表現論ブログ

音楽のはなし
 1〜6 2018.3.9〜2021.2.9

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<音楽のはなし>というカテゴリーをつくりました。
とはいいながら、音楽は聴覚のところで、耳で聴くものだから、ここには合わない。
ブログに載せるとしたら、YouTubeとかからの引用で聴けるようにするのが本筋かも。
掲載した写真は、ブラスバンドの演奏ステージの静止画です。
ぼく個人のことでいえば、子供のころから音楽に親しんできたと思っています。
いろんなジャンルがありますが、主にはクラシック音楽、西洋音楽です。
中学生になったとき、吹奏楽部に入ったのが、音楽を聴くようになるきっかけ。
流行歌を聴く、演歌を聴く、その後にはテレビで観て聴く、そのこともあります。
クラシックといえば、ベートーベンから始まります。
最初は交響曲第五番「運命」、LPレコードで、ポータブルプレーヤー、ラジオにつなぐ。
その後にはステレオ装置がでまわり、ラジオではFM放送を聴くようになります。
モダンジャズもいいな、ビートルズもいいな、でもクラシックに戻る。
カラヤンのベートーベン交響曲全集をLP何枚組だったかで買ったのは1965年だったか。
シュナーベルのベートーベンピアノソナタ全集を買ったのも1965年だったか。
すでにLP版が手に入るようになって、それでも一枚2000円でした。
月給15000円くらいのときに2000円だから、高価な買い物でしたけど。
ベートーベンの交響曲を聴くようになって、ピアノソナタを聴くようになった。
そんなこんなで、ぼくの人生、クラシック音楽フアンだといえばいいと思うのです。

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音楽の話ですが、ぼくは演奏家でもなければ評論家でもないです。
ただ音楽を聴くだけのリスナー、音楽愛好者の一人です。
中学から高校にかけて吹奏楽部に入っていたので、その時からの音楽フアンです。
主にはクラシック音楽を聴きます。
バッハから始まってベートーベンまで、ショパンも聴きます。
交響曲から、ピアノ、バイオリン、弦楽四重奏とか、いろいろです。

でもベートーベンもですが、チャイコフスキーの交響曲は、特別扱いです。
高校生の頃には第六番の悲愴を聴きまくったですが、その後には四番、五番。
それから、バレエ曲もあればピアノ協奏曲もありますね。
でも、チャイコをあげるなら、心に沁みるのは第六番、悲愴、これです。
聴くとどうしようもなく哀しくなってくるから、聴かないようにしています。
最近は、作業をしながら聴いているので、感情移入はあんまりないですね。

音大をめざしたこともあった18歳ごろ、その当時にチャイコ悲愴、聴いていた。
閉塞感に埋没感に、頭の上から重たい蓋をされているような感覚の青春。
悲愴が、その感覚に輪をかけて、でも、救われる感じで、聴いていた。
文学の太宰へみたいな傾斜の仕方で、チャイコフスキーに傾斜していた。
このチャイコというひと、生きるのが哀しくてつらかったんですね。
思い出します、また別のところで書きますが、自分のことです。

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ベートーベンにヴァイオリンソナタがあるんですね、アイチューンで聴いております。
けっこう激しいリズム、テンポで、ちょっと面食らっているところです。
もっぱら聴くだけの立場ですが、音楽家のMONJIさんと音楽の行く末の話をします。
衰退している、このままではどうなるのやろ、というのです。
コンサートホールで演奏会を開いて、ナマの音楽を聴いてもらう機会が少ない。
ナマの音を聴いてもらえて、音楽として成立するのに、このままでは衰退だという。
まあ、純粋に、クラシック音楽の領域のホールでの生演奏の機会が、少ないようです。

でも流行歌、そのなかでも演歌、テレビで見ていて、番組が少ないですね。
AKBとかみたいな女子の集団音楽は、なにかとメディアが並走していますね。
ソースとメディアとが一体となって金儲けに走る、そういうことなんですが。
それでいいのかということになると、それはダメだということができます。
さてさて、それで、ダメならどうする、という対案が生み出せないじゃない。
時代の流れだとあきらめきれないけれど、しやないんちゃう、という泣きです。

最近、ブラスバンドとオーケストラの生演奏を聴く機会があります。
京都市交響楽団の定期演奏会のチケットを、譲ってもらって、今月いきます。
松ヶ崎にあるコンサートホールであるんですけど、五千円のチケットです。
ブラバントオケのコンサートは、無料から千円だけど、演奏者が売っている。
好きだから、お金を出して、演奏させてもらって、満足してる、ほんとかな。
いずれにしても、社会が歪んできているんじゃないか、と思う日々です。

