表現論ブログ

音楽のはなし 自己表現の道具
 1〜 2018.3.9〜2018.7.19

 

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<音楽のはなし>というカテゴリーをつくりました。
とはいいながら、音楽は聴覚のところで、耳で聴くものだから、ここには合わない。
ブログに載せるとしたら、YouTubeとかからの引用で聴けるようにするのが本筋かも。
掲載した写真は、ブラスバンドの演奏ステージの静止画です。
ぼく個人のことでいえば、子供のころから音楽に親しんできたと思っています。
いろんなジャンルがありますが、主にはクラシック音楽、西洋音楽です。
中学生になったとき、吹奏楽部に入ったのが、音楽を聴くようになるきっかけ。
流行歌を聴く、演歌を聴く、その後にはテレビで観て聴く、そのこともあります。
クラシックといえば、ベートーベンから始まります。
最初は交響曲第五番「運命」、LPレコードで、ポータブルプレーヤー、ラジオにつなぐ。
その後にはステレオ装置がでまわり、ラジオではFM放送を聴くようになります。
モダンジャズもいいな、ビートルズもいいな、でもクラシックに戻る。
カラヤンのベートーベン交響曲全集をLP何枚組だったかで買ったのは1965年だったか。
シュナーベルのベートーベンピアノソナタ全集を買ったのも1965年だったか。
すでにLP版が手に入るようになって、それでも一枚2000円でした。
月給15000円くらいのときに2000円だから、高価な買い物でしたけど。
ベートーベンの交響曲を聴くようになって、ピアノソナタを聴くようになった。
そんなこんなで、ぼくの人生、クラシック音楽フアンだといえばいいと思うのです。

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音楽の話ですが、ぼくは演奏家でもなければ評論家でもないです。
ただ音楽を聴くだけのリスナー、音楽愛好者の一人です。
中学から高校にかけて吹奏楽部に入っていたので、その時からの音楽フアンです。
主にはクラシック音楽を聴きます。
バッハから始まってベートーベンまで、ショパンも聴きます。
交響曲から、ピアノ、バイオリン、弦楽四重奏とか、いろいろです。

でもベートーベンもですが、チャイコフスキーの交響曲は、特別扱いです。
高校生の頃には第六番の悲愴を聴きまくったですが、その後には四番、五番。
それから、バレエ曲もあればピアノ協奏曲もありますね。
でも、チャイコをあげるなら、心に沁みるのは第六番、悲愴、これです。
聴くとどうしようもなく哀しくなってくるから、聴かないようにしています。
最近は、作業をしながら聴いているので、感情移入はあんまりないですね。

音大をめざしたこともあった18歳ごろ、その当時にチャイコ悲愴、聴いていた。
閉塞感に埋没感に、頭の上から重たい蓋をされているような感覚の青春。
悲愴が、その感覚に輪をかけて、でも、救われる感じで、聴いていた。
文学の太宰へみたいな傾斜の仕方で、チャイコフスキーに傾斜していた。
このチャイコというひと、生きるのが哀しくてつらかったんですね。
思い出します、また別のところで書きますが、自分のことです。

 

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<自己表現の道具>
 インスタグラムでフォトグラフ(写真)をアップしてコミュニケーション(会話)するというのが、今の最前線でしょうか。インスタグラムはソーシャルネットワークサービス(SNS)のひとつで、現在、フェースブック、ツイッター、インスタグラム、これが世界で人気の大手三つのSNSだ。もう消えてしまったSNSもあるが、ミクシーはまだまだ元気のようだ。それぞれに、閉鎖された個人間またはグループで、交信ができる。これにはライン、メッセンジャー、スカイプ。電話、テレビ電話、それも無料、つい最近までは夢だったことが実現している。

 使っている者からの実感としては、facebookがほぼ実名にて使うから、現実の人間とバーチャルな人間と同一人物として認識するから、とってもすっきり使い良い気がする。ツイッターもおおよそ実名での使用だから、facebookと同じ感覚で使える。ただし、情報の流れる速さでいえば、ツイッターは目まぐるしい。総合的にFacebookに軍配があがると思う。ただ、ツイッターはおおむね単機能に比較してfacebookが多機能ということで、使用者の使い勝手が分かれるところだろう。

 そういうレベルでいえば、インスタグラムは、ハンドルネームを使い、文章を極端に短くでき、または文章なしで、スマホに添付のソフトで、静止画および動画が撮れて、その場で発信できるという手軽さだ。若者に受けているという背景には、この手軽さ、イージーさ、それにコミュニケーションしやすい。なによりインスタグラムは赤いハートマークで、なんとなく、気持ちが共有できる。インシタ映えという流行語を生みだしているが、これは匿名性と簡便性が支持されてるのだと思う。

