表現論ブログ

写真史の構成&映像論
 1〜5 2017.9.15〜2018.8.17

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フォトハウス表現研究所をこの9月1日付でネット上に設立しました。この研究所が主宰するフォトハウス表現塾を具体化して「学びの場」として構成していこうと考えているところです。そこでは表現のジャンルとして5ジャンルに分けています。絵画、写真、映像、音楽、文章。この5ジャンルですが、これらは統合されて、論じられて、表現の方法というものを導きだそうと思うところです。いま2017年ですが、この現在の表現ジャンルそれぞれの現状を、明らかにできないかと考えているところです。10月21日には「アルナイル」の場にて「フォトハウス表現塾」の立ち上げが起こります。塾というイメージで、研究の場を熟成させていこうとするものです。

 この表現塾においては、2018年3月までは、プレ開塾ということで毎月1回の開塾で、その都度、討議テーマを設けて、議論というか意見交換というか情報交換をしようと考えています。まだまだ未熟な組織なので、当面、誰がテーマを出すかというところで、主宰者の中川が得意とする領域でテーマを出そうと思います。表現全体のなかの静止画「写真」という表現物が創ってきた歴史を今に引き寄せ、振り返り、再検討していこうとするものです。6つの表題で仮テーマを決めたのでここに書いていきます。というのも中川のこれまでの展開から「写真」という表現に焦点を当てて考えたい。論述には、いくつかの系が考えられますが、ここではオーソドックスな、と思われる1950年代以降の写真史を軸にして組み立てたいと思います

討議テーマは次の通りです。
1「現代アートと写真の現在、その動向」 2017.10
2「コンポラ展の時代1960年代から、そして今」 2017.11
3「プロヴォーグの時代1970年代から、そして今」 2017.12
4「柄谷行人著「日本近代文学の起源」を読む」 2018.1
5「東松照明の軌跡とその周辺」 2018.2
6「関西の写真史、1950年代以降、そして今」 2018.3

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 フォトハウス表現塾のテーマで、全六回にわたって、写真という枠組みを歴史的な時間軸の中で明らかにしようとの試みを企てました。なによりも自分のための学び直しが中心ですが、この半世紀の歴史をかいつまんで論じようと思うところです。1960年代のアメリカで起こっていたことをとらえて「コンポラ展の時代1960年代から」続いて日本の1970年代、厳密にはプロヴォーグは1968年からの発刊だから、それも含め「プロヴォーグの時代1970年代から」としてしていて、日本の写真史の枠を確定していきます。そうして「関西の写真史」に及びますが、ここでおこなえる検証は、いわゆる写真写真の写真であって、アート的とかの写真はおおむね排除されてしまう結果となります。なので、続編では排除された写真と合流させて、全体を捉えられないかと思うところです。

 上記の三つの枠は、アメリカ1960年代以降、日本1970年代以降、関西1930年代以降、という設定で、2017年現在、今の写真作品の現れ方についての考察材料としたいところです。ところで、最初の枠が「現代アートと写真の現在、その動向」をタイトルにして、全体の出口として示唆するように仕向けたところです。四回目には文学評論の柄谷行人氏の論文「日本近代文学の起源」を文学という立場からですが、作家の内面史みたいなところで「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」などの論があって、その論が写真の流れをつかむにも適用できるのではないかとの考えで、取り入れたところです。次には東松照明の軌跡とその周辺」ということで、日本を代表する現代写真の作家と認定します東松照明さんの作品群、テーマとなった事象を見てみようと思います。と同時に東松照明さんの通り道におこる渦のなかにいた写真家などの仕事も取り上げてみたいと考えています。

 全六回のそれぞれのテーマを研究材料として提起しますが、この提起は中川個人の見識ですから、これを軸に、対抗軸を出していただくメンバーを頂きたいと思うところです。この六講の中身を軸にして、これを深めていく、これの周辺領域から他の解釈方法へ、あるいは商業写真やデザインとしての写真や心象主義的な写真や、様々に絡みながら、全体が作りあげられれば、と考えるところです。ぼくなんぞは、中途半端なままで、いっちょまえに論を語るわけですが、そうではなくて、批評というレベルで、論文を書かれ、あるいは論じられる人が出てこられることを希望するところです。写真=静止画という領域の現在的なありようを、どう解釈するかということが、いつの時代にも必要なことで、優れた批評家が優れた作家を生み出す、という仮説を提供したいと思うところです。

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<ご案内します>

日本写真芸術学会 関西支部第 6 回写真研究会
「1970年代以降の関西の写真の動向を考え、アーカイブスの方法論を探る:京都を中心とした写真活動について」


関西の写真家たちは、1970 年代以降にオルタナティブな活動を積極的に行ってきました。
あらゆるメディアや形態での写真活動を俯瞰し、自主ギャラリー、企画展、雑誌など、それらの資料をどのように収集し、保存すれば良いかを探ります。
今回は 1980 年代より京都を中心に写真家、写真評論家、写真教育など様々な活動を現在まで続けられている写真編集者の中川繁夫氏をお招きして、関西と京都を中心とした写真動向を振り返ります。ぜひご参加ください。

日時:2019 年 9 月 7 日(土曜日)
午後 5 時〜午後 7 時
(午後 4 時30分開場)
登壇者:中川 繁夫氏(写真編集者)

