表現論ブログ

フォトハウス
 1〜9 2017.12.3〜2019.12.10

 

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ここはけっこう正座してきちんと文を書かないといけない、なんて固定観念で縛ってしまって、なかなか文章が書けないので、そんな観念吹っ切って、ちゃらんぽらんでもいいから、文字を埋めよう、と思ったところです。雑文でいいと思うのですが、先日、今年の流行語大賞のひとつに「インスタ映え」というのがありましたね。そんなに流行っているのか、と思うと同時に、これは写真のあり方が変わった証拠だな、と思ったところでうす。でも、待ってよ、変わった証拠もなにもなく、変わる前の写真概念なんて、関係ないところで生じてきた現象じゃないですか。インスタグラムは、写真を前に出したSNSだから、文章苦手なひとには、めっちゃイージーな道具です。写真で撮って数秒でアップロードできる。写真は、シャッター押したら写るから、暴言ですが、言葉が要らないわけです。

 フォトハウス表現塾/写真、なんていう学びの枠組みを提示したその日に、インスタ映えが流行語大賞になったということで、ぼくとしてはショックどころか、落ち込みなんてしません、いよいよ、そういう時代なんだと認識して、写真を巡る論の一角に、インスタグラムの表装を賛美することを贈りたい、と思う気持ちです。写真を巡っては、いくつもの枠組みがあって、それぞれの系列に論を与えていくというのが、妥当ではないかととらえます。なにより、スマホは簡単に写真・静止画が撮れます。写真の奥にある意味は、なんてことを言いだすと、旧態依然としたストーリーしか生まれてこないから、それらのストーリーとは違うストーリーを汲み出せるメンバーの出現を、と思うところです。フォトハウス表現塾の枠組みが、そういうメンバー輩出のバックグラウンドになればいいなぁ、と思います。

 フォトハウス表現塾の写真講座を開塾する場所が、アマノコーヒーロースターズさん。掲載した写真がそこのマスターとカウンターです。美味しいコーヒーをたしなみながら、写真のあれやこれや、表現することの、その奥になにがあるのだろうか、と詮索できるような余裕あるレッスンにしたいと思うところです。講師は当面中川が担いますが、インスタ映えする写真を志向するメンバーで、語れるひとが現れたら、そのひとに任していくつもりです。写真から始まったけれど、映像、文学、音楽、表現の全体を、針で穴を開ける作業でつながっていきます。イマジネーション、想像力ですよ、やっぱり。滑稽でもいいから、薄っぺらだと言われてもいから、新しい想像力で、世界地図を描いていかないといけないわけです。柔らかな思考回路をもった老若男女、フォトハウス表現研究所の会員に登録して、表現塾を創りあげていこうではありませんか、と滑稽に選挙演説みたいにして、説きます。

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1984年に設立されたフォトハウスですが、現在は写真の表現塾を開塾しています。
主宰者は、中川繁夫、いまやマルチに思考する老人です。
このブログの名称は「美術・写真・映像・音楽・文学」とアート領域を網羅しています。
これはアート領域の、根底に共通する個人の、考え方や、感情の在処を、探るのが目的です。
アートをめざす人が、技術的なことだけではなく、その内容、コンテンツをどう作るか。
いちばんの根本にあることだと考えていて、そのことへ、どうアプローチするのか。

それは、アート作品を貨幣の代わりに使うということではなく、生きる本質に迫るもの。
こんな、わけのわからないと思われる、大体の人が避けて通ろうとする領域へ、降りていきます。
アートのそれぞれには、テクニカルなこと、テクニックの取得が必要です。
でも、テクニックのことだけでは、ダメだということもお分かりかと思う、闇の部分。
言い方わるいけど、闇の部分を、どうやって明るみにしていくか、この作業が必要でしょう。
フォトハウスが、いま求めるのは、このことです。
へんに下部に融合していくことではなく、理想を追い、理想の中身を求めること。

只今<カフェ&プレス>という場を、具体的に顔を合わせられる対面の場を、作っています。
京都の北区紫竹の、<アマノコーヒーロースターズ>のお店のデスクを、この場にしています。
新しい捉え方をするための、トレーニングの場、ブレーンストーミングの場、とし機能します。
ここに掲載している写真イメージは、アマノコーヒーロースターズの店内風景です。
手前のデスクが、具体的な対面のデスクです。
資本を持った組織や個人が資本に任せて展開するアートではありません。
持っていない者が集まっていく、古い言い方ですが草の根運動みたいなもの、これです。