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芸術という分野があって、そこには歴史があって、今現在がここにあります。絵画の歴史、立体彫刻の歴史、陶芸の歴史、ここでは絵画を中心とする流れを、俯瞰してみようと思います。というのも、写真は絵画から発生してくる感じだし、映像は写真から発生してくる感じです。絵画から写真へ、具体的には1939年に写真術が発明、とされているから2018年現在でいえば、180年ほど前の欧州ということになります。絵画には絵画の歴史があって、それを制作した人、画家がいて、その画家と出来上がってくる絵の関係を探っていくと、画家の想いということが露わになってはこないか。いま、ここでいう自己表現、その道具としての絵画を介しての自己表現です。

 もちろん自己表現というとき、単純に、自分の内側を外に表すことだ、と一義的には言えると思います。この内側を外に表すための道具として、絵は絵の具を使い、筆を使い、材料として絵の具を使う。絵の具になるモノの種類とか、筆の使い方とか、道具をどのように使いこなして「絵」に仕上げるか、といった技術のことが解析されます。そういうことの流れでいえば、絵を書くという技術に対して、写真という代物は、光が描く絵、筆を走らせなくても、光を当てることで絵が描ける。そういう置き換えの方法を生み出したのがフォトグラフ、日本語で写真という代物です。自己表現の道具という以上に、写真の最初は技術的な問題をいかに解決するか、といった化学者的な思考が優先されたのであったと思います。そんな写真に、自己を表現する道具として意識されだすのは、いつ頃からでしょうか。

 自分の外にある世界に対して、自分の価値観によってその世界を見るとき、その世界が「どういう」ものななかとの自己判断が伴います。たとえばステーグリッツの写真「三等船室」(1907年)ですが、ここには移民の様子が目に見える形で表されるのだが、そのなかでもステーグリッツは下層といわれる人々が移民してきた船底の光景を上層の人々との対比で捉えています。この視点、このステーグリッツが注目した視点が、自分が感じて思想化した光景への想いを表した。つまり「自己表現」をした。その道具としてカメラを使った、ということになります。これは自己表現ということと、そのための道具ということの証しといえます。これで、問題が解決したわけではなくて、このことを前提にして、自己表現とは何かを探っていかないといけないのです。道具はカメラです。

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自分を表現するということは、自分の欲求を満足させるために行う外的な行為だと思うんです。このことでいえば、生活するレベルで、お腹が空いた、あれが欲しい、これが欲しい、という日常の生活を潤していく欲求を満たすことになります。そこそこ、この欲求が満たされる環境になれば、自己実現する方へ向かうと思っています。対象となる相手に対して、自分を認めさせる、認めてもらう、という行為でしょうか。この相手との関係を捉えることが、変遷してきていると思うんです。端的に、今はどのような時代かといえば、ぼくは、個人の内面が、個人と対面している相手の内面と、その価値観というか気持ちを共有する時代だと思うんです。

 かって権力関係なんていうとらえ方で、上下関係とか、大きな全体と小さな個人の関係とか、そのような関係のなかで自己表現が試みられたかと思います。基本的には政治とか経済とか、社会を動かす枠組みに、その一つとなってあることは個人として認められることだったのではないかと。でも、いま、そういう関係を外しても成立するように思想できる時代になったと思うんです。社会の変化、人間のとらえ方の変化、個人のあり方の変化、といえばいいと思います。脱権力、水平関係、あなたとわたし、このプライベートな関係を求めてもいい時代になっていると思います。これは主体としてのこちら側の立場で、ここから表現するというのです。自分を発信するというのです。自分の内面を発信して、客体としての相手の内面に受信してもらう、この関係です。

 個人の内面を、個人が見つめ、考察する、ということが現在のテーマだと思うし、その方法が作品を生み出すベースになるのではないかと思うわけです。あなたとわたしの間で、なにを根拠にして共有しあえるのか、それを情のレベルで感じあうということ。確認の使しようがないんですが、確認の抱負は言葉、それに類する記号、それを合図として交換することか、とも思われます。そうなんですよね、表現すること、そこに社会性を求めた時代から、かってある社会性を求めなくてもよい関係のなかで、なされる情の交換、これですね。情とは、感情、情感、個体の内部に生成してくる感覚とでも解釈しておきましょうか。時代とともに解釈が変わるかと思いますが、その解釈を提起できるかどうか、表現のありかた、です。

 

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自分をアートの形として表現する、自己表現の手段だと思って作品を制作する。
制作して発表する、このプロセスで、自分に戻される思考って、基本的に必要だと思うんです。
でも、この自分という立場をベースに置く、という制作態度が、昔からあったとは思いにくいです。
自分をとらえるという問題は、近年、ぼくの感覚では、文学においては私小説、1930年代でしようか。
写真においては1960年代後半からではないかと、考えています。
いずれにしても、自己を捉える視点というのは、近年に起こってきた潮流だと思えるのですが。
いわゆる<自己の発見>、柄谷行人さんは<内面の発見>という名称を使っておられますが。
まだまだ、自分を捉える、という視点は、写真表現においては、一般化していないように思えます。



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最新更新日 2020.1.14

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