました。

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カメラがあって、写真をつくりますが、その写真のある場所を特定する。
文章の世界があって、小説とか評論文とか書きますが、それがある場所を特定する。
カメラ写真は、絵筆絵画の延長上にとらえることができると思います。
その絵画写真の底辺を支える場所として、文章の世界を組み合わせること。
いまぼくのなかで、この組み合わせる方法を模索しようと思うのです。

文学史があって絵画史があって写真史がある。
その派生として演劇があり映画があり映像がある。
あらためて全体を大きな流れとして、全体としてとらえて、個別を語る。
個別を語るのは評論批評であって、作品が作品として支えられる。
こんな関係を、レクチャーとしてカリキュラム化できたらいいなぁ、と思う。

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桜の季節が早まったように思いますが、いかがなものでしょうか。
ぼくらが子供の頃は、4月上旬、入学式があるころに桜が満開になった。
それは京都の話しだから、他地域では、もう少し早かったり遅かったりでしょう。
けれども、やっぱり全体として早まったように思えるのは、温暖化のせいでしょうか。
京都の平野神社は、桜の名所、種類が多い、魁桜という品種がもう咲いています。

桜を撮った写真は沢山あって、それぞれに個性豊かに、作品化されます。
この桜が被写体として取り上げられるのは、その桜を巡る背景の思想です。
日本を代表する花、もうこれで日本というベースができて、美の象徴、成立です。
桜を巡る思想に支えられた被写体としての桜、おおむね誰もが納得できる被写体です。
ことしも桜を撮ろうと思います、歴史を背景にして、写真を成立させようとの思いです。

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古い書棚のなかに一冊、岩波講座文学の第一巻があったので引き出してみました。
文学表現はどのような行為か、というのがタイトルで、1975年発行となっています。
全12巻の1巻目で、いまぼくの手元には、この一冊だけが残っています。
そういえば、その当時、岩波講座で、日本史とか哲学とか、出版されておりました。
それらを購入していたものの、全部ゴミとして捨ててしまったのが1990年代でした。

いま、あらためて、文学とはなにか、とか、写真とはなにか、とか問うていました。
でも、現時点でのぼくは、こういう問いかけじたいに、疑念をいだいてしまったのです。
無効だなんて全く思っていなくて、現代語で語れば、どんな話しになるのかなぁ。
写真を語り文学を語ろう、芸術を語ろうとしているぼくの、その話の原点は何かなぁ。
自分の言葉がどこまで、現代語で紡ぎ出せるのか、このことを始めようと思っています。

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見たことがあるモノしか、知らないものを見てもなんだかわからない。
でも想像力をはたらかせて、見たモノの類似で、知らないものを知ることがある。
こうして自分の知っている、あるいは想像したモノを、あわせて組み立てていく。
こんなことして、もうすっかり遠いところへやってきた気がする。
知れば知るほど、わからないことが増えて、にっちもさっちもいかなくなる。

宇宙に漂うゴミみたいな感覚で、知らない世界に突入しています。
わけわからなくなってきて、いま、どこにいるのか、わからないのです。
サルトル、昔の哲学者ですが、マロニエの根っこを見て、なんだったっけ、ね。
得体の知れない自分を発見するのだったか、もう、昔のこと、忘れました。
いま、あらたな世界へ、旅立つ意識のロケットが、ここにあるように思えます。

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このブログ、表現論ブログ、しばらく休みにします。
ここ数年、あらためて論を起こそうとして、言葉を紡いできたところです。
その気持ちは今もあるけれど、体力が気力が、盛り上がらないのです。
老いてくることで、わからないことがますます大きくなってきています。

ああだ、こうだ、と断定してきたことが、ほんとにそうなのか?、です。
ますます自分の存在に、霧の中みたいな、疑問というか、これでいいのかと。
なにを今更、と思われるかもしれないけれど、自分の居る足元が泥沼になっている。
砂上の楼閣、蜃気楼、目の前がそのようなイメージで、なにしているのか、混沌です。

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ものごとを否定的にとらえるのではなくて、肯定的にとらえようと思います。
世の中に起こっていること、それらの全てを受け入れて、そこから何ができるか、です。
新しい学校、学びの場を作り出そうと考えていて、賛同者を募っているところです。
あんまり難しい言葉をつかって、思想を構築する、なんてことは考えていません。
むしろ新しい感覚、感性、感じ方、といったあたりでしょうか。