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最初、写真舎という名前を使っていたのですが、そのまま英訳してフォトハウスとしました。
東松さんからは、バウハウスを想起しているのか、と問われて、意識していますと答えました。
その後、デジタル・バウハウスとの呼び名が出てきたときには、フォトハウスを想起しました。
新しい時代をさきがけて、新しい潮流を創生していく組織体としての、デジタル・フォトハウス。
フォトハウスがこだわるのは、静止画を制作するということの全て、です。
いまや静止する画像と、画像が連続する二次元映像、視覚的に立体化する映像態があります。
一枚の静止画は、具体化するイメージの原点です。
静止画は、絵画から始まり複製可能な版画、そこから写真術が発明されてきます。

ニエプスが最初に画像を得たのが1826年とありますから、それからおよそ200年が経ちます。
人間が描く絵画ではなく、自然が描く絵画として、日本語で「写真」フォトグラフィーです。
写真術は、ゆっくりと生成してきて1990年代になってデジタル化してきます。
いまやカメラはデジタルカメラ、カメラの構造、記憶素子はフィルムからデジタル信号です。
写真の歴史200年、そのいつの時代を輪切りにしても、そこから作品が生じさせられます。
新しい方法にだけに、優先的に価値を与える、という方法はとりません。
ただ何時の時代もそうですが、最大の関心ごとは、今、新しい機材が作り出す作品のことです。
フォトハウス表現塾を創っていきますが、そのなかみは、写真200年史の全体が対象です。

写真というコアがあり、その周辺に、並列的に絵画、映像があります。
時系列に並べると、絵画、写真、映像、ということになります。
映像は、バーチャルリアリティを獲得し、メディアアートへ展開してきています。
絵画、写真、映像の流れは、技術的なサポート、機材の開発によって展開します。
アーティストは、それぞれの時代に、その機材によって新しい作品を生み出します。
このときの「新しい作品」そのものは、文学や音楽の潮流と交流すると考えています。
意味するもの、価値生成させるもの、それが言葉であり、文学領域であると思っています。
分化させたセグメントを組み合わせていく作業が、いま思考的に求められているのです。

 

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 フォトハウスって名前を使いだすのは、1983年頃だと思えるんですが、この「映像情報」にその構想を載せたのが最初です。ワイマールで始まったバウハウス。ナチの弾圧で教授たちは世界に散らばり、主にアメリカにおいて継承される芸術運動としてのバウハウスです。これをもじってフォトハウス、正直に申し上げますが、ぼくのパクリです。でも、フォトハウスの構造は、2018年の今でこそ、当たり前みたいな枠組みですが、1983年当時には、けっこう夢物語みたいなことでした。もう一言加えさせてもらえるなら、フォトハウスの構想は、写真家東松照明さんとのセッションの中から生じてきた構想で、1984年に発表にあたっては、時期尚早、資本にかすめ取られるだけだから、温存しておいて、企画だけだせばいい、とのアドバイスを受けた、これ、事実です。ただし、お酒を飲み、お食事しながらの会話でしたけど。でも、その構想は発表することになります。

 映像情報という冊子は、共同で発行する冊子を、と考えていたんですが、結局、中川の個人誌というところから脱皮できませんでした。東京に佐藤元洋がいて、彼は「COPE」という個人誌を出していました。そうしたことからか彼と懇意になって、情報交換しておりました。後になって「映像情報」を見ていたというお方に巡り合えたりします。大島洋が編集長の「写真装置」が発行されるのは「映像情報」第一号から数か月遅れです。「オンザ・シーン」誌の発行は、1980年秋、ほぼ同時期ですが、知るのはその後です。フォトハウスの構想は、映像情報の記事としては具体的な組織図にまでは至っていなくて、名称だけでした。具体的な文書となるのは1984年11月のことでした。写真誌ということでいえば、1972年4月創刊の黒沼康一率いる「地平」があります。遡って東京では1968年11月創刊の「プロヴォーク」があります。中川のレベルでいえば写真ではなくて文学同人誌に参加していて「反鎮魂」第三号が1971年11月発行です。当時は同人誌、ミニコミ雑誌といわれる時代です。1980年の構図でいえば、東京で写真装置とCOPE、関西でオンザシーンと映像情報、共同発行と個人発行、という四角関係になります。

