表現論ブログ

これから-1-
 1〜18 2019.8.9〜2020.11.18

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お盆行事で、お迎え、という行為があります。
解釈としては、あの世へ行っている身内の死者や先祖をこの世に迎える。
迎えるためには、いろいろ細かな手順があるみたいで、ぼくはあまり知らない。
ここは六道の道の珍皇寺境内です。
ぼくは写真撮影のために、そこへ行く。

例年のことだけど、夏のこの時期、夢幻舞台、って言葉を使っています。
自主出版ですが、この夢幻舞台というタイトルをつけた写真とエッセイです。
1983年の発行ですが、それ以来、ぼくのイメージは、夢幻舞台です。
あるいは、わが風土ーというサブタイトルをつけています。
<夢幻舞台 あるいは、わが風土ー>

先日、ぼく自身の発信のところを、かなり整理しました。
ぼくのムーブメントの広報として、たくさんブログ発信をしていました。
最近なら、フォトハウス表現塾へ導くための広報でした。
でも、空しくなっていて、惰性で続けていたけれど、バッサリ切った。
そこで、これから、どうするのか、このことがぼく自身の問題です。

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2019年10月1日、月が替わり、新たな気持ちになって、これからを語る。
まあね、消費税が10%になったという報道ばかりで、うんざりしているところです。
今日の気分は、それほど良好ではない、これはいつもとあまり変わらないです。
なんてったって、高齢になってきているから、朝の目覚めが清涼感にあふれる。
なんていうことはほぼなくて、いやな夢からさめた、その気分のような朝の目覚め。
これから、しようと思うのは、学校つくりプロジェクト、の立ち上げでしょうか。

現代・表現・研究所、この枠組みの中身を、今一度精査しなおしていくところです。
かって総合文化研究所の枠組みの上位概念として、学校の領域、を考えました。
それから15年が過ぎていますけど、あらためて、現在の地点で、学校を考えます。
学びの場、既存の枠組み、常識の枠組み、ではなくて、持たざる者の学びの場です。
持たざる者が、生き延びていくための、心の安心感、つまり幸福を得る場、です。
権力や経済にほんろうされる個人が、自分を救済するための「学びの場」生成です。

名付けて「学校をつくるプロジェクト」です。
集まれる人集まってほしいと思います。
連絡は、中川繁夫、フェースブックアドレスへ 
現在は、毎月第三土曜日にフォトクラブ京都の例会を開催しています。
学校をつくるプロジェクトの事務局を、フォトクラブ京都に置きます。
よろしくお願いいたします。

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上高野くらしとしごと研究所で、今日はくらしごとマルシェが開かれたので行きました。
伊藤さんの紹介で、オーナーの林さんに会い、事務局の中岡さんと会い、話をしました。
こちら、現代表現研究所を立ち上げていますが、リンクできないかなぁ、と思うのです。
農塾の流れも汲んで、現代表現研究所、学校プロジェクトを進めようとしています。

この流れをどうこうという従来の発想ではなくて、どうしていくのかの根本をとらえなおす。
新しい我らのための時代を、どうして作っていくことができるか、の知恵を出し合う場。
学校のイメージから共有していけるメンバーを、探しているところで、名称にはこだわらない。
参加させてもらって、勉強させていただいて、なにか役に立てれば、と思うところです。

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久々に「これから」という表題を使ってみようと思って、ここを開きました。
漱石に「それから」という表題の小説がありますが、ちょっと真似事かも知れません。
ええ、これから、どうするの?、とゆうことなんですが、どうしようかなぁ、と思う。
昨年末から区切りのことを考えてきて、転機を迎えたと思っております。
迷っていたフェースブックを組み直して、友達を縮小して、世話になった方に限定です。

SNSを使って、自分発信していこうと思っていて、表現の現場は、ネットの中でします。
昨今の環境から、SNSを使い、ブログを使い、ホームページを使って、作家するのです。
紙にしたいところですが、出版にはお金がかかるし、貯えがないから、廉価でします。
なによりも内容、テーマ、なにを表現するのか、これが一番の問題です。
カメラで写真を撮って載せます、それに文章を書くのはネットのなかでやります。

