表現論ブログ

現代表現論
 1〜8 2020.4.7〜2021.8.13

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表現することのテクニック、技術的な方法については、最新技術を使えばよい。
カメラ機能でいうならスマートフォンについているカメラで撮影する。
このカメラで撮った写真を、スマホのなかで加工することができます。
明るくしたり暗くしたり、反転もできる、様々な機能がついていて、加工します。
というところまできて、さて、なにを撮るか、という被写体のことを考えます。

被写体と撮影する人との関係というか、モチーフであったりテーマといわれるもの。
そのテーマを決めるときの、その枠組み、方向性、社会でテーマとなっている領域。
この社会でテーマとなる領域の枠組みを、どうとらえるかということでしょうか。
最近なら、自分のこと、自分の内面について、自分とはなにか、みたいな自分論です。
その自分論から派生するイメージを、見えるものにしていけるか否かでしょうか。

自分という生身のセクシュアルな側面を、自意識的に、どのようにとらえるか。
自分の性との向かい方、具体的には身体の性のありかた、それを自意識にとらえる。
男女の性の関係、セックスの関係、男と女の交わり、潜在化していた興味の対象です。
それが様々な側面で顕在化してきている、その顕在化のプロセスを表現が担う。
男女の性関係のありかた、表現とすれば、どういう顕在化があるのか、でしょうか。

イメージとしての画像であれば、浮世絵の春画があります、これの復活。
復活する現代版として、紙媒体の出版物、デジタル媒体のネットのなか、があります。
総称として、曖昧ながらアダルト領域のなかに、うんざりするほどありますね。
それらが現代を代表する表現物だというのではありませんが、この方向です。
性を扱う、といえばわかりやすいでしょうか、小説にしろ映像にしろ、です。

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表現する目的、そして表現した目的は何か、誰に向けるのか。
人称的に言うならば、一人称、私自身に、二人称、あなたへ、三人称、彼彼女らに、の関係。
表現したものを誰に、といったとき、第三者に向ける、つまり三人称で、相手を特定しない。
おおむね第三者に三人称で、広く知らしめる、という目的で、報道なんかはそうですね。
それが、結果としてはそうなるとしても、あなたのために、エリゼのために、みたいな。
あなたに捧げる、みたいな、あなたにあげる、あげる対象を、特定して作品をつくる。
もらった人、それからその背後にいる大衆というか、その他の人へ、の距離です。

ぼくは体験したことありませんが、消し忘れビデオ、なんてことがありました。
この消し忘れビデオが、アダルト系のショップで販売されていた、そのようです。
今なら、ネットでプライベートビデオ、というタイトルの映像でしょうか。
この方向性が、現代の表現で有効だと思っても、それが本筋だとはいいません。
方向性としての問題、つまり作られた現場は、一人称二人称関係のなかです。
具体的にこの関係者が登場しなくても、この関係が構成できないか、と考えるのです。
一人称そのものが三人称のところへ、そこから現代は二人称のところへ、です。

時制と視点、ということを文章作品を制作する場合には、その整合性を考えます。
時制とは、過去、現在、未来、という時間空間のことです。
視点とは、立場というか、作品中にある作者の位置のことです。
文章表現においては、これらの関係をどう組み合わせて現場をつくるか、です。
写真や映像表現の場合なら、こういう概念は有効ですが、思わせのなかですね。
で、ここでいうのは、フィクションではなくて、ノンフィクション、生身のわたしとあなた。
それらが複合しながら、作者のなかで統一され、時制を乱し、視点をはぐらかす、これ。

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一人称、二人称の関係をとらえるばらば、わたしとあなた、で共有する「何か」を解析します。
これは気持ちの交流だと思うのです、向き合う関係、恋愛関係、そういう思い合う関係です。
かならずしも肉体関係が介在していなくても、成立するプラトニックラブがあります。
愛しあう、これが恋愛関係の根底にある、ということは言えることです。
前段で、消し忘れビデオ、と書いたことから展開させます。
このビデオが撮られた場、とはどういう類のものか、を想像してほしいのです。

ラブホテルの一室で、行為するわけですが、この行為を撮影するというのです。
撮影したビデオをどうするのか、といえば行為した二人が、それを見るのです。
見るということは、どういうことか、ここが、解析するポイントです。
行為したことを振り返って、お互いが共有する、という愛の在り方のひとつでしょう。
一人称であれば、これは自慰する自分を記録する、自分撮り、自写撮り、ですね。
性の行為が表現の大きなテーマだとすれば、この関係性こそが、作品の質となる。