 別のところでも書いているんですが、情報誌、出版、印刷物、これを作って発行してばらまくというのは、かなりの労力がいったと思います。もちろんお金を積めば、印刷とかできます。でも現在と違って少部数発行とかいっても100部とか200部とか、それでもお金がかかります。フォトハウスは、流れ的に言うと、中川の個人的な経験によって、ほぼ手作り的な印刷物でした。いやいや、こんな話ではなくて、内容の問題です。その印刷物の中にはどのようなことが書かれ、どのようなイメージが使われたのか、ということでしょう。文学は置いておくとして写真ですが、出版媒体としてのカメラ雑誌があります。当時は「カメラ毎日」「アサヒカメラ」「日本カメラ」「フォトコンテスト」写真愛好者向けには、これらの月刊誌が書店に並んでおりました。「写真時代」とかの雑誌は、1980年代初めでしょうか、一世を風靡します。写真イメージを表現物として捉え、作品として捉える視点、というのがオリジナルプリントのムーブメントでしょうか。世の中での写真のあり方が変わってくる時です。報道や広告の新聞や雑誌に掲載する写真を撮るプロカメラマン、写真クラブの会員で写真を見せあっている人、アマチュアカメラマン、この区分が成立していた時から、その区分が崩れてくる時、1970年代から1980年代になって、プロアマという区分が、成り立たなくなったと考えます。仕事で報酬を得る写真家と売り作品をつくる作家(写真家)に区分してよいと思います。しかし、はっきりと区分できるわけではなく、カメラを持った各人のなかで、写真のあり方が混在します。

 

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1984年といえばもう35年も前になりますね。
フォトハウスを立ち上げたのが1984年11月でした。
そこに至る1979年には屋外での写真展を開催しています。
表現する写真を、展示する場について試みた方法のひとつでした。

既存の体制に対抗して「映像情報」というミニコミ誌を発行しだしました。
その後、学びの場、ワークショップの場、フォトハウスが創出されたのです。
現代表現研究所にいたる35年の月日を、いま思い出しているところです。
いつも新しい試み、表現の方法、その枠組みとか意味とかを考える器です。

カメラはデジタルに、環境はネット社会に、大きく変化している現在です。
いつも新しいツールを使い、新しい感動の方法を編み出していく必要があります。
今なら、何をどのようにするのが、今を生きる人にフィットするのか。
フォトクラブ京都の場は、フォトハウスを進化させた器だと思います。
※掲載の写真は1979年8月釜ヶ崎三角公園で行った青空写真展風景です。

 

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フォトハウスを設立して、翌年8月に写真ワークショップを開催します。
掲載した写真は二年目の写真ワークショップ案内で、ゾーンシステム第二期講座です。
里博文さんが英国で習得されてきたゾーンシステムを講座化して実行したものです。
オリジナルプリント、ファインプリント、写真作品をつくる風潮が高まっていた最中です。
主に大学のなかで研究されていた内容を、一般に開放する試みで、一年間のプログラムでした。

1980年に映像情報を発行しだした中川でしたが、翌年1981年に東松照明氏と出会います。
当時はまだフォトハウス構想は未熟でしたが、セッションを繰り返し、構想が成り立ったのです。
その構想を具体化するための呼びかけを行った結果として、成立したのがフォトハウスでした。
バウハウスのイメージが背景にあり、東松照明氏の足跡の延長上に成り上がってき企画でした。
その後、覇権争いみたいな渦があって、フォトハウスはほんろうされていきました。

 

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1986年には一年間のカリキュラムで、ファインプリント制作実習を順を追って実施しました。
まだ講座として成熟していないファインプリント制作のためのノウハウを講座化したのです。
フォトハウスはバウハウスをヒントにして構想された学びの枠組みでした
写真の講座で、ゾーンシステムの手順書を日本語で作って、テキストとしました。
ファインプリントの制作、という一連の講座を一泊二日の宿泊を伴ったワークショップです。

この年の開催場所は静原にある鈴鹿さんの家で、通しで開催させてもらったものです。
この一年の経験から、翌年には通年カリキュラムで、写真史・写真論なども組み込みます。
その後には年間カリキュラムの講座は開催できなくなって、ゾーンシステム講座を開催。
大原の鈴木さん宅では二泊三日から三泊四日コースになって、徹底研究をしていきました。
掲載写真は、暗室にてアーカイバル処理のための実習、講師は高橋則英さんでした。