フェースブックで友達申請させていただいた方から、OKの合図が入ってきます。
再出発できそうな気持です。
写真関係の人、吹奏楽関係の人、そのほか懇意になった人、おおむねこの三つの方です。
残りの人生を、なにかとよろしくお願いいたします。

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京都表現学校の名前で、あらためて事を起こそうと考えて、部分公表したところです。
実際に具体的に学びの場を確保するとなると、今現在、その目途は立っていません。
教える人がいない、人が集まり学ぶ場所がない、これが現実なのです。
実習する道具と場所、レクチャーする場所と装置、これを共同で、やれないか。
なにより、思想のレベルの問題です。

学ぶという枠組みの必要性は、ぼくの場合もう20年ほど前に具体的な案がありました。
生きるための、夢と希望を紡ぎだす学校、学びの場、です。
競争に勝つための学びではなくて、負けそうな人が希望を持てる枠組み、学校です。
いくつか、共同できる学びの場があることは知っています。
そういうところとリンクしていきたいと思っているところです。

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藪の中というのは迷宮入りの代名詞かなぁ、と思ってしまいます。
生きていることで、解決できないことがいっぱいあって、それを解決しようとする。
お金の貸借とか、人間関係の愛憎とか、これらは解決できることですね。
でも、そうではなくて、自分の理想とか、それを実現のための思考とか、これです。
解けなくて答えが出せない、まるで藪の中にはいって道に迷う、迷ってしまう。

あんまり考えないで、感じることにしようと思います。
嫌に感じることは避けて、気分いいことに気を向けていく、いい感じにしよう。
もう、行く先そんなに長くないんだから、気に入ることだけに専念しよう、です。
腹立つこともあるし、落ち込まされることもあるけど、それを無視しよう。
生きていくのに、いやなことは取り入れない、感謝できることだけ取り入れる。

理想を語る、これは大事なことだと思っています。
生きる希望が持てる「学びの場」が必要だと思っているんです。
生きる希望って、愛溢れる、とでもいえばいいかもしれない、理解し合える、かな。
宗教を起こそうなんて思っていませんが、ひょっとしたらそれに近いのかも知れない。
まあ、夢仙人、俗世からはなれた雲の上、みたいな気持ちになれたら、いいのになぁ。

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なにを論拠とするか、これを探し求めているんですが、参考資料がないのです。
ええ、現代を解くカギ、キーワード、それから飛び立つための思想背景、のことです。
でも、どうも、まわりを見渡してみて、その論拠が見つからないのです。
下敷きにする思想背景から、飛躍しないといけないわけです。
そうするとぼくのなかに下敷きとすべく思想があるのか、と問えば、ないなぁ。
言葉は知ってる、人の名前も知ってる、でも知ってるだけで、深くは知らないんです。
たとえば、マルクス、柳田国男、これは柄谷行人さんの本に出てくるお名前です。

いまさらなぁ、もう高齢者だし、まもなく後期高齢者に位置付けされる年齢です。
アクティブに動いている世界からは、もう遠くへ来ているなぁ、と実感します。
だから、名誉職に君臨するお方が多くて、その方たちが過去の実績で、評価されてる。
ぼくは、過去じゃなくて、今、現在、なにを生み出しているのか、ここを問題にします。
アイデアだけでなくて、実行する枠組みの生成を試みるわけです。
でも、結局、アイデアしか出せてないなぁ、と反省しているところです。
だから、もう現役ではなくて退役になっているんだと思うのが正しいですね。