日本の表現状況についていえば、かって井原西鶴や浮世絵春画を描いた江戸時代。
性表現については、けっこうおおらかだったようにも思えます。
それか第二次大戦後の風俗からいっても、文学での性の扱いも、開放に向かってきました。
でも、それらは囲い込みのなかで開放されてきていて、表現として正当な評価は受けていない。
世の中がネットでつながり、通信の深化で、ますます個人情報が重視される時代です。
アートが白々しくならないためにも、人間の性を取り戻さなければならないと思うのです。

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表現論と題した写真のシリーズを始めて半月ほどになりました。
この写真制作の試みは、技術的なことで、現代最前線ツールを使って、静止画、写真制作する。
内容は、つまりテーマは、といえば内面のことではなくて、外の枠を駆使したらどうなるか。
具体的にいうと、スマートフォンを使っています、機種はSONYのエクスペリアです。
基本的にネット展開で、SNSのひとつ、インスタグラムに掲載する。
撮影には実写ですから、現実に目に見えるものが写っていて、これを改ざんする。

スマホのカメラ機能には、いろいろな機能がついていて、アプリは内臓のカメラ機能だけです。
カメラ機能で加工した静止画を、インスタグラムの機能で改ざんし、フェースブックに掲載です。
最近でしょうか、インスタグラムがフェースブックと運営が一緒になったのか、と思います。
パソコンでインスタグラムが開けられなくて、スマホだけでの展開になります。
フェースブックはパソコンでも見られるから、パソコンで確認しています。
どんな試みができて、そんなふうになるのか、試行錯誤で、イメージを作っています。

撮影の現場ですが、人工のものが重なった風景、街の風景、それに半世紀前にはなかったモノ。
ぼく自身が二十歳だったころには存在しなかったモノが、いまは当たり前の風景となっている感。
そういうモノを静止画のなかに取り込む、主にメインイメージとしてです。
5年ほど前に「風景論シリーズ」をやっていたんですが、これの応用版ということです。
別にツイッターでも、別のバージョンで、試みをしているので、これはまた、書きます。
AI化する自分の外世界を、どう見つめていくのか、現代のテーマとしては、ここです。



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現代でなくても表現として当然の基本となることが、現代だから言えるという領域があると思うんです。これまでの価値観の変容というか、上品から下品までの区分、宗教の上品から下品の区分ではなくて、この世の為政のための上品から下品までの構図のことです。芸術、作品はこうあるべきもの、として一線を画して、芸術とそうでなもの、芸術以下に分ける分け方の問題です。たしかに犯罪という一線を設けることで生活が構成されるから、その枠からはみ出るものは排除されますし、犯罪につながる表現は芸術以下だ、という感覚です。現代は、この区分を明確にして、ミックスして、芸術の枠をひろげる、そのことを論題にするということだと考えています。

表現は、自己欲望、自己欲求を具現化させ、実現することのプロセスだと思います。ところが自己欲望も自己欲求も、ある一線を引いた線上の部分しか表出してはならないのであって、線下の欲望欲求は表出してはならない、とされるところです。この線引は、その時代の為政によって上がったり下がったり、微妙に揺れ動いています。芸術表現で、というなら、この一線上のどこで表出するか、という問題にぶつかるわけです。物語や映像で人を殺す戦争表出は、国家自体がその装置を保持しているから、フィクションでありバーチャルであるかぎり、かなり許されていると考えます。ところで、情欲を扱う領域では、欲望欲求からはかなりの制約がなされている状態だと考えます。

性的欲望欲求における領域だと、これは国や地域によって、大きく違います。その国や地域の文化背景、歴史背景などが作用するものだと考えていますが、この地域差をどうとらえるかだと思います。建前と本音みたいな区分で、またレベルでいうと、この本音のところがいかに表出しても法的に許されるか、です。国家の根幹をなす体制を、どこまで批判的に分析できるか、かってあったような体制批判を取り締まるという強権はいまや発動されにくいと思っていますが、これは解消されているのではなく、民衆の監視に権力施行者が歩み寄っているのに過ぎないわけで、これは時代とともに、時代の風潮によって変化します。