静止画である写真、言葉で綴る文章、自分を表現する手段として、写真と文章。
あらためて、現在の表現の方法と方向をイメージとしてとらえていけたらいいな。
写真と文章のワークショップを再開したいな、と最近思っています。
写真を紡ぎ出す、文章を紡ぎ出す、その奥に潜む感性を、紡ぎ出せるようなWSを。
難しいな、言葉で語ってしまうのが、自分の欠点だなぁ、と思っているんですけど。

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いまや写真を撮る機材の主流は、スマホカメラ、ではないかと思っています。
マニアックにはフィルムをいれたカメラで撮るひとがいてるのは知っています。
一眼レフやミラーレスカメラですが、デジタルで撮るというのも多いです。
まあ、カメラマンを自認している人たちは、スマホではないカメラを使う。
スマホを使うのは、カメラを意識しないというか写真愛好者ではない人たち。

シートフィルムからブロニー判、35oフィルムと変化して、デジタルになった。
カメラの格好が、大型から中判カメラ、小型カメラと移行してきて、スマホ。
平べったい板状のカメラが、いまや主流であってもいいのではないか。
古くからあるカメラ雑誌が廃刊になる、これ時代の流れで、そういうことです。
まばたきすれば写真になる、といったお方がおられたが、いま、その時代に入ったね。

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いつも取材にいく祇園新橋界隈ですが、ひとがいない、外出自粛中ですね。
緊急事態宣言が京都にも発令されて、昨年同様、ゴールデンウイークもひと無しでしょう。
こういう時期をこえた向こうに、新しい時代の形が現れる、ということでしょう。
そういう新しい時代を、どうとらえて表現していくのか、これが問われます。
内面の時代に入っていて、表現ツールは個人が創作できるパソコンがある。

動画も静止画も、音楽も文章も、なんでも個人で作って発信できる時代です。
新しくカメラを買いましたけど、静止画と動画が作れます。
動画にもチャレンジしたいと思っていて、これまでとは違う動画を撮りたい。
音楽も無料配信のがあるらしいけど、まだ勉強しておりません。
どこまでできるのか、わからないけど、ぼちぼちやっていこうと思っています。

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自分の居場所、ということをよくイメージします。
なかなか言葉にはなりにくくて、自分がいた痕跡を見にいくのです。
光景は変化して、新しい光景にはなっているけれど、その場所は自分のなかにある。
写真に撮ってあれば、その当時の風景が見えて、自分の居場所が推測できる?。
ここに生まれたからまもなく、小学生になる直前まで、住んでいたのです。

千本三条から四条大宮へいく後院通りに面した、壬生車庫の近くでした。
市電が通っていて、花電車が通っていたのを覚えています。
和漢薬の店を営んでいた家屋に、地下室がありました。
戦前には花屋さんだったらしくて、花の保管に地下室を造ったのかと思う。
そういうところに住んでいた、幼年、おむつをしていた記憶があります。

遠い遠い記憶の淵から立ち昇ってくる陽炎のような揺らめき。
内面の、これは劇といってもいいかも、貫かれてきた自分という奴の歴史。
これは非常に現代的な、いや現在的な表現の、その源となる渦潮ではないか。
内面の闇をサーチライトで照らしてみる感覚で、自分の生命の源を探るのです。
歴史の出来事と並行しながらの外面、それとは別のセクシュアルな内面、これ。

内面が顕在化されてくるのに、誘発してくる外世界があります。
人間の興味の一面、セックスのこと、それにまつわる表現物があります。
そういう世界にまみれながら、生を営む、性を営む、ここのところをどう扱うか。
表向きには硬派で通してきていても、内向きには軟派で過ごしてきてるんですね。
これ、生きている、ということの証じゃありませんか。

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神社めぐりをしていて、今日は松尾大社とその末社、月読神社へ行ってきました。
日本神話のことがよくわからないんですが、素戔嗚の神のことですか、月読の神さん。
アマテラス、天照の神は太陽で、それに弟の素戔嗚は月、という組み合わせですか。
もう少し、古事記に書いてある神話を、頭に入れとかなくちゃいけないな。
でも、もう、もうろくした頭だから、記憶できなくて、関連がつけられない。

今日は75歳になる誕生日で、なにかと記念になる日だと、思っています。
その年齢の男子を向こうに置いて、そこから、その場所から、なにが見えるか。
これが、今後の表現のテーマというか、ベースになるところだと思っています。
感覚ですね、感情というか、そのレベルでなにがとらえられるか、だと思う。
理屈じゃない、もう、理屈が理解できない、文章書くけど、理論にならないです。






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最新更新日 2021.5.2

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