会場:ビジュアルアーツ専門学校大阪
VD1校舎(新館)7階7B教室
(大阪市北区曽根崎新地 2-5-23)

※阪急梅田、阪神梅田、JR 大阪、
地下鉄梅田、東梅田駅から徒歩 10 分。
地下鉄四ツ橋線西梅田から徒歩 5 分。
※会場には駐車場はございません。
参加無料 【事前申込み不要】
連絡先:jsahp.kansai@gmail.com
※ただし、9/7 当日のみ受付、午前 10 時〜午後 3 時
※会場への電話でのお問い合せはご遠慮ください


映像論

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映像を享受する立場

映像は、一枚の写真イメージが連続したもので、最初の映画が制作されてから120年ぐらいでしょうか。

1895年、パリにて公開上映されたようですね。
これは写真の技術発明が1839年、それから半世紀以上経ってから、機械が開発されることによります。
写真技術だってそうですが、それを構成させる機械、カメラであり映写機であり、これが必要でした。
それから120年を経て、これから観察していく現在的在りかたにまで及んでくるところです。
今の現状を、ひとことでいえば、ネットの時代にネットを通じて享受する、これが先端であると思います。

体験的に映像論を紡いでいけばいいと思って、自分を振り返りながら記述していこうと思います。
およそ半世紀の映像の流れが表わせればと思うところ、1960年代から入ろうと思います。
映画館で見る映画のことです。
1950年代半ばでしょうか、文献的資料を手元に置かないので記憶だけですが、日本映画です。
東映のチャンバラ映画と怪人二十面相、大映や松竹の文芸映画、東宝、新東宝、日活がありました。
全部で六つの映画制作会社があって、ぼくは京都の西陣において、その映画を見ました。

高校生になるのが1962年で、河原町界隈の映画館で洋画を見るようになります。
高校を卒業するのが1965年、それから数年間には、エロス系の映画を観に行きます。
封切館ではなくて、二番館といえばよろしいか、パートカラー映画三本立てとか。
まだビデオがなかったころで、レコードプレーヤーと45回転ドーナツ版とLPレコード。
8ミリ映画の映写機、そのうちテープレコーダーと磁気テープが出始めます。
ビデオデッキとビデオテープが世の中に出てくるのは1970年代の何時でしょうか。

ビデオカメラ、ビデオデッキ、ビデオテープ、この三点が個人所有できるのが1970年代後半。
1980年代の初めごろには、VHS方式が主流になって、ビデオデッキでテレビを録画する。
ビデオカメラが普及する裏側には、男女の内緒の場面を、カメラで録画することがあります。
出版物も、写真も、そうですが、男と女の出来事がいつも記録され、鑑賞され、残されます。
個人制作することも可能になりますが、それうよりもメディアを販売するルートが作られます。
書店で買う、ショップで買う、貸本屋があり、貸ビデオ屋があり、つまりレンタルショップです。

アダルトショップの話になるから、現在日本のここでは、不適切な内容なのかも知れません。
なので概略だけにしていきますが、性を扱う内容のイメージは、観るのに制限がかけられます。
映画館では18歳未満お断り、本やビデオテープもそのようで、その部分は修正して隠します。
ビデオテープの時代になって、個人で撮られて観られる以外は、専門の店頭では対面です。
それがネットの時代になると、対面ではなくなります。
つまり販売や提供する相手が見えないところで、契約が成立してしまいます。

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映像を提供する立場

写真や映像を、表現の方法として使う個人を、作家と呼ぶことにします。
タイトルは、映像を提供する立場、なので作家であることが基本です。
作家によって制作された作品は、いくつかの枠組みの中で他者に提供されます。
提供者が個人であるか組織であるか、有料なのか無料なのか、これの組み合わせです。
組織が有料で個人に提供する、個人が無料で個人に提供する、そのほか、です。
作家は、作品を提供する代償として対価を得ますが、これが基本形です。
プロ、アマ、という言い方は適切ではないけれど、対価を得るのがプロです。

ところで、今やアマチュアという言い方は妥当ではないけれど、無償提供があります。
写真なら展覧会、映像なら上映会、これらを企画して、有料にならない場が多くあります。
もちろん、無料という向こうに、有料という領域があって、そこに繋げられるかどうかです。
いやはや、まったく有料には繋がらないところで、無償提供する、そのこともあります。
提供する立場としても、個人生活において消費のための金銭が必要になるから、稼ぎたい。
でも、個人生活のための金銭は別のところで稼ぐから、作品では稼がない。
作品を扱うのにお金、金銭の介在が、大きな意味を占めることになります。

制作した作品がお金になるかならないかの議論は、いまのとこと置いておいておきます。
映像を提供する立場として、その内容、コンテンツのテーマ、これが大事です。
制作者の目的が、はっきりしていなければ、提供される方が、戸惑ってしまいます。
大きくは、劇場で鑑賞する映画、テレビで放映されるドラマ、商用につくられ作品です。
これらは大きな社会装置の中で作られていくので、個人としてはコンテンツ提供者です。
そうではなくて、個人が制作する映像、YouTubeにアップして、無料で提供する作品。
映像に限らず、絵画や写真、文学作品においても、社会システムのなかで、成立します。





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最新更新日 2020.1.8




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