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個人を表現して発信するツールとして、ソーシャルネットワークサービス(SNS)をとらえてみようと思います。フェースブックは2004年に」創業されたとあります。ところで、ここ10年ほどでしょうか、原則、実名で登録して、実名を使うフェースブックが人気になって、世界で25億人が登録しているといいます。YouTube20億人、インスタグラム10億人、ツイッターはわかりませんが、すごい数の人が利用していることになります。このSNSで作品を発表する、というのが現代のツールを使った表現の方法のひとつ、といえます。かってあり、いまもある、ギャラリーでの展覧会、印刷物としての出版、印刷物ではないネット上でのアルバム。それがSNSは双方向なイメージがあって、これが人気のところかと、思のです。

何を撮って、SNSに発表するか、この「何を撮って」という「何」についてですが、身の回りの事柄、友だちと一緒に、それから自分自身。とくに自分自身を撮って発表する、ということ。素のままの自分というより、美人顔にしたり変顔にしたり、コスプレしたり、最近はインスタグラムが多くなっているとヵ。これが動画になってYouTubeにアップされる、という。主に写真や映像が使われます。ツイッターは、そういうことでいえば「文字」情報で、短文で、つぶやく、というスタイルになるかと思います。ぼくもこれらのSNSを使っていますが、いまいち使い方がわからない。なにを載せるかということですが、基本、自分の姿、家族の姿は載せない原則です。

現代表現の表現者が向かうホコ先は「自分」に向かっていることが多いと思えます。自分自身が被写体になる、そういう時代にさしかかっていて、主人公は私、自分、なのでしょうね。そういうことでいえば、この筆者である私自身、私のことに興味があり、私とは何か、けっこう哲学的であり、文学的である問いかけです。表現の歴史を見てみると、個人と世界という位置関係でいうと、個人が世界の存在を知る、世界に向けて批評して、自分の存在を位置づける、客観的にとか、個人的にとか、ソーシャルランドスケープとかパーソナルランドスケープとか、そういう分け方で語ってきたのが、いま、現代は、プライベート、わたしの内面、ランドスケープ、わたしの内面風景、が主流になってきていると思えるのです。


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撮った写真をギャラリー空間で展示する写真展のことです。
写真を壁面に展示する、ここ40年来は額装して、展示する方法が主流でした。
最近は、スライド展示といえばいいのか、言い方がわかりませんがインスタレーション。
ギャラリー空間にはいると、目からだけではなくて、体感させる展示が多くなった。
静止画としての写真は素材であって、素材のありかたすら変容してきています。
ぼくはストレート写真でドキュメンタリー手法で、という方法を採っていますが。
一枚一枚の写真を吟味するという位相よりも、体感させる位相に、でしょうか。
現代の写真表現について、どう解釈すればいいのか、研究したいところです。
ここに使わせていただいた写真は、波多野祐貴個展<Unveil>ギャラリー176での展示。

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現代表現論210813


雨が降るので外出を控えていて、取り出した本が共同幻想論です。
明日の話しのネタにしようと思って、少しは紐解いておこうと思ってる。
拾い読みして、メモ書きしたりしているけれど、話しにならないレベルです。
そもそも論で、ぼくには、表現とはどういうことか、という命題があるわけです。
それを解き明かそうとして、もがいているというのが現実だと思えます。

もっと実用的なところで、実際の技術論みたいなことを話題にしたらいいのだ。
そう思いながらも、やっぱり本質論みたいに思えるレベルで、話しをしたいわけ。
いかんいかん、自分をいかにも知識ありげなヒトに見させて、驚かせる手法だ。
もっとべたなところで、論を組み立てていかないと、知識の問題じゃないんだから。
結局、対幻想なる枠を話題にして、フロイトとかを引き合いに出して、語ろうなんて。

共同体とか、対の関係とか、個人と社会とか、その関係性を解く、というのではない。
個人の感覚の奥を明るみに出しながら、対なる人との接点を探る、という関係です。
共生する対幻想とでも言葉化すればいいのか、言葉以前の感覚のところを重ねる。
リアルな性的関係を結ぶ、とは別のフレームでの理解の仕方とでも表そうか。
現実に、そんなことありうるのかどうか、それはわからない、わかりません。



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最新更新日 2021.8.15

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