でも、この20年間、すくなくとも総合文化研究を提唱したころから、今までのこと。
基本原理みたいな位置から、発言、発案していると、自分では思っているところです。
その基本原理とする位置は、虐げられた場所からの発想、持たない立場からの発想です。
すくなくとも、資本に従属しない立場から、ことを起こしていくこと、に尽きます。
まあ、全共闘世代特有の、思考の枠組みなのかも知れませんね、反権力という権力構築。
この枠組み自体も、いまや解体されて、新しい枠組みが作られないと、いけないですね。
ちっとも具体的でないから、イメージ化されることも、難しいのかも知れませんけれどね。

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2001年にフリースクール構想を打ち出したんですが。
そこでは、2020年に既存システムが崩壊すると予測しています。
いよいよこれまでの大きな権力構造、経済システムが無効になってきました。
大きな話ですが、個別にあげると、教育や、生産や、メディアの環境が変わりました。
その変わり方のこと、内容なんですが、そのことを感覚として実感しています。
世界レベルで疲弊化が起こっていて、日本もたぶん、そういう状況かと思われます。

世界はグローバル化に向かっているといわれます。
資本が一極に集中していく時間の流れだといわれます。
これはどういうことかというと、個人が抑圧されていくということです。
この抑圧をいかにして退けていくか、というのが現代の課題なわけです。
そこで、資本と切り離して、人格の価値を見直すフレームが必要となります。
このフレームこそが、新しいシステムを生み出す拠点となる思想の原点です。

では、このフレームのなかには、どういうことが現象として起こっているのか。

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<表現のテーマとしての内面>
なにやら由緒あるハヤシライスだということを聞いて、食べたいと思って、食べました。
今日のテーマは、食べ物の話ではなくて、表現する中身の話です。
写真に撮ったハヤシライスの中身は、いろいろな材料が煮込まれていて、美味です。
表現の中身も、これに似せていうと、いろいろな素材が混在していて、感動する。
この感動するべきものの「質」というか「内容」そのことの話です。

「内面」という言葉があります。
風景の発見、内面の発見、告白という制度、病という意味、、、、、。
柄谷行人さんは「日本近代文学の起源」の章立てとしてこのように展開します。
これは近代という枠組みで、現代ではありませんが、ここの内面の発見です。
ぼくは写真表現という枠で、考えているんですが、漸く「内面の発見」にまで来た。

これ、写真表現の、現代表現の核になるテーマではないかと思います。
これを具体的な作者を引き合いにだして、評価を定めていかないといけませんね。
イメージとしてこのことに取り組んでいる写真作家がいるように思えます。
いや、思考が内面に向かっていて、自分の内面表現として外在するものを定着する。
坂東さん、渕上くん、ほかには台湾のセリフイー作家、ぼくが昨年に見聞した作家です。
文学では近代に組み入れられますが、写真では現代ですね、漸く始まったところです。

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<死後の世界について、この世について>
ぼくは基本的に死ぬことは肉体の滅亡で、同時に魂も滅亡する、と思っています。
このことを明確にしておかないと、ぼくが死後の世界があると思われたらイケナイから。
冥途や黄泉の国やあの世や天国とか、宗教や哲学の領域で空想の世界を論じますけど。
そういう死後の世界のことを思想史的にあることを想像力の中で想いを馳せますが。
御霊とか精霊とか、生きているうちには、あると思うことで安定する気がします。

唯物論というのでしょうか、青年の頃に、肉体滅べば魂滅ぶ、といわれているから。
それは生前の思いであって、それに歴史とか、枠組みをつくって、自分を安定させる。
さて、作家しようと公言しているけれど、作品の根拠は、モチーフはどうするのか。
空想力を見えるようにする、難しいけど、そういうことでしょう、作品とは。
写真をつくろうと思っています、それに文章でフィクションもつくろうと思います。

手元に書籍のタイトルでも見えるようにしておけば、論が立てられる、と思っていました。
でも、それを無くしてしまっても、これまでの経験から、なにか産めるのではないか。
そのようにも思って、家族が身の回りを処理しろというので、することにしたところです。
生きていて、からだの機能が衰えてきて、想像力が大きく膨れ上がる、そういうところです。
作家をする、生のための考察みたいな視点で、セックスをとらえられたらいいな、と思います。