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パソコンを使うようになって、音楽が聴けるので、もっぱらパソコンで聴いています。
通によると、音質が違う、とか音の広がりが違うとか、いろいろ文句があるようです。
でも、ぼくは、あまりにも無頓着な方で、あんまり気にしていません。
中学生の頃は、真空管ラジオにプレーヤーをつないで聴いていた記憶があります。
レコードでかすれたような音で、たわんで聞こえてきたのを覚えています。
だから、パソコンでイージーに聴けて、それはそれでいいと思っています。

音楽は聴いて感動する、感動させてもらうもんだと思っています。
でも音楽を作る人は、作曲であれ、演奏であれ、作る技術が必要ですね。
ぼくのいまは聴く立場だから、簡単に聴けるのがいいと思っています。
演奏会で生演奏でないとあかん、なんて申しません、それぞれの聴き方でいい。
パソコンはパソコンで、音楽を楽しませてくれるから、それでいい。

聴くための道具の話しではなくて、ぼくはその内容だと思うんです。
感動、聴いて感動する、聴く立場として、観客としてですが、これです。
演歌にしてもクラシックにしても、ぼくにはぼくなりの感動を貰います。
なんでもいいというわけではなくて、好き嫌いのレベルで、好きなのがある。
やっぱり、ついつい、そういう好きなのを選んで、聴くことが多いです。

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だれかからいただいた音楽CDをパソコンに取り込んで聴いています。
映画音楽、エデンの東とか禁じられた遊びとか太陽がいっぱいとか、これです。
土曜日か日曜日の朝に、懐かしがって、聴いています。
1960年代でしょうか、映画音楽、ムード音楽みたいな、ひとつの時代を反映です。
高校生の頃、映画館へ一人で行って観た、そういう光景も物語り的に浮かんできます。
その後パートカラーの邦画とか観るようになりますが、高校時は洋画の名作でした。

今とは時代が違う、本を読むか映画を観るか、娯楽といえば、これくらいだったかも。
音楽は、中学生の時に吹奏楽でクラリネット、高校では創部して指揮者していました。
音楽家になりたいと思うようになるのは高校を卒業したころ、音大へ行きたいと思った。
音楽の形式を学ぶ理論書を買ってきて読んでみたり、ピアノを習いにいったり。
若いころというのは、夢ばっかりで、現実がまったく見えていなかったですね。
夢が崩れていくのを、自分で自覚して、生活人になってきた、というところです。

音楽は、それを聴いていた頃のことを、記憶の映像として思い出させます。
祇園会館とか美松劇場とか、京都の映画館で、封切館ではない映画館です。
幕間にはムード音楽が流れていた記憶があります、そういう光景を思い出します。
十代の心が、どうしようもなく暴走しそうな心の疼きみたいな、そんな記憶です。
その後のぼくは、文学やったり映像やったり、中途半端な人生を送ってきました。
映画音楽を聴きながら、これでよいと思うしかないなぁ、と思うところです。

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西洋音楽というのか、それに対して邦楽というのがあって、後者は日本の音楽のこと。
邦楽について、ぼくにはほとんど知識がありません。
雅楽とか、歌舞伎の時にでてくる音楽とか、謡とか、長唄とか、わけわからんです。
勉強しなかったのが怠慢だったといえばそういうことで、学ぶ機会がなかった。
戦後生まれ、戦後教育を受けたなかに、日本の古典音楽とか、習わなかったです。

日本の音楽といえば、流行歌、当時でいえば美空ひばり、島倉千代子、好きでした。
三橋美智也、春日八郎、とっても好きでした。
父親がレコードを買ってきて、プレーヤーを接続したラジオで聴いていたのでした。
童謡が好きでした、学校で習う唱歌よりも、童謡がとっても好きでした。
ミカンの花が咲く丘、とか美しい声、いまでも歌声が脳裏をかすめてきます。

でも、結局、音楽家にはなれなくて、音楽愛好家として、リスナーとなります。
ほぼクラシック音楽で、LPレコードの時代で、それなりにコレクションしました。
その後、1980年代半ばごろからでしょうかレコードからCDになって、CDを買います。
いまは、パソコンで聴けるように、ディスクトップパソコンで、音質の良いのを買います。
現在、朝一番、クラシック音楽で、ライトミュージック、軽いのを聴くことが多いです。







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最新更新日 2021.3.27

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