 

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1984年に発表したフォトハウス構想で、反応はというとほとんどなく、無視された感じです。
東松さんは時期尚早だといい、大きなシステムに吸いとられてしまうだけだ、との見解でした。
それを振り切って発表したというのは、中川自身の存在を示したい欲があったと思います。
建築家の松本さんが興味を示され、京都新聞の坂井さんに記事を載せていただいた。

反応があり、最初のミーティングは松本さんの事務所で開催、十数人が集まりました。
でも、この構想のことを一緒に考え中身を創ろうという人はいなくて、孤立無援です。
途方に暮れたといっても過言ではないときに、里さんが一緒にやろうと言ってくれます。
ギャラリーDOTの岡田さん、静原に居住していた鈴鹿さん、この枠組みでスタートができた。

事務局をギャラリーDOTが担うことになり、ワークショップ会場は静原で行う。
ワークショップの内容は、ゾーンシステムを基にしたオリジナルプリント講座です。
里さんが英国に心理学勉強で留学していたときに、ジーンシステムを学んだというのです。
世界の写真の基礎勉強は、ゾーンシステムを学ぶところから始まるというのが里さんの見解。
1985年の夏に、一泊二日の日程で、静原にてゾーンシステム講座が開催されたのです。

夜朝昼の食事と宴席付き、宿泊付きで、費用は8千円としました。
駒村商会が一泊二日で5万円のゾーンシステム講習が東京で行われる前でした。
メーカー主導の講習会は盛会でしたが、内容はフォトハウスWSがよかった、とは里さんの弁。
この年は、ベティハーンさんのガムプリント講座を鈴鹿さん提案で開催して、美術家が集まった。
1986年は一年間のスケジュールで、毎月一回宿泊付きのワークショップを開催することなった。

 

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1985年8月に最初の写真ワークショップを開けたことで、存在への認知がひろがったと思います。当時、オリジナルプリント制作のための技術習得といえば学ぶ場所はほぼありませんでした。日大の芸術学部写真学科の原先生のもとで制作手順を作っておられて、学内誌や写真雑誌に公開されていました。里さんが英国で習得されてきたゾーンシステムに基づくファインプリント作りワークショップ。これがフォトハウスのフォトワークショップの基本としました。

ゾーンシステム習得講座として、基礎編、実践編、応用編とステップアップするカリキュラムを里博文さんを軸にして開発しています。それに「調色とアーカイバルプリントの制作(高橋)」「ポートフォリオの制作(山崎)」、いずれも実習ですが、同時に「現代写真の動向(平木、島尾)」「写真史(金子、飯沢)」、計画段階で「シルクスクリーン(小本)」の講座がありました。講師には、里博文さん、日大の高橋則英さん、PGIの山崎真さん、美術家の小本章さんが実習担当。平木収さん、島尾伸三さん、金子隆一さん、飯沢耕太郎さんが論客として参加されました。

実施したことの結果だけではなくて、ワークショップの生成過程を記しておこうと思います。東京の写真シーンで、70年代半ばから起こってきた新しい潮流は、インディペンデント系と呼べる潮流です。雑誌や新聞などで使う写真を撮るのがプロ写真家、という呼び方をするなら、写真クラブを構成している写真愛好家(アマチュア)の群があります。そこへ現代にいたる潮流としての流れが生成、形成されくる50年史の初期のころに発生した器として、フォトハウスはあったと思うのです。東京では1970年代半ばに東松照明さんらの写真ワークショップが開講され、そこから自主ギャラリーのムーブメントが起こりました。

1970年代後半から1980年代にかけて、若い写真作家や批評家が輩出されてくる土壌が作られてきたのだと思います。1980年代初頭に京都へ取材に来られた東松照明さんとの縁で、京都出身の平木収さんと知り合い、東京へ赴くと写真研究会なる会合に出くわし、親しくなって、京都でのワークショップにつながってきたのです。それから十年後にも、東京で活躍する作家や批評家が関西へ来るという現象が起こります。いわゆるIMIの枠組み、デジタルバウハウスを標榜する伊藤俊治さんの構想の実現化を、フォトハウス経験者の中川が事務局を引き受けました。







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最新更新日 2020.1.14

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