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だいぶん身の回りの整理が進んだとおもっていますが、まだまだ残滓がこびりついています。
裸の聖徳太子像ではないですが、衣装を脱ぎ捨ててしまって、そこから何が産まれるか。
これも妄想のうちになるんだと思いますが、天から授かった宇宙観というところか。
いまは、ベートーベンのピアノソナタ、晩年頃の音を聴いていますが、すごい。
音は抽象だから、それの連なりで人の心を揺さぶりますね、としたら文字はどうなのか。
文字の連なりは理解を伴わなければならないから、音の羅列とは、ちょっとちがうなぁ。

あえて分けるとしたら、官能小説ってジャンルがあるじゃないですか。
これは読ませて、性的に興奮させて、理想はエクスタシーに至らしめること。
オーガズムといえばいいのか、アクメといえばいいのか、至福の領域へ導く。
このような言葉の連なりを創造したいと思うのですが、どうしたら実現するのか。
現代未来文学の課題ではなかろうかと思うところで、リアルロマン小説のことです。
昔、温泉場で頒布されていたガリ版刷りの物語、これの再来を求めています。

1955年に書かれたというサンドラール「世界の果てまで連れてって」生田耕作訳。
気になりながら、手元にあるのに、読んでいなかった、これは小説なのでしょうか。
ほかすまえに読んでみようかと、いま手元にとりだしています。
なんともはや、禁断のエロスの華が・・・・と帯には書かれている書ですが。
それとかって読んだ「湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死-」これも再読ですかね。
捨てるとなって愛着がわいてくる本のタイトルです。

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2020.6.21
久しぶりに<これから>のタイトルで記事を書きます。
ちょうどコロナウイルスで世界が組み変わるこれからです。
自分にとって、そんなに身のまわりが変わるわけではありません。
日常の生活については、マスクをするとか、従順にしたがいます。
もんだいは、自分の生き方の今後、このあと、どうするか、ということ。

作品をつくる、この気力とそれを支える体力の問題です。
できることしかできなくて、思うことしか書けなくて、悠々自適です。
身の回りは、だいぶん整理できて、本が無くなり写真の道具も無くなります。
あとは、好きなことを好きなように言っていけばよい、とはいうもののです。
やりたいこと、やっていることを、表とリンクできないから、困っているのです。

写真は、あいかわらずスナップ手法で、最近は人がいない風景を撮っている。
けれども別のバージョンでは、ネットからダウンロードで使っているところです。
文章は、オリジナルですけど、別名で別の枠でブログとホームページをリンクです。
分離した自分がいて、それを表裏一体のモノとして、いまのところ扱っていません。
扱えないままに年月が過ぎていて、今後どうするのか、ここが悩みどころなのです。



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まだまだ世の中、コロナ騒動一色です。
第二波が来る、そのための準備を、と呼びかけています。
ぼくはぼくなりに自粛して、感染しあいように、注意する。
世界の、国家の枠組みが変わらないまでも、中身が変わっていくでしょう。
ぼくには関係ないとは全く思っていなくて、それなりに関心事です。
でも、そのことを語っても、むなしいから、あまり語らないようにしています。

心が剥き出しになって、この心を支える社会の制度が、機能しなくなる。
家族であったり、友達であったり、心を支え合う器が、白々しく思えるのでは。
個人が内面目覚めてきたけれど、それがこれまでの器にはまらないのではないか。
新しい枠組みというか、器が必要で、この器が未成熟なんではないか、と思う。
若いひとが、これまでの言葉でいえば、心を病む状況になっている。
この病むを、そうせはない言葉に言い換える、そういう作業も必要かと思う。

なにができるのかわからないけど、その器作りをしたいと思っているところです。

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2020.6.27
歳をとっても食べ物はスタミナがつく奴を食べることが多いです。
世間常識では、歳をとると干乾びてしまうイメージで、食も細るイメージです。
たしかにそのいう傾向はあるものの、決して、食欲がなくなるわけではありません。
人によるのだと思うけれど、ぼくの場合は、食欲旺盛です。
生きる力は備わっているようで、精神は病んでも、肉体は健康なところです。

意欲といえば制作意欲、これはまだまだ衰えなくて、ますます旺盛です。
これは気持ちのレベルで旺盛なのですが、肉体的にはそれほど無理はできません。
写真を撮るとき、ぼくなんか歩いて撮影するタイプですが、体力の衰えを感じます。
そのぶん精神的なひろがりというか、イマージネーションは拡散していく感じです。
想像力によってフェクションするんですが、でも、体力がないから、無念です。


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新しい総理大臣になって、威厳を示そうとばかりに学術会議のメンバーを不承認としました。
デジタル社会を推進するといい、携帯電話料金を引き下げさせようとしてます。
GoTo、旅行や食事や買い物を、税金を使って刺激しています。
国民、生活者にとっていいこと、わること、様々織り交ぜられて未来に向かいます。

まあ、ね、年金生活者の実感として、あまり住みよい社会じゃないな、と感じます。
でも、世界には、人権侵害、まだまだ過酷な社会があって、人類、この先、どうする。
極端に、貧富の差がひろがって、貧の民が増加して、悲惨な時代だと感じています。
金がなくては何もできない、ではなくて、金がなくても何でもできる、そういう世にしたい。

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ぼくが使っているデジタルカメラ、コンパクトデジカメ、コンデジというやつ。
もうこれまでに何台つかってきたのか、ざっと7台、主にキャノン、ニコンは1台です。
キャノンのコンデジでG5Xというのを2015年に買って、それで撮ったのが掲載のもの。
相対的に暗めに写るようですが、今の機種はもっと優れているのかなぁ。
修理代43千円、この機種、まえにも修理に出しているので、二度目でした。
そういうことでいうと、スマホも4年前だけど、よく写ります。
そろそろ安いのと買い替えないと、と思っているけど、どうしたものか。
なにせ、何事にもお金がかかるから、年金生活者には辛いところです。
でも続けるなら、どこかで新しいのと、買い替えないといけませんね。

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けっこう古い写真どころか、ぼくが初めて風景を撮った、その時の一枚がこれです。
1974年ごろの石川県内灘の浜辺の風景です。
内灘の浜は海水浴場になっていて、家族で海水浴に行ったとき、横にこの光景があった。
かっこつけて写真らしく、遠近を意識して、何コマか、弾薬庫の風景を撮りました。
時代を語るための資料として、この光景はぼくの記録として残っているところです。

新しくカメラを買おうかと思って、ヨドバシカメラへ行って、カメラを見ました。
一眼レフ、ミラーレス、メーカーは、キャノン、ニコン、ソニー、いろいろです。
でも、高いなぁ、やっぱり買うのやめようか、と思いとどまっています。
今使ってるの、修理からあがってきて、ピントが合わないコマが出るんです。
こりゃ困ったというので、買い替えようかと思っているけど、思案橋です。


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2020.11.18
家を解体するまえに荷物を整理していたら、昭和21年の妊産婦手帳が見つかりました。
見つけたので写真に撮って残しておいたのを、アルバムの整理で見つけました。
自分が生まれるときの手帳で、現在なら母子手帳です。
なかには生まれてきた児の名前が記され、産婆さんの名前もあります。
ぼくの生まれた痕跡が、残っていて、ここに載せてるということが、驚異です。

新しいカメラを買おうと思って、迷っていますたが、スマホを買い替えることに。
ソニーのエクスペリア、12万円ほどするんですね、分割で月賦で払います。
機種変更というやつで、5Gにして、月賦にして、月々支払いは今ほどです。
使用料、今7600円ほど払っていますが、新機種代込みで7500円ほどです。
デジカメは見送って、スマホ、アンドロイド、ソニー製品を買うことにしました。















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最新更新日 2020.12.4

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